エピローグ
「——あぶない、
陸上部のマネージャー、
俺の身体は金縛りにでもあったかのように動かなかった。
見えない何者かの手が、俺の足を掴んで離さない。
そんな俺の目の前に、白のSUVが迫って来ていた。
自転車を漕ぎながら俺は真っ直ぐ陸上競技場を目指した。
本来なら学校に集合して貸切バスで移動するのだが、今から行っても絶対間に合わない。
それなら市の中心部から外れた位置にある俺の家から直で郊外に向かった方が、まだ間に合う可能性が高かった。
ぶっちゃけあんな町外れ、車でしか行ったことはないけど迷ってる暇はない。
俺は脇目も振らず全力で自転車のペダルを踏み込んだ。
バッグに入れっぱなしだったスマホを取り出したのは、運動公園脇の駐輪場に辿り着いた時だった。
真っ先に時刻を確認すると、開会式の五分前。
やった!直で来て正解だった!!
俺は陸上部のグループLINEを開き、鬼のような数のメッセージに謝罪の言葉とたった今到着したことを返信すると、ダッシュで運動公園を駆け抜けた。
自転車を漕ぎ過ぎてパンパンに張った太腿が重い。
でもそんなことを気にしている場合か。
走れ走れ走れ!!
俺は自分に喝を入れ懸命に足を動し続けた。
公園内は鬱蒼とした木々が生い茂り、午前中にも拘らずじめじめと薄暗かった。
これでは公園とは名ばかりの、寂れた広い空き地にしか見えない。
そう言えば何年も昔に、この辺りで交通事故があったと聞いた記憶がある。
俺くらいの歳の学生がバイクに撥ねられ命を落としたとか。
そうだ、思い出してきた。
その死んだ学生の幽霊が出るとかで、公園の利用者がだんだんと減っていったんじゃなかったか。
嘘か本当かは知らないが、それは俺が小学生の頃に流行っていた怪談話だった。
そんなことを考えながら公園の敷地を抜けると、車道の向こうに見上げる程大きな陸上競技場――その入場口が俺の到着を待ち構えていた。
すぐ側にあるバス停の向こうに信号機のない横断歩道が見え、俺は迷わずそちらに走る。
「寺井!!」
ふいに呼ばれて顔を正面に向けると、入場口に
俺に向かって手を振ってくれている。
木村先輩はリレーのアンカーだ。
三年の夏。
今回を逃したら木村先輩に次はない。
俺は必ず木村先輩にバトンを繋ぐ。
そして来月の全道大会に絶対、絶対連れて行く!
「木村先輩、すいませんでした!今そっち行きます!!」
嬉しさのあまり大声で答えて、俺は横断歩道に飛び出そうとした。
「――あぶない!寺井くんッ!!」
梨乃の絶叫を掻き消す勢いで、俺の目の前をSUVが走り去って行った。
俺は、俺は——車に轢かれるところだったのか……?
今起こったことを理解した途端、ドッと鼓動が速くなる。
早鐘のように鳴り響く心臓を深呼吸することで宥める俺の足は、何者かに掴まれたままびくとも動かない。
た、助かった、のか……?
そのおかげで俺、飛び出さずに済んだ——?
「寺井!大丈夫か、寺井!!」
木村先輩が俺を呼んでいる。
その隣では、両手で口元を押さえた梨乃が棒を飲んだかのように動けずに、ただ俺を見ている。
「——只今より、第35回高校新人陸上……」
開会式のアナウンスが流れたその時、俺の耳元に小さく囁く声が聞こえた気がした。
でもそれは、たぶん空耳だったと思う。
スタートダッシュを決めろ
フッと俺の足を掴む感覚が消えた。
途端、身体が軽くなる。
俺は今度こそちゃんと左右を確認し横断歩道を渡ると、俺を待つ仲間の元へと向かった。
俺は、遠ざかるその白い背中を見送って、頭上の太陽に目を向けた。
あれから何度、夏が過ぎただろう。
俺の側には誰も居ない。
キャプテンも、七瀬も。
ただひとつだけ、八月の太陽だけが今日もギラつきながら、惨めな俺を見下している。
その責めるような輝きから俺を隠してくれるあの紺色のタオルも、もうどこにもない。
それでも。
それでも夏は逝く——
もうすぐ、秋がやって来る。
完
晩夏 皐月あやめ @ayame
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