第10話 阿闍梨と世界の終わり

 目の前には真っ白な風景が広がっている。今はもう朝だろうか。どうやらまたぐっすりと眠ってしまったようだった。いつの間にか裸足になっていて、白いスニーカーと水色の靴下は目の前に揃えて並べられている。両足を動かすと、足の指の間で湿った砂が動く触感がする。辺りには霞が広がり、空と海の境界が曖昧になっている。目を凝らして前を見てみると、波打ち際に大きな木が一本立っていた。それはどうやら梅の木で、枝先まで覆う薄紅の花たちが霞の中でうっすらと浮かんでいる。左横を見てみると、白い大きな犬がいた場所に実朝が背筋を伸ばして座っている。右目の横に大きなあばたが見える。実朝は私の方に顔を向けると微笑みながらこう話しかけた。

 「私の名も無き阿闍梨。今までの事感謝申し伝える。」

 心当たりは無いけれど、実朝が喜んでいるようで良かった。実朝は私に最初で最後の言葉を伝えると、立ちあがって波打ち際へと歩き始めた。実朝が向かう先には昔の装束を身にまとった人々が輪になって集まっている。梅の木のすぐそばで、彼らの間をボールが跳ねながら飛んでゆく。どうやら蹴鞠をしているようだった。実朝も彼らの輪に加わって、ぎこちない動きで鞠に向かって足を伸ばしている。これが世界の終わりのフットボール。男たちの輪から外れて鞠が自分のところまで転がってくると、ズボンについた砂を払いながら立ち上がり、鞠を右足で掴まえる。ホップ、ステップ、ジャンプ。ホップ、ステップ、ジャンプ。裸足の甲の上を鞠がリズム良く弾んでゆく。まだまだ腕は落ちていないようだ。リフティングの流れで鞠を大きく蹴り返すと、男たちの驚く顔、また笑った顔が霞の中でうっすらと見えた。はっきりとは分からないが、あそこには源氏や北条家の人々が集まっているのだろう。

 蹴鞠の輪の横を見てみると、大きな木造の船が霞の中から浮かんできた。船は舳先を海に向けて、コロの上で出航の準備を待っている。すると蹴鞠の輪から実朝の体が浮き上がり、クレーンゲームのように船の上まで運ばれていくと、甲板の上にゆっくりと着地した。その瞬間船底から真っ青な道が海に向かって現れ、白い霞の世界を真っ二つに分けた。その道は西に向けて空まで真っすぐに伸びている。実朝が蹴鞠の輪に向けて手を振ると、男たちも実朝に向けて手を振り返す。船は音もなく宙へと浮かび上がり、大量の砂を振るい落としながら、長江のように清らかな道の上をゆっくりと進んでいった。船が西の空高くまで進むにつれて、帆影はどんどんと小さくなってゆく。私は孟浩然を見送る李白のように、船が見えなくなるまでその後ろ姿をずっと見つめていた。さようなら、実朝。

 船が西の空に消えると、空まで続く青い道はたちまちに消え、世界はまた白い霞に包まれた。ふと右横を見ると、ブレザーを着た田畑が砂浜の上に座っていた。朝電車の中で見た時と違い、田畑は私に向かって静かに微笑んでいる。自分の頬を涙が伝わっていくのを感じた。田畑の肩に手を置こうとしたが、田畑の体は徐々に透けていき、最後は丸眼鏡を宙に残して姿を消していった。ありがとう、私のラストエンペラー、田畑。私も生まれ変わったら、君みたいな丸眼鏡が似合う人間になりたいと思う。物音がして空を見上げると、大きな鷹に両肩を掴まれながら、どてかぼちゃ人間が海の方向へと運ばれてゆく姿が見えた。一富士二鷹三その鷹に運ばれてゆくどてかぼちゃ。絶景かな絶景かな。

 すると海から強い潮風が吹いて、梅の枝から大量の花びらが舞い上がり、視界が薄紅色に覆われてゆく。とうとう世界の終わりが来たようだ。花びらの渦に包まれながら自分の両手を見てみると、水を入れた薄いビニール袋のように透けていた。その両手の平を合わせて、この世の生きとし生ける者、そして彷徨える魂たちのために祈る。するとこの世界に対する感謝の念がお腹の底から全身へと広がってきた。ありがとう、実朝。ありがとう、田畑。ありがとう、同期のタマちゃん。ありがとう、ハム・プリ男。お母さん、お父さん、そして全ての人にありがとう。もしかしたらこの世界の終わりの先にも私の事を待っている人がいるかもしれない。今は確かに見えないけれども、この世界の外に向けても祈りを捧げよう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。シャンティ、シャンティ、シャンティ。

 コートの左ポケットを探ってみると、阿闍梨餅が一つ残っていた。ゆっくりと封を開け、口の中へと入れる。もぐもぐもぐ。ほのかな甘みが口の中に広がってゆく。私は阿闍梨。なぜなら阿闍梨餅を食べたから。阿闍梨餅の欠片を空中へと差し出すと、欠片はそのまま空中に制止する。しばし留まれ!そなたはとても美しい!ここには死も無く、生も無い。ホレーショよ、天と地の間を見よ!これが涅槃だ。これがニルヴァーナ。ここがこの世界の行き止まり。あとは沈黙。さらば青春。ここで絶筆。そして空白。


 極楽極楽。ベリーナイス、ベリーナイス。

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阿闍梨を待ちながら とりシング バドたろう @torisingbirdtaro

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