第4話 静かなる故郷

 手を振っていたのは作業着を着た小柄な人で、カトリが紹介してくれた関係者だった。今度は手招きし、ここを上ってこいというような素振りを見せた。階段は白く緻密な結晶体である一枚の岩塊を削って作られたもので、非常に丁寧に作られていた。あと一踏ん張りという気持ちで老体にむち打ち、その細く長い岩の階段を昇った。頂上に着くと作業服の人はドアを開けて待っていてくれた。私は軽く会釈し、敬礼した。作業現場では他者に声が届かないため、敬礼で謝意を伝えることはよくある。開いたドアからクレーターホームの前室に私は吸い込まれた。

前室の床に腰を下ろすと、どっと疲れが押し寄せてきた。前室に人工大気が充填されたことを確認し、ヘルメットを外し床に置いた。背後に人の気配を感じ振り返るとそこには小柄な髪の長い若い女性が立っていた。

「お疲れ様でした。無事について良かったです。ヘルメットと作業着を前室に置き施設内にお入りください。」

作業着の脚絆や小手等のパーツを外すと、やっと落ち着いた。時計を見ると出発してから五時間以上経過している。老人には長い道のりだった。行動食を少し口に入れ、水で流し込むと少し体力が回復した気がした。

「さあ早く。前室を閉めますよ。」

若い女性にせかされ、私は急いで中に入った。

このクレーターホームには使用用途のわからない計測機器、電磁パルスメーターがあり、ここがパラボラを維持する管理棟なのだろうと思った。

「私はアキといいます。こちらに座ってお茶でも飲みませんか」

中央に大きなテーブルがあり、脇に五脚のパイプ椅子が並んでいる。

「どこでもどうぞ」

「ありがたくお茶を頂きます」

久しぶりに話す若い女性に少し緊張した。アキという女性は長い髪を一つ結びにし、前髪は眉上に整えていて愛嬌があった。

「この施設に住んでおられるのですか」

私がそう聞くとアキは軽く頷き、「一人でここに駐在しています」といい、湯気の立ったカップを手渡した。

私は「ありがとうね」と言い受け取った。それはアールグレイで、カップには角砂糖が添えられていた。私はありったけの角砂糖をカップに入れ、がぶがぶと飲んだ。

「イノーさんが施設に来るのは叔父から聞いていましたが、詳しいことは知りません。どういったご用件でしょうか。ここまでは長い道のりだったと思います。訪問者用の部屋がありますので、今日は休んでいって下さい」

アキはそう言い、パイプ椅子に腰を下ろした。

「それはとても助かる。五時間歩いてきましたが非常に疲れています。レゴリスをこんなにも長い間歩いたのは初めてです。とてもありがたいです。こちらへ訪問したのはラジオが聞こえなくなったからです。」

「えっ。ラジオですか?」

「私は昔から地球のラジオ放送を聞いていました。それが一週間ほど前から聞こえなくなった。その放送を受信している大元であるこちらのパラボラ設備に聞けばその原因がわかるのではないかと思いました。もしかしたらここの設備で不具合があり、ラジオが聞けなくなってしまったのではないかと思ったのです。大変心苦しいが設備の不具合はありませんか。それと私の認識ではここのパラボラで地球からの電波を受信して、それが各クレーターホームまで伝送されていると思っているのですが、その認識は正しいでしょうか。」

アキは驚いた顔をしてこう言った。

「パラボラは地球のラジオ放送を受信するためのものではありませんよ。これはあなたのような月面作業者方達の無線を中継する装置です。パラボラはあなた方が持っている無線機から発信された電波を受信し、その電波はパラボラから少し離れたクレーターの内壁近くに設置されている鉄塔から各作業者の元へ送信されます。来る時に見たかもしれませんがあの鉄塔が送信機です。私はパラボラと鉄塔の維持管理をしています。」

「それは初耳です。そんなこと知らなかった。私はてっきりパラボラは地球の電波を受信するための設備だと思っていました。では私が聞いている地球から送られたラジオ放送はどのように受信しているのだろう?」

「地球のラジオ放送を月面で聞けることは知りませんでしたが、原理的には可能です。イノーさんが聞いていたのは地球から数年前に飛ばされたラジオ放送なのは確かでしょう。それが聞こえなくなったと。」

「一週間前から聞こえなくなったんだっぺや。」

つい父から影響を受けたなまりが出たが平静を取り戻して再び丁寧に話した。

「そうです。聞こえなくなりました。設備になにか不具合が生じたのではないかと思い、ここまで来ました。」

「そうですか。。。ご協力できず残念です。設備に不具合はありません。ただ、それこそ一週間程前に地球の極東の島国が完全に水没したらしいということを地球にいる担当者から聞きました。放送局があったのは極東の島国ではないですか。」

 私は愕然とし、激しく首を縦に振った。

「そうです。その島国だっぺよ。俺の両親の故郷で、ラジオの放送局があるのは。まさにそうだっぺよ。」

「そうでしたか。ラジオ局ごと海面下に沈んでしまったのかもしれないですね。。残念です。」

 そう言い、アキは目を伏せた。

「ありがとう。原因がわかってよかったよ。ありがとう。ちょっと部屋で休ませてもらうよ。」

 そう言って私は奥の訪問客用の部屋へ入った。天井が閉ざされ夜空の見えないこの部屋で、私はもう二度と聞けない深夜ラジオのナレーションやジャズの調べを思い浮かべた。一度も帰れなかった両親の故郷。先祖代々の並んだ墓石。

 隣の部屋から聞こえるアキが作業する僅かな衣擦れ音を聞きながら、私は静かに深い眠りに落ちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る