警備員アルバイトの四十代男性はモツ鍋を楽しみにしている
石田徹弥
警備員アルバイトの四十代男性はモツ鍋を楽しみにしている
良光はレジ袋を流しに乱雑に置くと、着替えもせずに煙草を取り出して火を点けた。
大きく吸い込むと、舌打ちをして煙を吐く。
「くはぁ」
この舌打ちは〝旨い〟と感じたときのものだった。煙草を咥え、レジ袋を漁る。中から一人用の鍋セットを取り出した。「サミット」で398円。生鮮食品や総菜系は十九時を過ぎると割引が始まるが、鍋セットは保存が利くからか割り引かれることは無い。それだけが残念だったが、まぁいいだろう。良光はスーパーでこれを見た時と同じように舌なめずりする。
キャベツ、ニラ、ニンニクチップ、輪切り唐辛子にゴマ、あごだしスープ。そして目玉である牛モツ80グラム。パックに入った牛モツをすでに鍋に配置されていた他具材の上に乗せると、レジ袋から別のパックを取り出した。
牛モツ180グラム。こちらは四割引き。この商品を見た瞬間に良光の脳内で〝今日の晩餐〟が生み出された。
パックを包むラップを雑に引きちぎると、そのままドバドバと鍋の上に積み上げる。
「追いモツ、追いモツ~」
狭い流し台の冷たい色をした蛍光灯が、新雪のように輝く、白くフワフワの脂身を照らした。キャベツは切ったばかりのように瑞々しく、ニラは中国奥地に鬱蒼とする森林のように緑が深い。唐辛子とゴマは大味に振りかけられてはいるが、晩餐を引き締めるアクセントとなることは間違いなかった。
買ってから十年以上一度も掃除をしていない焦げ汚れたコンロに鍋を乗せ、火を点けた。ちょうど一本目の煙草が根元まで吸い終わったので、良光は着替えることにした。
青色の警備員服を脱ぐと、締め付けからの解放感を全身に感じた。鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。五日は洗っていないが、まだ大丈夫そうだ。
そのまま床に投げ捨てると、冷蔵庫を開け、冷やしていたサーモスのジョッキを取り出した。700ミリリットルの大型。その中に氷をたっぷりと入れると、業務用ウイスキーを半分近くまで注ぐ。冷蔵庫横に転がっている業務スーパーで購入した2リットル98円の炭酸水をなみなみと入れると、指でかきまぜてハイボールを完成させた。
琥珀色の液体は氷を溶かし始め、流氷が流れる北極海の様相を醸し出している。すぐさま炭酸水による極小の小さな泡が無数に弾け、良光にとっての至極のオーケストラを奏でた。
一気に飲む。首筋に垂れようが、そのまま床を濡らそうがかまわない。このために昼休憩から一切、水分を摂らなかったのだ。濃い目ハイボールが、乾ききった四十代中年男の体を潤した。
「くぅっ、はぁー!」
隣から苦情が入りそうなほど大きく感嘆の声を上げると、二本目の煙草に火を点けた。灰はそのまま流しに捨てる。手を洗えば灰も流れる。一石二鳥だ。
鍋が煮立ち始めた。旨味が凝縮した泡が全体を包み、具材が楽しそうに踊っている。
その様子を見ながら、良光は目を細めた。いいぞ、いいぞ。
わずかに残った一杯目のハイボールを飲み切ると、すぐさま同じ分量でもう一杯のハイボールを作る。こぼれる笑みのまま口につけようとしたとき、スマホが鳴った。
表示を見ると母だった。良光の表情は曇り、舌打ちをする。
「もしもし」
母は良光の声を聞くと一度ため息を吐き、借金の返金を催促した。良光はこれまで幾度となく実家に無心しては、悪びれることもなく返金はしなかった。親は子供に優しくするのが当然だろうというのが良光の考えだった。しかしそれも父が病気で倒れるまでであった。定年を迎えた後も嘱託で働いていた父が実家の唯一の収入だった。当然、実家の家計は火の車になる。そこで母は、良光に少しでもいいからお金を返してもらえないかと何度も連絡をしてきた。だが、日がな警備員のバイトで食いつなぎ、貯金など一円も持っていない良光は当然無理だと断った。どこでもいいから就職したらどうだと母に言われると、良光は電話口で怒鳴り散らしたりもした。「俺は自由でいたいんだ」が言い分だった。
「もうかけてくんな」
良光は冷たく言い放つと通話を切り、そのまま電源を切った。
ちょうど鍋が完成した。
焦げ付いたミトンをはめて、鍋を手に窓際に持っていく。重ねた督促状の束を敷物にして鍋を置いた。ハイボールも持ってきて窓を開けると、十月の夜風が気持ちよく通り抜けた。
三本目の煙草に火を点け、今度は半分までハイボールを飲む。
大きくゲップをすると、椀にモツ二つとキャベツとニラを取り、一味を振りかけた。
一口目はもちろん、モツである。ぷりぷりの脂身は顔を映し出すほど輝いていた。沸き立つ湯気はよく見れば虹色に流れている。虹が鼻孔を通り過ぎ、脳内に美しい花を咲かせた。
「いただきます」
迷うことなく口に運ぶ。まず、その熱さが口に広がった。〝熱いとは旨い〟である。舌を焼くような熱さに耐えていると、手を取り合った肉とあごだしが熱さの先にある快楽を、脳に押し込んだ。
二度、三度、そしてもう一度と咀嚼し、ゆっくりと飲み込む。喉を通る熱さという旨さを感じている間に、残りのハイボールを飲み干した。
そして煙草を大きく吸い込む。
「ぶぅあぁぁ」
脳が溶ける。溶けてもいい。このまま死んでもいい。
外を見ると薄っすらと星が見えた。もう一度ニコチンを灰に入れ、その星にぶっかけるように吐き出す。
良光は幸せだった。
警備員アルバイトの四十代男性はモツ鍋を楽しみにしている 石田徹弥 @tetsuyaishida
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