第5話 月面の記録

 次の日、アキに礼を伝え、私はパラボラを去った。帰り道の足取りは軽かったが、自宅に着くと疲れがどっとやってきた。昨日のことを脳内で反芻する。アキが言ったように理論的には地球の三年前のラジオ放送は間違いなく月面に届いており、それが聞こえなくなったのは極東の島国が海中に沈んだせいだろう。アキは月面作業者間の通信のため月面の鉄塔から電波を地球に向けて送信し、それが地球表層で反射したのち月面まで戻り、パラボラはその電波を受信しているとのだと言った。それはいわゆる「地球面反射式通信」というものだった。その恩恵で月面作業者は月面の巨大な亀裂もしくは超高度の山脈のどこにいても、通信することが可能だった。

月面で使用する電波は特別なもので数秒の遅れもなく、通信できた。それは特殊な周波数の電波を使用しているためだとアキは言った。この通信が成り立つのは月の表側、つまりクレーターが多数存在し、私達が暮らす側だけだった。月が地球に対し常に表側を見せていることで、成り立つ通信方法だった。そこで疑問に思ったのは三年前に送信されたラジオ放送が三年後にようやく地球に到達するというのに、なぜ「地球面反射通信」は数秒の遅れもなく通信可能なのかということだった。その質問に対しアキは、両者で使用している電波の質が異なるからですと答えた。私達が月面で使用している電波は立体波長の電波を使用している。これは波長が短い割に、長距離による経路損失が少ない電波でそのため伝達速度も速いだろうと言った。地球上から発せられたラジオの電波は平面波長の電波のため波長は長く、伝達速度も遅かったのだろうということだった。いくらラジオの音を大きくしても、ある一定以上に鮮明に音が聞こえないというものは、この影響のようだった。

ふと思ったのはそんなにも強力な電波を月面から発しているということは、一度地球に送られ月面に戻ってきた電波は、再び地球上へ向かって放出される可能性があるのではないだろうかということだった。それはとても大きな発見であるかのように感じた。

月面に住む私達が発した無線での声が七十七万キロ離れた地球まで瞬時に到達してそこで反射し、月に戻り、さらに月面で反射し地球へと戻っていく。その往復を繰り返しているのではないだろうか。それが何を意味するのか私には瞬時に理解できなかったが、夢中になって今はもう聞こえないラジオのチューナーをいじった。アキは私が使うラジオも無線機なのだと言った。そして私は昨日アキからこれを使ってみてくださいと手渡された感度のよい無線機を借りたことを思い出した。それはより広範囲の電波を拾い、パラボラの受信した電波を忠実に再現できるということだった。私はその日の夜、借りてきた真っ黒な無線機をいじりながら、端の周波数から音を拾っていった。

昼間には作業者達の会話が聞こえた。ただ深夜になり、そういった表層上の雑音が消えた状態で無線を聞くと、それはほとんど無音だった。月と地球の間を往復している何らかの音が拾えるのではないかと思い、毎日少しずつチューナーをいじった。月と地球を行き来する電波の存在を信じ、私は取り付かれたようにいじり続けた。稀に作業者間の会話が深夜に聞こえることがあり、これで月と地球の間で電波が何往復もしていることを私は確信した。どこに何があるのかわからないが、ただ月面の通信の記録がここで聞こえていることに私は興奮した。

そして数年が経過していた。カトリはすでに他界してしまった。無線機だけが月面の記録をたどる装置だった。私は八十歳になったが未だ夢中で音を探し続けていた。ある日、驚くことに無線機から妻の声が聞こえた気がした。もう一度、入念にチューニングすると、聞き覚えのある声が一瞬聞こえた。翌日の深夜、昨日の周波数帯を探っていると、間違いなく妻の声が聞こえた。それはとても懐かしい声だった。

「何時頃帰ってくるの。夕飯はもう作ってあるからね。」

懐かしい。それは間違いなく妻の声だった。月と地球を何十往復、何百往復した電波はやっと私の枕元の無線機に到達した。

私は今日もまた、その「深夜ラジオ」を聞きながら過去の懐かしい記憶を思い返し、静かなクレーターホームの天井の落ち行く彗星を眺めている。

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クレーターホームの深夜ラジオ 武良嶺峰 @mura_minemine

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