第3話 スタート
「なるほど。つまり、おぬしは恋に落ちてしまったということかの」
私からの話を聞き終えた
「え・・・・・・?恋、ですか」
思わぬ言葉が出てきて、混乱する私。だがそんな私の様子を見ても、
「そうだ。なに、そこまで驚くことではない。いにしえより、神と人間などの異類同士が結ばれる例は無数にある。おぬしもまた、そのうちのひとつになったに過ぎぬ」
この胸に渦巻く感情。これが、恋?なんだかとっても不可解だ。ずっと長い間、神様として生きていたからか、自分の感情を定義されても、いまひとつしっくりこない。
「とにかく、
「まあまあ、そう
「おぬしも知っての通り、我ら神という存在は、むやみやたらと人間の世界に干渉することはできぬ」
「はい。それは充分に承知しています・・・・・・」
やっぱり彼を救うことはできないのだろうか。
「じゃがな。人間なら話は別だ。人間なら、我ら神と違い、いくらでも人間の世界に干渉して影響を及ぼすことができる」
私は無言のままこっくりと頷く。
「つまりだな。おぬしが人間へと変貌を遂げれば、その青年を救うことが可能かもしれない。そういうことだ」
「えっ・・・・・・そんな方法があるんですか」
「ああ。だがそのためには、おぬしは神の地位を下りなければならぬぞ。つまり、長い長い神としての生を諦めて、限りある生を受け入れるということ。つまり、おぬしは何十年かのちに死ぬ。それでもいいのか?」
「・・・・・・構いません。彼を救うことができるのならば」
「そうか。分かった。ならばひとつ、おぬしの気持ちが本物かどうか、試練を課そう」
「はい。私、なんでもします」
「よかろう・・・・・・。今からおぬしの記憶を消して、とある部屋へ送る。その部屋は、出口のない、完全な密室だ。そこにはひとつのボタンがある。それはスタートボタンという名前でな。そのスタートボタンを押せば、おぬしは晴れて人間として生きることができる」
「記憶を、消して・・・・・・?」
どうしてそんなことをしなければならないのだろうか?
「それはな、たとえ記憶を消され自分が何者か分からない状態でも、おぬしが“変化”を望むかどうか、そこを試すためだ」
「変化、ですか・・・・・・」
「そうだ。人間は限りある生の中で、常に変化し続ける。一見そうは見えなくともな。一方、我ら神という存在はあまり変化のない存在だ。おぬしが本心から、人間として生きたい――変化のある生をまっとうしたいと願うのなら、たとえすべての記憶がなくとも、必ずスタートボタンを押すはずだ」
「分かりました。
「なんじゃ、妙に責任感が強いの・・・・・・心配せんでも良い。おぬしの神社は、当分わしが面倒を見ておく。おぬしの代わりの神は、やがて人々の生活と祈りによって、ゆっくりと形作られていくだろう」
それならよかった。私は安心して、人間になれる。
「それじゃ、いくぞ――」
そして私は無事に、スタートボタンを押した。これで人間になれるのだ。限りある生を生きていくことに、不安がないわけではない。でも、その不安を感じるのもまた、私が人間になった証拠だろう。
しゅわしゅわしゅわ・・・・・・。蝉の音が聞こえる。
暑い。蒸し暑い。うだるような熱気だ。
・・・・・・?私はどこにいるのだろう。
目を開けてみる。
私はハッとして、起き上がる。そうだ。ここは私の神社の境内だ。いや、もう私は神様じゃないから、ここの持ち主ではないか。
ベタベタと肌に張り付く汗が、気持ち悪くも心地よい。神様だったときには、こんな気持ち悪さは経験できなかったので、なんだか新鮮だ。
周囲を見回して、私は直感的に理解する。ここは、あの青年が絶望に打ちひしがれて去って行ったとき――その直後の時間だ。
ということは、きっとまだ間に合う。私は立ち上がり、全速力で走る。鳥居をくぐり、生まれて初めて神社の外への一歩を踏み出す。
彼は確か右に曲がったはず。私は猛ダッシュで彼を追いかける。
いた。小さな背中が見えた。彼の背中だ。
息切れしながらも、私は彼に追いつく。なんて声をかければいいんだろう?私は神様で、あなたに会いたくて人間になりました?ううん、もうこうなったら行動あるのみ。えいっ。
「ひゃっ!?」
背後からいきなり袖口を
「な、なんですか・・・・・・?」
怯えに満ちた表情の彼に、私は精一杯の言葉を紡ぐ。
「はぁ、はぁ・・・・・・すみません、突然・・・・・・でも、なんだかとても悲しそうな顔をしていたので・・・・・・つい声をかけずには、いられませんでした・・・・・・」
まずいな。息切れで、上手く言葉が出ない。人間の身体ってこんなに不便なんだな。でも、それが生きている、てことなんだよね。
「そう、ですか・・・・・・?」
最大限の不信感と警戒心を放つ彼。うん、そりゃ仕方ないよね。でも私は臆さない。
「よかったら、話だけでも・・・・・・聞かせてもらえませんか?見ず知らずの私が、いきなりこんなこと言っても・・・・・・ヤバい奴だと思われるかもしれないけれど・・・・・・でも、ひょっとしたら、何か力になれるかも・・・・・・」
彼の表情が、微かに――本当に微かだけれど――明るくなった気がする。彼の唇がゆっくりと動く。
「分かりました・・・・・・なぜでしょう。あなたを見ていると、どこかでかつて出会ったような気がしますし・・・・・・お言葉に甘えて・・・・・・」
よかった。とりあえず、話だけは聞かせてもらえそう。
大丈夫。あなたがどんな辛さや悩みを抱えているかは知らないけれど、私に任せて。ぜんぶ聞いてあげる。一千年以上生きてきたこの私の知恵を、頼ってちょうだい。
絶望に呑み込まれて、終わらせられようとしていたあなたの人生。私がいまから、スタートさせてあげるんだから。
スタートボタン、押すのが正解か? いおにあ @hantarei
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