名称不明の彼女と、俺

 血煙が明けると、数メートル先で少女が白スーツの男に組み敷かれていた。首を締められているのか、彼女の表情は苦しく余裕は無さそうだった。

「もう少し育ってりゃ皆で玩具にしてやったのによぉ……ガキの趣味はねえから消えてもらうぜ」

 サングラス越しの瞳は血走り、殺気に満ち満ちている。あと幾ばくもなく、少女は息絶えるだろう。

 ああ……漫画みてえなゲス野郎だ。年端もいかない女の子に跨って絞め殺そうなんざ……紳士のやることじゃねえよな。人のことは言えない俺でもあまりの外道さに虫唾が走り、拳を握った。


 いや、ちょっと待て。

 


 逃げ回った汗が、焦燥に滾る血液が、走った後の高揚感に沸く筋肉が――すべて千々に散り炭と化した傷口に収束していくような、不思議な感覚に陥った俺は、

 まだだ。まだ足りない。怒りが、熱が、あらゆる快楽と疲労を司る数多の物質が――

「あぁぁぁぁああぁぁぁあ!!」

 猛り一足駆け出すごとに、背筋に走る恐怖と興奮がバラバラになった細胞に染み渡り――五体が再生していく。

 俺は全力疾走の勢いのまま、白スーツの男に飛び蹴りを食らわせた。

「……っ、ダッシュ……!?」

 咳き込む少女は、銀灰色の瞳を驚愕に見開き俺を見上げる。

「悪魔め……私は確かに爆殺したはずだが」

 慄く声に呼応するように、皮膚の下の骨格が筋肉がボコボコと沸騰するように蠢いた。我ながら化け物じみた様相の俺は脊髄反射で理解する。

 ――あー、これ

 炎のように熱く滾る傷口は完全に塞がり、生まれたての上半身晒した俺は男が落としたらしい未使用の手榴弾を拾い上げる。

「あぁぁぁなんでか俺には分からねえぇぇ……けど、!!」

「あの人体増強剤は細胞を活性化させ興奮状態におくだけのもののはず……これではまるで」

 震える口元が「不死身のよう」とだけ言っている。ああそうだ。血湧き肉躍る感覚アドレナリンが、俺の溶鉱炉にくべられて燃え盛る。

「昔ぁ“目には目を“って言ってたよなぁぁぁ……じゃあ手榴弾には手榴弾で返さねぇといけねえよなぁぁぁぁ!!?」

「ひ――」

 猛り狂って手榴弾ごと拳を握り込み突っ込んでくる俺に恐れをなし、男は胸の拳銃を迷わず抜いて連射した。

 しかし痛々しく皮膚を割く銃痕は飴細工のようにぐにゃりと溶けて消えていく。

 こんなちっちぇ鉛玉で俺を殺せると思うな!!

「手 榴 弾 パンチ!!!」

 叫びと共に安全ピンに齧り付いて引き抜き、渾身の力を込めて男の顔に叩き込む。

 ゼロ距離の轟音と業火は、俺の右半身と目の前のゲス野郎を飲み込んで爆ぜ散った。


 後には岸壁の染みになった男とその欠片、そして無傷の俺だけが残っていた。



「無茶苦茶だ……」

「無茶苦茶格好良かったろ」

「黙れ、ダッシュ」

 再び静かになった港で、五体満足な俺と少女は穏やかな波に揺られるボートをぼんやりと見つめていた。

 すっかり身体の火照りは冷め、心地よかった疲労は重怠くランナーズハイの終わりを告げている。

「お前を追う者はいなくなった……私が逃亡を手引きをするのはここまでだ」

「待てよ! この不死身になっちまった俺のこと気にならねぇの? ねぇ頼む寂しいから気にして!」

 取り縋る俺に、やはり少女は厳しい。

「お前が目の前から消えないのなら私が消える……今宵のことは忘れて勝手に生きろ。じゃあな、ダッシュ」

 そう言うなり迷わず踵を返し、本当に俺を置いたまま倉庫群を駆け抜けて行った。後には空っぽのボートと行く宛てのない俺だけが残された。

 2人きりの逃避行の余韻を夜明けの海風がさらっていき、俺はポケットに仕舞っていたをそっと取り出す。

「俺の手癖の悪さを舐めんなよ」

 逃げてる際、ほぼ無意識で彼女からスリ盗った小さな手帳だった。この上ないスリルに恐ろしく美しい少女との逃避行、そのどちらも一夜限りの夢だと思いたくなかったからかもしれない。

 開きぐせのある表紙を捲ると、すっかり見慣れた少女と共に何やら個人情報的な記載があった。


【識別名:****】


 アスタリスクだらけの個人情報欄に眉を顰める。何だこれ、大事なことなんかほぼ伏字じゃねえか。

 人のことを“ダッシュ“だなんてふざけた名前で呼ぶあいつのことだ。俺からも勝手に呼ばせてもらおう。

「アスタリスク……長ぇな、“アスタ“って呼んでやろ。次会ったら」

 手帳を閉じて白む水平線を見つめ、俺は誰もいない海に呟いた。

 長い長い逃避行の果てに、騒がしい夜がようやく明けようとしていた。



 この後夜が明け切って、今度は俺がアスタに地の果てまで追われることになるのは、また別の話だ。


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ダーティー・ダッシュ・ランナーズハイ 月見 夕 @tsukimi0518

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