第8話 阿闍梨の涙

 ふと目が覚めて顔を上げる。どうやら両腕を枕にしながら、テーブルの上に突っ伏して寝てしまったようだった。急いで自分の顔を両手で隈なく触ってみたが、首も目も鼻も口も元あった場所にちゃんと位置している。良かった。朝からいろんな事があったから、疲れてまた変な夢を見てしまったのかもしれない。安心したのも束の間、お尻のあたりに何やら違和感がある。腰をゆっくりと上げてみるとそこには何枚もの枯れ葉が椅子の上に敷き詰められていた。口の右端から漏れていた涎を袖口で拭いながらあたりを見回すと、床やテーブルの上などそこら中ホコリまみれで、小さなシャンデリアからは蜘蛛の巣が大きく垂れ下がっている。カウンター奥の食器棚に置かれていた酒瓶も何本かは割れたままで、長い間そこに放置されているようだった。

 怖くなってお尻から枯れ葉を、袖からホコリを急いで叩き落とすと、リュックとコートをぐいと掴んでカフェの外に飛び出した。カランコロンというドアベルの音を耳にしながら、また急いでベージュのコートに腕を通す。外のあまりの寒さにコートの両ポケットに手を突っ込むと、右手の指に今まで感じたことの無いような触感があった。思わずポケットから右手を引っ込めたが、その正体を探るべく恐る恐るもう一度ポケットに右手を入れてみる。何かツルツルとして、平べったいものの触感を指先で感じ、そのまま右手をポケットからゆっくりと引き抜くと、青々とした固い葉っぱが右手に二枚掴まれていた。しかし銭洗弁財天で洗ったお札がどこにも見当たらない。コートやパンツのポケットを裏返してもお札が出てこなかったたため、一縷の望みをかけてリュックに入っていた財布の中身を調べてみた。

 お札が入っていたはずの場所に青くて固い葉っぱが5枚、財布の中にきれいに収まっていた。南無三!あのエロい服装をしたおっぱいデカ過ぎ晋作が私のお札を抜き取ったに違いない!怒りで頭が真っ白になったまま庭に立ちすくんでいると、カフェの裏手から小柄な物体がのそのそと鉄格子の扉に向かって歩いてきた。タヌキだ。目がクリクリとしている。しかしタヌキが私に背中を向けると、その後ろ脚の間からはバレーボール大の金玉が二つぶら下がっていた。その巨大な金玉はタヌキが扉の前までたどり着くと、掃除機のコードのようにスルスルとタヌキの体の中に収納されていった。タヌキは一瞬振り返って私の顔を確認すると、鉄格子の間を素早く通り抜け、住宅街の中に消えていった。もしかするとおっぱいデカ過ぎ晋作はあのタヌキが化けたものだったのだろうか?そうなるとあのデカいおっぱいはもしや…

 「ダメだよ!無断で入っちゃ!」

 その大きな声で我に返ると、鉄格子の扉の向こうで灰色の作業着を着たおじさんが私を睨みつけていた。

 「すみません…」

 扉を押して急いで外に出ると、黒々とした髪をオールバックにしたおじさんに深々と頭を下げた。

 「本当にすみませんでした。」

 「全く困るんだよね。勝手に人の敷地に入るのは犯罪。分かってる?インスタ映えかなんだか知らないけど、いい歳した大人なんだからちゃんと法律は守ってよ。今日は見逃してあげるけど次は無いからな。」

 「申し訳ございませんでした。」

 もう一度おじさんに向かって深々と頭を下げると、足早にその場を離れた。

 海が見たい。全てを包み込む大きな海が。もうすぐ29歳の大人の女性なのに、知らないおじさんにきつく叱られてしまった。目から涙がこぼれ落ちないように首を上に傾けながら、潮風が薫る方向に向かって歩き始めた。まるで鎌倉を彷徨う汁たっぷりのがんもどきのように。ゆっくりと。目から出汁がこぼれないように。

 やはりおっぱいデカ過ぎ晋作はあのタヌキが化けたものに違いない。そしてあのデカいおっぱいはタヌキの巨大金玉が姿を変えたものであろう。阿闍梨の身でありながら、タヌキごときに化かされるとは何たる不覚。何たるチア、サンタ・ルチア。あのおっぱいがデカい浮気女に、タヌキのデカい金玉。私の行く先に立ちはだかった4つのデカボールの事を考えながら、仏の道の厳しさに改めて感じ入った。

 海に向かって歩いていると、うっすらとした霊が一人二人と姿を現し、海から300mほどの距離になると数え切れないほどの霊が道を埋め尽くすまでになった。その道を走る車は何事も無いかのように数多くの霊の体を一瞬で通り抜けてゆく。霊のほとんどが武士の霊に見受けられるが、そこには小さな子どもを連れた母親の霊の姿もあった。世界の終わりを見届けようと、あの世からたくさんの霊が押し合い圧し合い地上へと出てきたのであろう。そこのけ、もののけ、阿闍梨が通る。道を塞ぐ霊たちを華麗なステップで交わしながら先に進むと、いよいよ目の前に海が近づいてくる。少し坂を下り、道路下のトンネルを抜けると目の前には湿った砂浜と夕陽を受けてオレンジ色に輝く海が広がっていた。

 砂浜に腰を下ろして、寄せては返す波の動きをじっと見つめる。波のしぶきがはじけては消え、はじけては消えてゆく。全てが平穏で、まるでありふれた一日のように世界が終わってゆく。そして波の音に割り込むように私のお腹がギュルギュルと音を立てる。最後の力を振り絞ってガサゴソとリュックの中を手でかき回すと、リュックの底でペチャンコになっていた阿闍梨餅を見つけ出した。同期のタマちゃん、本当にありがとう。

 阿闍梨餅にかぶりついた瞬間、今まで抱えていた思いが涙になって目から溢れ出てきた。まるで赤ん坊のように声をあげて泣いた。でもお腹がペコペコだったので、涙を滝のように流しながらも阿闍梨餅を口の中に少しずつ入れた。もぐもぐ。涙がしみ込んだ阿闍梨餅は少ししょっぱかった。

 阿闍梨餅を食べ終わるとお腹も少し満たされ、涙も徐々に収まってくる。パンツの後ろポケットから水色のハンカチを取り出して涙を拭くと、目の前が前よりも少し透き通ったように感じた。左に見える逗子マリーナから続く海岸線は湾曲しながら西の稲村ケ崎まで続いている。世界はこうやって終わるんだ。ドカンとでは無く、メソメソと。

 ふと左隣をみると、いつの間にか白い大きな犬が私のすぐそばで行儀良く座っている。左手で犬の頭から背中まで優しく撫でてみると、毛はシルクでできたように滑らかだった。白い犬はこちらに顔を向けて嬉しそうに息を小刻みに吐いている。この犬は世界の終わりを告げる犬だろうか。

 ふと涙でメイクが落ちていないかどうか気になって、リュックからコンパクトを取り出して自分の顔を眺めてみた。すると自分の口の周りから獣のような半透明のヒゲが数本生えている姿が見える。手で触ってみるとかなり硬めの立派なヒゲで、長さはどれも5cmほどもあった。なんだか自分の姿に可笑しくなって、隣の犬に笑いながらこう声をかけた。

 「ホレーショよ、この天と地の間には人間の考えが及ばない事もあるものだなぁ。」

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