ダーティー・ダッシュ・ランナーズハイ
月見 夕
さよなら、俺
もう駄目だ。
最後の1本を吸い終わった俺は吸殻を床に捨て、汗ばむ手で荒縄の輪を首に掛けた。縄のもう一端は個室の唯一の出入り口である頑丈なドアノブに短く括りつけられており、つまり俺は逃げ込んだラブホテルの床で汚いドアノブと仲良く心中するつもりで震えていた。
「おい開けろコラァ!!」
「ひッ」
13階のこの部屋に逃げ場などあるはずもなく、為す術ない俺は扉の向こうの恫喝に怯えるしかない。
荒々しく戸を叩く音は廊下中に響いているはずだが、しかし願いも虚しく警察やら従業員やらが割って入って来る様子もない。まあ所詮ラブホだしな。他所の喧騒なんか放って宜しくやってることだろう。クソったれ。
しかしどうもこうも、この逃避行は俺の手癖の悪さが招いたことだ。我ながら呆れる他ない。
ガキの頃から息を吸って吐くように万引きや窃盗を繰り返してきた。もはやライフワークと言ってもいい。大事に抱えた鞄からどうやって財布だけスリ盗ろうとか考えるとワクワクしないか? しないか、普通。
困窮して止むを得ず手を染めるんじゃなくて、単にスリルを楽しんでいるから始末に負えないよな。ん? 一から十まで俺の話だよ。
だがまあ、今回はしくじった。相手が悪すぎたんだ。
まさか三日三晩もあんなヤバそうな奴らに追われるだなんて思いもしなかった。俺のことを「殺す」とか「いや生け捕りだ」とか言い争いながら血眼になって追ってくるんだ。ただのビジネスバッグを盗られたぐらいで、そんな物騒な言葉を吐いていい理由にはならないはずだ。この法治国家ではな。
だが後悔も時既に遅し。
怒号混じりの
なんかもう、逃げるのに疲れてしまった。
今ならまだ、自分で終わりを選ぶことができる。
首の縄に体重を掛ければ、俺を追う何もかもから逃れられる。
さよなら、俺――
目を瞑り、疲労と睡魔に身を委ねゆっくりと背中の力を抜きかけたその時。
風呂場の方から、何か砂の詰まった袋でも落ちたような重たい物音がした。そのまま何かを引き摺る音がこちらへ近付いてくる。
まさか追手の奴らが浴室換気口から、と身構えた。が、俺の頭上に降りかかったのは、
「お前だな、顧客No.88911」
鈴のような、凛とした声だった。
驚いて顔を上げると、ダークスーツを隙なく着込んだ銀髪の少女が冷たい瞳で見下ろしていた。黒手袋の細い指が手帳を捲り、彼女は何かを確認してうむ、と頷いた。
「だ、誰だお前」
「名を名乗れ」
精一杯の疑問を短く切り捨てられ、俺は言葉を詰まらせる。名を名乗って欲しいのはこちらの方だ。どう見ても目の前の少女は10代半ばかそれくらいのあどけなさを残した面立ちだが、纏う空気は大人の俺にすら有無を言わせない圧を感じさせる。絶対カタギじゃない。
追手か、或いは。
「本人確認だ。名を名乗れ、3秒以内に」
「……へ」
「早くしろ、奴らに殺されたいか」
「
頷いた彼女は突如俺の胸倉を掴んで引き寄せた。鼻先が触れ合う距離で、俺達は見つめ合う。
うわ、すっげえ美人。灰褐色の深い輝きを湛えた瞳がほぼゼロ距離で俺の目を覗き込む。星屑を
思わず止めた息に心拍が重なって苦しくなった頃、彼女はようやく顔を離した。
「外見的特徴に相違なし。虹彩確認、本人と断定」
少女は顔色を変えずにそう言い、そして淡々と告げる。
「私は依頼を受けてお前の存在を消しに来た」
「君みたいな美人に殺されるなら本望――」
「選べ。このまま扉の向こうの奴らに捕まり凄惨な拷問をされ尽くして殺されるか、今ここで死ぬか」
俺の渾身の
「どっちにしても死ぬの確定じゃん……」
「早くしろ、時間がない」
す、と細めた瞳にはほんの少しだけ苛立ちが滲んでいる。
どう先延ばしても
「分かった……なるべく苦しまないように……お願いします」
結局死ぬのか俺は。
でもせめて死に方を選べるなら、屈強な男達より美少女の腕の中がいい。
俺は再び諦めて頭を垂れたが、
「承諾と取った。これより業務を実行する」
その言葉とほぼ同時に、首筋にチクリと小さな痛みが走った。驚いて顔を上げると、空の注射器を手にした少女と目が合った。何か打たれたらしい。
「今この瞬間からお前の名前はなくなった。名前だけでなく年齢、戸籍――そして顔も」
「は、今なんて」
少女は袖から素早く取りだしたナイフで俺の首筋をさらい、荒縄を切り落とした。てっきり頸動脈をやられると身を竦めた俺は何が起こったのか分からず硬直した――が、次の瞬間首から上に走る痛みと熱に思わず
咄嗟に両手で顔を覆うと、皮膚の下の脂肪、筋肉、骨がボコボコと泡立つように蠢いている。何だ、何が起こってる?
「服を脱いで、これに着替えろ」
俺に襲いかかる苦痛と戸惑いを差し置いて、少女は黒ずくめの衣類を取り出した。肌を徹底的に露出させないそれは防刃仕様だった。ご丁寧に同じ素材の
彼女の言う通りにそれら全てを身に付ける頃には、顔の痛みは引いていた。
着替えているうちに、少女は何かを風呂場から引き摺って来ていた。端正な顔立ちを少し歪ませて運んできたのは、紺色のずた袋だった。
手早くファスナーを開いたそこに収まっていたのは、
「え……俺!?」
紛れもなく俺――の死体だった。濁った瞳のそれは、物言わずただ薄暗い間接照明に照らされて俺達の足元に転がっていた。
少女はうむ、と頷き、扉まで死体を引き摺っていく。
「身代わりだ。今回もよく似せてある」
もうひとりの俺の首に縄を掛けるその灰褐色の瞳は少しも揺らいでいなかった。
背筋が芯から冷えた俺を見上げ、彼女は言い聞かせる。
「いいか聞け、お前を奴らから逃がすのが私の仕事だ。お前はそれだけを理解して、私について来い」
少女はそう言うが、目の前に転がる
この死体は誰? 合法的なヤツ? いや合法的に死体を持ち歩く状況なんかねえよ。そして今回もって何?
怒涛の如く頭の中を疑問符が飛び交うが、今は全てを飲み込むしかない。
やっぱり、俺はまだ死にたくない。
「さあ来い、こっちだ」
短い荒縄にぶらりと提がった身代わり死体付きの扉を振り向くと、タックルでもしているかのような鈍い音が鳴り響いていた。あれでは突入までもう数分と持たないだろう。
早く、と急かす少女は来た時と同じように風呂場へと向かう。換気口を抜けて逃げる気か。
鎖に繋がれた俺は死に場所になるはずだったラブホの一室に別れを告げ、慌てて謎の少女の後を追った。
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