嗜好品

星雷はやと

嗜好品


「よし、やるぞ……」


 腕捲りをすると意を決し、キッチンで洗い物を始める。此処は僕の家ではない。僕は家事代行サービスに従事しており、この豪邸はお客様の家である。

 家主である赤井様は御曹司だが、とても優しく気さくな方である。スタッフからの評判も良く、勤務を希望する声が多い。競争率の高い勤務先なのだが、僕は三年ほど赤井様邸にて仕事をさえて貰っている。有難いことであるが、一つだけ難点がある。


「うぅ……冷たいな……」


 刺すような水の冷たさに思わず、溜息を吐いてしまった。そう赤井様邸では、お湯が出る赤いハンドルの使用を禁止されているのだ。夏場であれば気にしないのだが、冬場は気合いを入れないと耐えることが出来ない。この一点を除けば、本当に快適な職場である。


「こればかりは、仕方がないかな」


 お湯を使用しないのは、家主の意向によるため黙って従うしかない。高級な品々が並ぶ豪邸である。もしかすると以前テレビで観た、蛇口からワインが出てくる可能性も考えられる。 

 そうだとすれば、きっと高級ワインだろう。誤って流してしまったら、弁償金が幾らになるか想像するだけで鳥肌が立つ。お金持ちと一般人の考えることは違う。


「あ、洗濯物が終わった」


廊下から洗濯機が仕事を終えた電子音が響いた。洗い物を終え、水を止める。冷えて赤くなった手に息をかけながら、洗面所へと向かった。




「やあ、お疲れ様。板倉くん、いつもありがとう」


 数々の作業を終え、太陽が沈んだ頃にリビングルームに戻る。すると家主である赤井様が、ソファーに座り僕を出迎えた。予想外の人物が居たことに、僕は数秒間動きを止めた。

 この豪邸は赤井様の家であるから、彼がこの場に居てもおかしいことはない。だが普段は自室か書斎に居る、赤井様に直接会うのは大変珍しい事である。此処で仕事をするようになり、会話をしたのは数える程度だ。


「……いえ。何時もご利用頂きまして、ありがとうございます。赤井様」


 基本的に家主との必要以上の会話は、会社の規定で禁止されている。あくまでも、僕らは家事代行サービスを目的としているのだ。仕事を円滑に進めるには、干渉しないのが一番である。僕は当たり障りのない挨拶を口にした。



「はは、板倉くんは本当に真面目だね」

「いえ……そんな……」


 赤井様が優しく笑った。彼の背景に薔薇が見えたのは、気のせいでない。きっと世の中の女性が彼の笑顔を見れば、その美しさと気品から気絶するだろう。絵になり過ぎる、魅力的な男性である。容姿端麗、頭脳明晰、家柄と資産も性格も特級品。俗な言い方をすれば、超優良物件だ。結婚しても是非、我が社の家事代行サービスを利用していただきたい。


「本当のことだよ? いつも仕事をしっかりしてくれる。基本的なことだけど、とても大切なことだ」

「あ、ありがとうございます……」


 社交辞令だということは分かっている。それに真面目だけが取り柄の僕にとって、それを肯定されるのは嬉しい。社会人になったというのに、素直に褒められると照れ臭い。お辞儀をし、緩みそうになる顔を隠す。


「あれ?」


 頭を下げると、不意に鉄のような臭いが鼻を刺激した。


「如何かしたかい?」

「えっと……その、血のような臭いがするのですが……。大変失礼かと思いますが、お怪我をされていますか? 大丈夫でしょうか?」


 小さく呟いた言葉は思っていたよりも、大きく響いたようだ。赤井様が不思議そうに首を傾げた。誤魔化すことも出来るが、万が一にも怪我をしていた場合は迅速な対応が求められる。僕は余計なことだと思いつつも、赤井様に疑問を口にした。


「ん? 怪我? いや、していないよ? ……嗚呼、これの匂いかな?」


 彼は質問の意味が分からず、きょとんと瞬きをした。そして納得したように頷くと、グラスを手にした。そのワイングラスには、深い赤色の液体が入っていた。赤ワインである。如何やらソファーの死角になり、ワイングラスに気付かなかったのだ。


「……あ、そうでしたか大変失礼を申し上げました。申し訳ございません……」


 僕は深く頭を下げる。まさか高級ワインの香りと、血の臭いを間違えるとは思わなかった。怪我がなくて良かったが、僕の嗅覚はおかしいようだ。確かに僕は一般人であるが、これでは全く物を分かっていない人間だと認識されてしまう。つい先程に褒められた手前、より羞恥心に苛まられる。穴があったら入りたいとは、このことだろう。


「いやいや、気にしないで板倉くん。ほら、顔を上げてくれ」

「……っ……。本当に申し訳ございません」


 赤井様が困ったような声色で促すので、渋々姿勢を戻す。家主に気を遣わせてどうするのだ。絶対に失礼な奴だと思われたに違いない。きっと今日で赤井様とお会いするのは最後だろう。この後に言われる言葉を想像し、お腹に力を入れる。


「本当に真面目だね。私は怒っていないし、呆れてもいないよ。私のことを心配してくれたのだろう? ありがとう」

「……い……いえ……そんな……」


 何故だか感謝を伝えられ、疑問と動揺が体を駆け巡る。咎められる事はあっても、お礼を言われるとは想像していなかったからだ。


「私の方こそ間際らしくして、驚かせてしまってごめんね。そうだ! お詫びと日頃のお礼として、ワインを贈らせてくれないかな?」

「え!? その……大変お気持ちは嬉しいのですが、そういのは……会社の規則で禁止されておりまして……」


 赤井様は楽しい事を思い付いたとばかりに、赤い瞳を輝かせた。金品や物品の譲渡は原則禁止されている。如何にか考え直してもらうように、その旨を伝えた。


「じゃあ、板倉くんの会社には私が話しをつけておくよ。だったら良いだろう?」

「うぅ……はい……。ですが、僕はワインについて全然分からないので……」

 

 完全に会話の主導権が彼に握られ、僕は完敗した。折角の好意をこれ以上、無下には出来ない。ワインについて全く分からない素人だと伝えておく。その中には、手頃な価格の物でお願いしますという切実な願いも込められている。


「大丈夫、板倉くんに合うものを選ぶよ」

「あ、ありがとうございます……」


 赤い瞳を細めると、彼は楽しそうに笑った。本当に大事だろうか、不安を感じながらお礼を口にした。


 ぽちゃん。


 背後にあるキッチンの蛇口から、深紅の雫が落ちた。

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嗜好品 星雷はやと @hosirai-hayato

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