スタートの条件

帆尊歩

第1話 スタートの条件

「では、失業保険の支給は今回で最後になります。一応書類は、二年間保存しておいてください」ハローワークの職員の言葉が事務的に響いた。

ここから完全に収入がなくなるのだ。もう少し神妙な言い方をしても、バチは当たらないだろう。

でも同じ事を言われている人は、驚くほどたくさんいる。

事務的にならざる終えないか。

会社はリストラで辞めたので、会社都合と言うことになった。

普通は三ヶ月の待機期間があり、その後150日支給だ。

でも僕の場合、会社都合なので、すぐに受給開始で220日、それが今月で終わった。会社を辞めると驚くほどお金が掛かる。

住民税や所得税は、昨年の実績で請求が来る。

会社が給料から天引きしていた物を自分で払うのだ。

厚生年金を国民年金に変えると、いかに会社が多く払っていてくれたことかが分る。

健康保険もしかりだ。

会社を辞めても任意継続が出来るが、会社が半分出してくれていた事は辞めて実感した。

まあそんなこんなで、雇用保険のお金はさほど残っていない。

僕は一番質の悪い失業者だ。

独身で三十年働いたので、少しばかりの蓄えがあり、さらに親の残した家がある。

おかげですぐに職を探すと言う危機感がなく、退職して一年近くブラブラしてしまった。

失業が一年近くなってくると、つぎの仕事に腰が引けてしまう。

両親は既に無く、天涯孤独の五十五歳、中年ニートの引きこもりだ。


収入が最後の日ということで、僕はハローワークの帰り、チェーン店のとんかつ屋でカツ丼を食べて帰って来た。

最後の贅沢のつもりだ。

すると家の前に、若い娘がいる。

最初なんかの飛び込み営業かと思ったが、あまりに普段着すぎる。

「あのー、うちに何か」後ろから声を掛けると、娘が振り返った。

明らかに顔が怒りに満ちている。

「山根光太郎さんですか?」

「ああ、そうですが」

「私、鈴森結菜と言います。鈴森加奈子の娘です」

「加奈子?」それはひどく懐かしい名前だった。

僕がまだ名古屋にいたときの同僚だ。

一時期、僕は加奈子のことが好きだった。

加奈子もまんざらではなく、一緒にカラオケに行ったり、夕飯を食べに行ったりした。

僕は加奈子と付き合いたくて、一緒に京都観光をしたりもした。

これで加奈子は、僕の彼女になるなと確信した。

そして僕は、いつしか加奈子との結婚を考えるようになった。

でも加奈子は、その直前で他の男と結婚してしまった。

もう二十五、六年前の話だ。

二股を掛けられたと言うことではない。

僕だけが、関係が発展していると思っていた。

でも加奈子からすれば、僕など仲のいい先輩で、一緒にいることが多いだけの友人だったのかもしれない。

僕は結菜を家の中に招き入れた。

茶の間に通してお茶を出す。

「君は加奈子の娘なの。そういえば、なんか面影があるな。いくつ?」

「二十四です」

「おお。じゃあ僕が初めて出会った時の加奈子の歳だよ。そうか、お母さんは元気?懐かしいな」

「あの」

「えっ」

「何なんですかその反応」

「えっ、なんか問題が。と言うかそういえば、なんか怒っている?もしかしたら留守だったから?でもいきなり来たら、留守ということだってあるからね」

「調子狂うな。なんか言うことはないんですか」

「言うことって?」

「すまなかったとか、申し訳ないとか、ごめんなさいとか」

「全部謝る事、僕がなにかした?」

「ママは本当に苦労したんです。私を育てるために、でも力尽きた。ママは私の前で頭を下げたんです。(大学は諦めて欲しい)と。別に大学なんてどうでもいいんです。いえ高校だって、うちの経済状態では、本当は私が中学を出て就職するべきだったんです。でもママは本当に無理をして、私を高校に行かせてくれた」

「そうか。大変だったんだね」と僕は感想を述べた。

「何ですか、その人ごとにみたいな言い方は」

「いや、人ごとと言えば人ごとだし。すでに僕と加奈子はなんの関係もないし」

「ふざけないでよ。離婚したら関係ない?じゃああたしは?ママとは他人かもしれない

けれど、あたしが娘であることは変わらないはずでしょ。なんでよ、なんでそんな赤の他人のような顔が出来るの。養育費だって事情はあるかもしれない、でももう少しママのために、何かしてくれても良かったんじゃない」

「ちょっと待って。娘ってどういうこと」

「まだとぼけるんですか。娘が尋ねて来たのよ」

「いや、君は加奈子の娘なんだよね」

「だから、ママの娘と言うことは、あなたの娘でしょう」

「なんでそうなるの」

「だってあなたがママと結婚して、私が生まれて、離婚したんでしょう」

「いや、ちょと待って。僕は加奈子と結婚していない」

「じゃあ、子供だけ作って逃げたの。もっとひどい」

「いや、だから僕は加奈子と付き合っていたし、加奈子と結婚したいと思っていた。でも、僕と加奈子の間にそういう関係は無かった。だから、僕の知らないところで僕の娘が生まれたとか、そういうことは無いはずなの」

結菜の動きが止まった。

まさにフリーズだ。

しばらくすると、まるで金縛りから溶けたように、結菜はスマホを出した。

「加奈子に電話するの。だったらスピーカーにしてよ」スピーカーにしたスマホから、呼び出し音がなる。

「ちょっと結菜。どこに行っているのよ。いくら会社が倒産して暇だからといって、遊び歩いているんじゃないわよ」スピーカーから懐かしい、加奈子の声が聞こえる。

そうだ、このマシンガントークが加奈子の持ち味だった。

「ねえ。ママ、あのね、あたし今、パパの所に来ているの」

「えっ、パパ?、英二の所にいるの?」

「英二?ママ、パパの名前って」

「だから英二、佐野英二」

「じゃ、山根光太郎さんというのは」

「山根?光太郎。ちょっとあんた今、山根さんの所にいるの?」

「うん」

「なんで、結菜が山根さんの事知っているのよ。ママ話したっけ。いや、パパの事だって話していないんだから、山根さんのことなんて、言うわけないわよね」

「ねえ、ママ、山根光太郎さんは、私のパパではないの?」

「えっ、何言っているの。山根さんがあんたのパパなわけないじゃない。あんたのパパは佐野英二」

「だって山根光太郎さんの年賀状だとか、たくさん出てきて」

「それは、パパの物は結構捨てたから。たくさんあるように見えたんでしょう。ちょっと山根さん、そこにいるの?」

「ああ、いるよ。お久しぶり。元気にしていた」

「あっ、お久しぶりです。あの、そこにるのが私の娘の結菜です」

「うん、さんざんなじられたから、分かっているよ」

「すみません。私が実の父親の事を話さなかったから」

「いや、誤解が解けたならいいよ。可愛い娘だね。出会ったころの加奈子そっくりだ」

「そんな。あのあとすぐに生まれて。旦那とは一年くらいで離婚して」

「そうなんだ。結菜ちゃんが言っていた。随分苦労したみたいで、大変だったね」

「いえ、でも旦那が事業で失敗して、多額の借金を背負って。あの人、私たちに累が及ばないように離婚したんです。だから養育費とかが滞っても、なんか請求できなくて」

「そうなんだ」

「ママ、じゃあ、その佐野英二の住所を教えてよ」

「仮にも実の父親なんだから、呼び捨てはやめなさい」

「でもその人のせいで、ママは散々苦労させられたんでしょう」

「でも、パパと離婚していなければ、もっとひどいことになっていたのよ」

「そうなんだ」

「でも、まあいいわ。せっかくだからパパに会ってきなさい」結菜は、佐野英二の住所を加奈子から聞いて、電話を切った。

僕らは茶の間の座卓にむきあわせで、見つめ合った。

どうにも気まずい。

「会社、倒産したの」

「えっ、ああそうなんです」

「そうか、僕も会社、リストラにあって、今は無職なんだ」

「なんか、すみませんでした。早とちりで、ひどいことを言って」

「ああ、まあ」

「あの」

「なに」

「この住所分りますか」結菜は加奈子に聞いて、メモした佐野英二の住所を僕に見せた。

埼玉県だった。

ここは東京と言っても、神奈川よりなので、そこまで遠くはないが、近くもないと言う感じだった。

「これから、会いに行くの?」

「ここまで、どれくらいありますか」

「そんなに、近くない。もう夕方だから、会いに行くなら明日の方が良いと思うよ。向こうの都合もあるだろうし」

「そうですね。どうせ無職で、暇だから」そして結菜は本当の父親に電話した。

結菜の本当の父親、佐野英二の住所は会社の寮だった。

自動車メーカーの期間工として働いていた。

三交代制らしく、明日は、午前中なら時間が取れると言うことだった。

「僕も無職で暇なんだ。明日、一緒に連れて行ってあげようか。加奈子の娘なら、放っておけない」

「良いんですか。それなら心強いですけれど」

「うん、分った」

泊めてやっても良かったけれど、何しろ親子ではないし、さすがに二十四の娘を五十五歳の男の家に泊めるのも、色々問題があるかなと思って、駅前のビジネスホテルに連れて行った。


次の日、約束のファミレスに現れた佐野英二は、痩せギスの疲れ切ったオヤジだった。

まあ、僕も人の事は言えないが。

でも、なんと歳は僕より三つ下だった。

「結菜、結菜なのか。大きくなったな。別れたときはまだ二歳で、お父さんのこと覚えていないか」

「はい、ごめんなさい」結菜は冷たく言い放った。

「ところで、そちらの方は」

「山根光太郎と言います。加奈子の元彼です。加奈子は僕を振って、あなたと結婚したんです。この子があなたと間違えて、僕の所に来てしまった。乗りかかった船で、付き添って来たという訳です。だから何の関係もないので、気にしないでください」まあ、気にはするよね。

「ああ」と佐野英二は分ったのか分らないのか、分らない反応をした。

適当にドリンクバーを注文して、しばらく見つめ合うことになった。

結菜の昨日の僕に対する剣幕とは打って変わって、おとなしい。

加奈子が話した事業の失敗、大きな借金という当たりが影響しているんだろうなと思った。

「今日はお父さん、いや俺の事をお父さんとも呼びたくないかもしれないが」結菜は黙っている。

「今日は覚悟して来た。結菜に何を言われようと。言い訳をするつもりもない。全面的にお父さんが悪いんだ」

「あれから、どうしていたんですか」間を置いてから結菜が口を開いた。

「あれから?」

「ママと私を捨てた日から」

「捨てた?」そこで英二は言葉を切った。

きっと捨てたと言う認識ではなかったのだろう。自分としては加奈子と結菜に累が及ばないように、避難させたくらいの感じなんだと思った。

まあでもそれは、結菜も昨日の加奈子との話で分っているはずだけれど。

「まあ、なんと言われようと、俺のせいだから」

「今は何をしているんですか」

「今は期間工をしているよ。寮もあるから、手取りもそれなりに良いんだ。でもほとんど返済に回っているので、だから君たちに送るお金もそれほど多くは送れなかった」

期間工は、非正規の工場労働者だ。

正社員ではないので、契約期間があり身分を保障される物ではない。

でもその分、割と給料も良く、寮もあるので、金を稼ぎたい若者には人気があるが、やはり工場で、特に自動車メーカーなどでは、重い部品も多いので力仕事も多い。あまり歳をとるときつい仕事だ。

「そうなんですね」

「結菜、いや結菜さん」

「良いですよ、娘なんだから結菜で」

「そうか。高校は行けたんだよな」

「はい」

「大学は?今は何をしているんだい。もう二十四だよな。大きくなった」

「大学は行きませんでした。高校を出て就職しました。でも、先月その会社が潰れて」

「そうか、大変だったね。でも会いに来てくれて本当に嬉しいよ。どんなになじられようと結菜に会えたことは本当に嬉しい」

「本当は私、ママと私をこんなめに合わせたあなたに、文句の一つでもと思って来たんです。でもなんか」

「こんなに貧相なオヤジになっていて、驚いたかい」

「いえ、でもあなたの事をはっきりさせないと、私も新しいスタートを切れないと思って、だから、ママと年賀状のやりとりをしていた、この山根さんがお父さんだと思って文句を言いに来たんです。でも違った」

「山根さんは、俺の前に加奈子と?」

「いや別に何もありませんよ。一方的に振られた身ですから」

「今は何を」

「リストラに合って、無職です」

「ああ。そうなんですね」

「全く、私の回りは、どうしてそんな大人ばかりなのか。リストラで無職の山根さん。シングルマザーでワーキングプアーのママ。借金持ちの期間工のパパ。挙げ句の果てに、やっと入った会社が倒産して無職の私」

「確かにね」と僕が共感する。本当に何でこんな大人ばかりに、この娘は囲まれている。

「でも条件はそろった」と結菜が言い切る。

「何の条件」と英二が言う

「それはパパ、新たなスタートの条件よ」はじめて結菜が英二をパパと呼んだ。

「新たなスタートの条件?」と僕が尋ねるように言う。

「何の躊躇も、迷いもない。もうここからスタートするしかない」

「ここからのスタートか」

「パパ、謝金はあとどれくらいあるの」

「まだ結構ある」

「じゃあ、がんばって返して。また遊びに来るから」

「えっ。あっ、ああ」

「山根さん」

「はい」

「いい大人がいつまでも無職はかっこ悪いですよ。仕事探してください。別にアルバイトでも構わない」

「ああ、はい、分りました」

「ママにも、もっと前を向いて歩いてもらいます。そして私は、一日も早く新しい仕事を見つけて、絶対幸せになります」

「そうだね」何だか、自分の娘でもないのに、何だか応援したくなる。

「良いですか、二人のパパ、ここからがスタートよ」

「えっパパ?僕の事」

「そうですよ。もう山根さんも私のパパみたいな者です」

「何だかちょっと嬉しいな」

「なら仕事を探して、新たなスタートを切ってください。そして報告してください」

「分りました」


結菜は名古屋に帰って行った。

スタートを切った娘を僕ら二人の父親は、頼もしく見送った。

そして僕らも握手を交わして、別れた。


何だか僕の中にも、新たなスタートが切れそうな予感が湧いてきた。

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スタートの条件 帆尊歩 @hosonayumu

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