花冷えの頃

東 里胡

第1話

「また、雨」


 三月半ば、リビングのカーテンを開けた瞬間に、ついてでた愚痴のような独り言。

 しとしとと静かに降る雨は、桜の蕾を窮屈にすぼませてしまうだろう。

 せっかく数輪、咲き始めたばかりなのに。

 春だというのに寒い日、花冷えの頃、寒の戻りともいう。

 昨日、天気予報でわかってはいたものの、予想が外れてくれることをこっそり願っていた。

 いや、この佳き日に、同じ思いを抱えている人は、きっとたくさんいるはずだ。

 昨日と同じように、朝ごはんの支度をする。

 いつもと何ら変わりのない一日の始まり、だけど今日は六年ぶりの特別な日。


「おはよ、寒いな」


 私もそうだけど、いつもより一時間も早く起きてきた夫は、すぐにエアコンをつけて、部屋を暖める。

 自分のためだけではない、次に起きてくる寒がりの娘のためだ。


「なんでだろうね」


 お味噌汁の出汁をとりながら、夫に向かって投げかけた言葉。


「なにが?」

「絶対、多いのよ、あの子たちの年代には雨女と雨男」


 私が何を言いたいのか気づいた夫は「ああ」と苦笑した。

 夫の脳裏にも浮かんだのだろう。

 六年前のあの日、季節外れのみぞれが降りしきる中、スーツとは不釣り合いの長靴を履いて歩いた日のこと。


「あの日よりはマシか」

「まあね、小降りだし。さすがに長靴はいらないかも」


 妥協するように、苦笑し合う。

 まだ少し、娘が起きるまでは時間がある。

 二人分の珈琲を淹れて、ニュースをチェックする夫の隣に座る。


「なんだか、感無量じゃない?」

「そうか?」

「え? 絶対、泣くくせに。私より先に泣いちゃうくせに」

「言うなよ」


 からかわれた夫が、フンっと鼻を鳴らす。


「明日から、小学校に行かないんですって! 不思議よね」


 リビングの片隅に置かれた赤いランドセル。

 ピンクや水色を買うつもりだった娘が、迷いに迷って選んだものだ。

 最後に背負いたいと言うものだから、昨夜ランドセルカバーを外してあげたら、思いのほか新品みたいな色をしていた。

 カバーの方はずいぶんとくたびれていて、六年という月日を物語っていたけれど。


「本当に早いな、あっという間だった」


 リビングの棚に並ぶ家族写真に目を向ける夫。

 私も視線を向け、順に目で追う。

 どの写真にも、私や夫が少しずつ年をとっていくその真ん中で、すくすくと育った娘の笑顔が咲き誇っている。

 生まれたばかりの頃、はじめてのお誕生日、七五三、幼稚園の入園式、小学校入学式。

 ついこの間のように感じてしまうのに、あれからもう六年も経つのだ。

 ピカピカの赤いランドセルを背負って、うれしそうな顔をした娘。


「最近さ、君に似てきたよね」

「うん、自分でもそう思う。生まれた時は、あなたにソックリだったのにね」


 娘が生まれた時に買ったデジカメが最近バグを起こす。

 私を写そうとすると、検索機能で娘の名前が表示されるらしい。

 卒業式を前に私で試し撮りをした夫が爆笑していた。

 夏の花火大会、夫に肩車をしてもらっている写真の娘は、小学校二年生くらいかもしれない。

 この頃はちゃんと娘と私とを認識していたというのに。

 懐かしさに目を細めながら、ふと思う。


「最後に抱っこしたのっていつだっけ?」

「ん~……、ふざけておんぶはあるけど、抱っこ? もう大分前だよね。二年生くらいか? 車で眠っちゃって、ベッドに運んだの。それが最後だったような?」

「パパでそれくらいなら、私はもっと前かも。一年生の頃? ううん、幼稚園の頃かもしれない。もう絶対に抱っこなんかできないね、重そう」


 つい最近、私は娘に身長を抜かれてしまった。

 顔は私に似てきても、高身長なのは夫に似たのだろう。

 スリムであっても大きな娘を、最後に私が抱っこしたのって、いつだったろうか?


「そういえば夜中に一人でトイレに行くようになったのって、いつだ?」

「トイレが怖いって、必ず私を起こしてたもんね。一人で行けるようになったのって、パパとお風呂に入らなくなった頃じゃないかな? 三年生くらい?」

「昔はパパと一緒にお風呂に入るってうれしそうだったくせに」

「今、そんなこと言ったら嫌われちゃうよ? お年頃なんだから」

「はー、女の子って難しい」


 そのため息に苦笑いをして、赤ちゃんの頃の娘を抱きしめている夫の写真を眺めた。

『はじめまして、パパですよ』

 壊れ物を扱うように、恐る恐る抱っこをしていた夫の姿を思い出す。

 目に涙を浮かべて嬉しそうに笑っていて、ついつい私ももらい泣きをしたんだ。

 パパとそっくりな顔で眠る娘が、ひたすら愛おしくて、このか弱い生き物を守り抜かねばと心に誓った日のこと。

 あっという間に、十二年も経ってしまったのか。

 月日が流れるのは、あっという間だ。

 赤ちゃんの頃のまんまるな笑顔。

 今と同じ、エクボの浮かぶかわいい顔だ。

 目をつぶると長いまつ毛が際立っていた。

 おっぱいをあげながら、腕の中で眠る娘のまつ毛や、ぷるぷるで傷一つないほっぺたをうらやましく思っていたなあ。


「あれ? そういえばさ、最後におっぱいあげたの、いつだっけなあ。あと、最後にオムツを変えたのも。仕上げ磨き、止めたのいつだろう? 指しゃぶりや、毎日起きると頭のてっぺんが蜘蛛の巣みたいになってたのも、いつの間にかなくなってて」

 

 ふと呟いた言葉が、なぜか自分の琴線に触れたようだ。

 見る見る写真たちがぼやけていく。

 膝の上で口を大きく開けて仕上げ磨きを待っている娘。

 最後の添い寝、最後のままごと、幼稚園最後の通園、自転車の後ろに娘を乗せた最後の日。

 思い出せないだけで、まだまだいっぱい最後の日があって、また時折それをふと思い出しては、懐かしさと寂しさで涙が出てしまうのかもしれない。

 ただ切ないだけの涙ではなく、成長を喜ぶ涙でもあるのは、わかってるから。


「四月からは新中学生だって」

「早いなあ」

「早かったね」

「わかってるのかな? 今日が小学校に向かって歩く最後の日だってこと」

「さあ、本人ってそういう自覚あるのかな?」

「ともあれ、おめでとうございます」

「ありがとうございます、おめでとうございます」


 ふざけあいながら、夫の顔を見たら、私と同じように泣き笑い。

 十二年間、パパ、ママお疲れ様と、労うようにお互いを抱きしめあった。


「三年後、また同じこと言ってそうだよな」

「うん、ランドセルを背負った最後の日を思い出して懐かしくて泣く、多分」

「多分ね」


 娘の部屋から目覚ましの鳴る音が聞こえてくる。

 私はまたキッチンに向かい、夫は娘に洗面所を占領される前にと髭を剃りに行く。

 変わらぬ日常の音が響く中、目覚ましの音が止まる。


「おーい、二度寝してるでしょ! 卒業式だよ、わかってる?」


 こうして無意識に目覚ましを止め、また眠りにつく娘を、起こしに行くことも、いつか最後になって。

 でも、それが最後だなんて、その時には気づけない。

 だって次にはもう、まぶしいぐらいの新しい花を咲かせて、私たちを笑顔にしてくれるのだから。

 

――花冷えの頃――

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花冷えの頃 東 里胡 @azumarico

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