第9話 ある雪の日

 雪が降っている。数多くの御家人、公卿、殿上人、御供の者を連れながら、降り積った雪の上を牛車が鶴岡八幡宮に向かって進んでいる。牛車の中で揺られていると、今日詠んだ歌が繰り返し頭の中に浮かんできた。


  出でて去なば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな


 何故あの時そのような歌を詠んだのか、自分でもはっきりとは分からない。御所の庭の梅を私が再び見る事はもう無いのだろうか。不安に揺れ動く我が心に構わずに、牛車は暗闇の中を目的地へと真っすぐに進んでゆく。しばらくして鶴岡八幡宮に辿り着くと、滑らないよう慎重に牛車から降り、前板の上に置かれた履物に足を通した。雪に気を取られ過ぎていたためか、前板から地面に降りるはずみで、腰から下げた刀を剣先から地面に当ててしまった。御供の者が鞘から剣を取り出してみると、剣は真ん中から真っ二つに折れている。折れた剣がかがり火に照らされて、鈍い光を放っていた。不吉な予感を抱きながらも、右大臣拝賀のために上宮に向かって足を進めてゆく。

 雪積もる参道をゆっくりと進んでゆくと、横道から大きな白い犬が飛び出してきた。雪と見まがうほどの白い犬は参拝の列に近付くと、その足の速度を緩め、私の5尺ほど前を歩き始めた。あの満月の夜に御所から走り去ったものと同じ犬のようにも見える。ただ私の他には犬の出現に気づいている者はおらず、参拝の列は滞りなく雪の上を進んでゆく。中門にて多くの御家人たちと別れを告げ、公卿や殿上人と舞殿の横を通り過ぎると、目の前には上宮に続く大階段が現れる。暗闇の中で石段を上る際も白い犬は私の数段前を軽やかに上っていった。白い犬に続いて慎重に石段を上り切り、上宮の楼門を仰ぎ見る。右大臣、源実朝。私が手にできる官位でこれ以上のものはないだろう。天にも昇る心持ちがした一方で、その後すぐに虚空に一人残されたような、えも言われぬ寂しさが体の中を広がっていった。辺りを見回したが、そこにはもう白い犬の姿は無かった。凍えるような夜の寒さに体を震わせると上宮の中に足を進めた。


  出でて去なば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな


 上宮での奉幣の儀式を終え、安堵に満ちた気持ちで楼門を出る。目の前には雪に覆われた石段と舞殿が見える。笏を両手で持ちながら、自分の束帯の裾を踏まないように石段を一歩ずつ踏みしめながら下りていった。石段横の茂みから物音が聞こえた刹那、頭巾を被った法師がその茂みから飛び出してくる。慌てて笏を放り出し、急いで石段を下りようとする。ただ下襲が強く引っ張られたため、その場に前のめりで倒れていった。法師の出現から全てがゆっくりと動いているように思えたが、自分の体はまるで人形のように動かなかった。うつ伏せのまま顔を少し上げると、石段の端に大きな白い犬が座っている姿が見えた。背中から胸に向けて鋭い痛みが走る。顔を石段に埋める。もう一度顔を上げると青女が、御所で二度も出会ったあの女が自分に向かって手を差し伸べながら微笑んでいる。

 「ハッ、セッ、ジャ。」

 今際の力を振り絞って青女に向かって右手を伸ばす。女が右手で自分の伸ばした手を引っ張った瞬間、引っ張られた手から朝露のように透き通った体がうつ伏せになった自分の体をゆっくりと抜け出していった。青女は左手で自分の右手を握り直すと、私の透き通った体を連れて石段を下りてゆく。

 「阿闍梨公暁、親の仇はかく討つぞ。」

 女に手を引っ張られながら後ろを振り返ると、自分の骸の横で生首を天高く掲げている法師、阿闍梨公暁の姿が見えた。

 前へと向き直り石段を素早く下りると、依然として女に手を引っ張られたまま、舞殿、中門の横を走って通り過ぎる。青女は以前見た時と同じように裸足で、薄茶色の麻でできたような上着を羽織っている。境内での異変を察知した御家人たちが次々と石段の方向へ向かってゆく姿を横目で見ながら、青女と参道の端を走り抜けていった。

 「ハッ、セッ、ジャ。ハッ、セッ、ジャ。」

 青女は走りながらも振り返り、私に向かって呪文のような言葉を投げかけている。透き通った烏帽子が頭からこぼれ、後方へと転がっていった。両足は雪に掴まって何度ももつれそうになっていたが、不思議と疲れは感じなかった。試しに青女の呪文を口に出してみる。

 「ハッ、セッ、ジャ。ハッ、セッ、ジャ。」

 すると体が浮き上がり、両足は徐々に地面を離れていった。青女が一瞬体を屈め、大きく右足で地面を蹴ると、青女、そして彼女に引っ張られた私の透き通った体は地面を離れて、雪が降る夜空に向かって勢い良く飛んでいった。黒い束帯が風を受けて激しくはためいている。雪が何度も顔に当たって弾ける。振り返ると遥か下の方に鎌倉の街が見え、街を灯すかがり火の粒たちは見る見るうちに小さくなってゆく。青女の手をしっかりと握りしめたまま漆黒の雲の中を抜けると、雲の上の静かな場所へとたどり着いた。

 雲の上では眩いばかりの星空が広がっていた。これほどまでに美しい景色は生まれてから一度も見たことがなかった。両眼から溢れた涙は一瞬にして後方の夜空へと消えてゆく。このまま西へと向かおう。青女の左手を引っ張って横並びになると、鳥のように腕を広げながら雲の上を飛んでゆく。女の白い顔をまじまじと見つめながら、意を決して女に話しかけてみた。

 「そなたは一体何者なのか。」

 「私は阿闍梨。名前はまだない。」

 阿闍梨に命を奪われ、また別の阿闍梨に魂を救われるという不可思議な我が定め。この女阿闍梨とともに箱根路を超え、まだ見ぬ京の都まで飛んでゆこう。京には上皇様がいる。言葉を交わすことはできずとも、一目でもお姿を拝見したい。京を巡った後は海を越えて、宋の国まで飛んでゆこう。坂東武者のいない遥か遠くの土地へ。きっとそこには鎌倉では見ることができないような素晴らしい景色が広がっているのだろう。

 全ての重荷から解き放たれて、阿闍梨とともに西の空へと向かってゆく。束帯が風を受けて優しくはためいている。冬の夜空に浮かぶ星々が親しい友のように私に話しかけているように感じた。

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