用法用量を守れなかった、俺

「ここはどうだ」

「普通に痛え」

「じゃあここ」

いってえ! お前ちょっと刺してんじゃねえか! 血出ちゃったじゃん……」

 少女が俺の手の甲に突き立てたボールペンは0.5mmの刺し傷を作った。じわりと血が滲む傷口はいつまで見つめていても塞がる気配はない。

 ボールペンを胸に仕舞った少女は俺のクレームも意に介さずふむ、と小首を傾げる。

「お前さっき変な薬打っただろ、絶対あれの副作用だって」

「いや、あれは首から上の皮膚と骨格をイジる薬だから、傷の修復はできないはずだ」

「じゃあ何で」

「まあ良いじゃないか、大事は無かったんだし。行くぞダッシュ」

 マジで俺の呼び名を「ダッシュ」にすることにしたらしい。彼女は途端に興味を失ったように立ち上がった。自分の身体じゃないからってそんなご無体な。

 しかしいつまた追加の追手が来るとも限らず、走り去る銀髪を追いかける他ない。

 夜風ですっかり冷えた血塗れズボンを履いたまま、額の汗を拭った俺もまた駆け出した。


 ビルの影を抜け裏路地を伝い、ようやく辿り着いたのは静かな港だった。打ち捨てられたような寂びた物流倉庫がポツポツと並ぶ脇を走り抜けると、ようやく「ゴールだ」と言わんばかりに岸壁に小さなモーターボートが浮いていた。

 少女がその前に立ち止まると同時に、俺も堤防に倒れ込む。体感で総距離10kmは走っただろうか。

 大粒の汗がコンクリートにボタボタとシミを作った。褒めて。運動不足でここまで走ってきた俺を誰か。

「さあダッシュ、ここでお別れだ。ボートに乗り予めセットした方角へ進むこと3分後、提携先の連絡船が拾う手筈になっている。その先でまた指示を仰いで、明朝までに国外へ脱出しろ」

 まあ労いの言葉がかかることなどなく。少女は最後の手筈を淡々と伝える。

 いやちょっと待て、いまなんて言った?

「え、俺国外逃亡すんの!?」

「ああそうだ。国内に残ったら足がつくのは目に見えている。一応偽造パスポートくらいはアフターサービスで付けてやるから、出た後はブローカーづてに東南アジアにでも、アフリカにでも好きな所へ行け」

 待って待って理解が追いつかない。東南アジアって何語よ? 英語すら喋れないのに……絶対合法じゃなさそうだし、もしかしてもう日本には戻れねえの?

「迷惑かけたマスターに……せめて最後に謝りに」

 思わず出たのはそんな言い訳だったが、少女の面倒臭そうな溜息がそれすら切って落とす。

「まだ理解していないようだが、お前はもうんだよ。私の誘いに乗った時点で。この国のどこにも、元のお前が生きて戻れる場所はない」

「でも――」

 ちょっとイラッとして食い下がろうとした矢先に、闇夜に通る声が俺達の諍いを遮った。

 しまった、追加の追手か。

 驚いて振り向いたそこには、

「やあ子ネズミの諸君。今宵は月明かりのない良い夜だ」

 新月の下でぼんやりと浮かぶ白いスーツの男が立っていた。



「くそ……気がつかなかった」

 舌打ちをする少女を嘲笑うように、追ってきた男は低い声を投げる。

「やあコソ泥くん……君が盗んだあれはこちらの息がかかった研究所に作らせた新薬でね。できれば返していただきたいのだが」

「人違いだろ!? 薬なんか何処にも――」

「ああ分かってるよ。君の死に場所には残りカスしか無かったから。使ってしまったのだろう?」

 男はポケットから吸殻を摘み出した。

 ただゴミでしかないであろうそれには、残念ながら見覚えがある。俺の死に場所になるはずだったホテルの一室で最後の一服にと吸った紙巻煙草だった。

 残念そうに、白スーツの男はサングラス越しにそれを見つめる。

「人体増強剤――と名付けるつもりだったんだ。ほぼ実用段階だったのだが……あれが世間に出回ってはまだ困るのだよ」

 煙草型の薬なんてあんのかよ……。なんだって(事故含め)一晩で何種類も投与されなきゃならねぇんだ……。

「あれは戦地にこそ相応しい代物だ。肉体を極限まで興奮状態にさせ、刃も弾も通らない身体のまま三日三晩不眠不休で進軍することが出来る」

 男の話にひとつだけ引っかかった。大量投与オーバードーズも良いとこな量を吸っちまった俺だが、ここまで走ってくるのに疲労困憊になってんのは何故だろう。薬効を実感出来てないんだけどそれは良いのか。

 男は俺の戸惑いも置き去りにして語り続ける。

内戦国取引先に試薬を引き渡そうとした矢先につまらないスリに遭ったわけだ。まあ幸いにも流出せず、君ひとりの身体の中にしかないということだから――」

 男は白スーツのポケットから素早く取り出した一掴みのそれの、線のような何かを引き抜いた。

「君を消せば丸く収まるということだ」

 言うが早いか手中の塊を投げ込まれ、嫌な予感がして俺は咄嗟に隣の少女を突き飛ばす。

「ダッシュ――!」

 驚いたような彼女の灰褐色の瞳と目が合い――ああやっぱり綺麗だなんてぼんやり考えて――拳大の手榴弾が、俺の首元で炸裂した。

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