ルビコン川を渡るのだ
アズマ60
ルビコン川を渡るのだ
悔しかったら拳をあげろ。
わたしの脳味噌に住んでいる凶暴な妖精が、さっきからずっとそう囁いている。
「あんたはこの先どうするの。いつまでもお父さんもお母さんも働き続けるわけにはいかんし、お兄ちゃんだって文句ばっかり言いよるけども会社でちゃんと頑張りよるやないの。何であんただけこげんダメなんやろね」
我が家の説教部屋は三畳しかない仏間だ。
祖父母の仏壇、ロウソクに火をつけて正座を強制されて泣くまでエンドレス怒られる。
母親は五十代に入ってからもガツガツと精力的に仕事をしているキャリアババアで、わたしの大学での成績がド底辺であり就活の内定もとれてないから憤っている。
彼女によると昔の女子大生には高い目標意識と上昇志向があったそうだ。金持ち一家の家庭教師や地方議員のスタッフになって一流企業へのコネを掴み、さらには海外ボランティア、インターンとセミナーで自分を売り込むのも当たり前、女だからと差別されたが我々世代は仕事で見返した、自分は女性で初の課長になって切迫早産しかけたし産休は一ヶ月しかとらなかった、今は時代が悪いとかそういう問題ではない、青春時代の死にものぐるいの努力は絶対にその後の人生を裏切らない、若い頃に努力しなかった人間が報われないのは昔も今も変わらない、よっておまえは甘ったれのクズ。証明終わり。これが母親の言い分だった。わたしに言わせれば社畜の鎖自慢だ。
あほかと思う。
でも言い返せない。
だがしかしハウエバー、言い訳はしたい。
「そんなキーキー怒られても困るし、まだ冬やし、卒業まで時間はあるし」
「あんたはどうしたいんね」
わたしはどうしたいのかっていうと、もちろんそれはオフコース、社会に出たくなかった。
今のまま、ぬるぬるとバイトを続けていたかった。
社会に出るのが怖い。
責任を負うのが怖い。っていうか怒られるのが怖い。
怒られながら仕事をするのはバイトを始めた最初の数日だけで充分だ。あの日々はしんどかった。マニュアル通りに飲食物のような何かを加工して提供するという誰にでも出来る簡単なお仕事のはずなのに、厨房ババアたちによる陰湿なイジメ、常連クソ独居老人のクレームや名指しのつきまとい、スキルアップ研修という名目の理不尽な残業。「学生スタッフの夢実現を応援するアットホームな職場です」が聞いて呆れる。何度もやめたいと思ったけどなぜかずるずると続けてしまっているのは、単に、まず絶対に反対されない理由を考えて店長を説得して退職の許しをもらってから日にちを決めて皆に挨拶をして引き継ぎをして云々という手続きが面倒臭いからだ。それにこのバイトをやめたら、新しいバイトを探さなきゃならない。そしてまた新人になる。
新人はエブリデイしんどい。
バイトであれだけしんどかったのだから、新卒カードをきって正社員になったらいったいどれだけの艱難辛苦がわたしを襲うのだろう。
オウマイガ、わたしマストダイ。
「あんた留年しなさい。学費の心配はいらんけんもう一年真剣に就活せんね」
「は、まじで? ありがたいけどさすがにそれは」
「あんたには根性がない。何が何でも就職してやろうっていう気概が感じられんのよ。そんなんやったら、百社受けても千社受けてもダメくさ、わかっとろうもん。まさかこのままずるずるとアルバイトで暮らしていこうなんて思っとるんやなかろうね」
そういう気概とかいうのは、正直、どうでもよかった。
ただわたしは、生活は楽な方がいいし、好きなことを仕事にしていけたらいいなあと漠然と思っている。
漫画を描いて生きていけたらなあと思う。
実績ならちゃんとある。東京の出版社でルーキー奨励賞で一万円もらった。編集者とやりとりして次回作は協力して入賞を狙おうって言われた。ネタが出来たらネームを送ってと言われたからそのようにした。それきり返事はない。だから別の出版社にも投稿してみた。そこでも奨励賞で三万円もらった。そこの編集者からも連絡がきて他の作品も読みたいと言われ送った。それきり返事はない。
同人誌はさっぱり売れないのに、えっちな版権イラストをネットで公開すれば自分でいうのも何だけど大人気だ。えっちなイラストの仕事をしませんかとDMをもらった。でもそのときには出版社編集者が担当についた直後でお調子マックス状態だった。すぐにでも連載デビューして一年後はアニメ化二年後には実写映画化三年後には東京でタワマン暮らしという夢を描いていた。叶うと思っていた。だから単価がタダ同然のイラスト仕事は丁重にお断りしてしまった。それは今でもわたしが夜ベッドで寝る前に思い出しては唇をかみしめ後悔している圧倒的判断ミスだ。
ああ、わたしはいつも、生き様と選択を間違えている。
「あんた、正社員の就職先が決まるまでは東京のアレは禁止ね」
「あれって何」
「言われんでもわかっとろうもん、あんたの好きなエロマンガ即売会のアレよ、盆と年末のやつ。もう大学を出るんやからそろそろ大人になってエロ本からは卒業せんと、そんなやけ就職も決まらんのよ。あんたの部屋のダンボールの中身をお母さんが知らないとでも思っとった? あれはあんたがいつもテレビで観よるアニメのパロディマンガやろ、勝手にあんなエロ本を作って売っていいの? 著作権違反やろうもん、ポルノなんとか法で警察につかまるんやなかとね? そんなクソくだらん犯罪で刑務所に入ることになったら製造者責任でお母さんがあんたを殺してやるから」
「ちょっと待ってーイベントぐらい行かせてよ! わたしちゃんとバイトしてお金つくって自己責任で参加しよるのに何でそんなこと言われないかんの、そりゃグレーゾーンの活動だってことはわかってるけど少なくともお母さんの許諾なんて必要ないし、それにエロがエロがとおっしゃいますがそれはわたし一個人の性癖の問題でございまして本来コミケはそういうやつばかりというわけでは、まずコミケの歴史をひもときますと」
「そんな気持ち悪いオタクみたいな喋り方やめて、情けない。お母さんの高校んときの友達にもあんたみたいな子たちがおったわ、ネクラのメガネッコで屁理屈捏ねて学内行事はサボってばかり、ホモ漫画は芸術的でお耽美な高尚趣味ってか、気持ち悪い。去年の同窓会で見かけたけど、あいつら五十代も半ばを過ぎたっていうのにさ、孫がいてもおかしくない歳のババアになってもまだホモ談義で盛り上がっとったわ、今はフィギュアスケートのナントカ君が萌え〜だとかなんとか。ホモマンガに夢中のあんたと同じで女のクズばい」
「そんなホモホモ言わないで……その呼び方は駄目だよ……ていうかその貴腐人姐さんたちと会ってみたい……」
話が逸れてるしマシンガン説教がいつの間にかとんでもない方向に歪んでいるしぶっちゃけわたしは今とても死にたい。まあ殺されても死にませんけどもねブヒヒ。
「ねえあんたちょっとまじめに考えてみ。たとえば金のこととかさ、あんたが漫画家志望の底辺フリーターになるとして、」
人間ひとりの生活費が月どれだけかかるのか計算したことがあるのかと母親が尋ね、わたしはちっともそれに答えることが出来なかった。
それで結局、就職が決まらないのは自分のせいじゃないのにと思って、わたしは両手を振り回してめえめえと森の子ヤギの勢いで泣きわめいたのだった。
泣いてどうなるわけでもないのに泣くしかないときがある、だってどうにかするために泣くわけじゃないんだもの。仕方ない。
悔しかったら拳をあげろ。
わたしの脳味噌に住んでいる凶暴な妖精が、ずっとそう囁いている。
*
東京はいつも楽しい。
年末の夜はなおさらだ。
そんなこんなの事情だったけど冬コミの新刊をきっちり仕上げてわたしは上京した。母親は何も言わなかった。まあそれはいい。コミケはいつものように大量の新刊と大量の既刊と無配ペーパーを並べてどうにか終えた。そしていつものように全然売れなかった。仕方ない。年末の三日間をだらしなく東京で過ごせば、ああ、何の成果も得られないまま一生一度きりの今年が無駄に暮れてゆく。
居酒屋で過ごす大晦日は最低で最高だな。
「北欧の国に行きたいっす」
「え、何で」
「福祉バッチリ」
「あー、ダメだあダメ人間の発言だぁ。ていうかどんだけ昔のネタだよそれ。北欧も北欧なりに生きづらいって本に書いてあったよ、地上の楽園なんて何処にもないのだ」
毛利さんはビールのジョッキをあおって明るく笑い飛ばした。
同い年の同人友達だ。今のジャンルに定住を決めてから二年くらい仲良くしてる。BL二次創作における解釈の傾向が似ていて萌え語りの趣味が合うから「相方」みたいなものなんだと思う。彼女は東京に住んでいて、九州住みのわたしはイベントで上京するたびに彼女と会う。たまに泊めてもらうこともある。でもべたべたした関係ではない。それはわたしが依存したくなるほど彼女がデキた人間ではないからだ。言うまでもなくやっぱり彼女も来春から無職。
「福祉の金なんて結局は普通に働いてるひとたちから問答無用で理不尽に巻き上げた税金じゃん。真面目な人間にとってはたまったもんじゃないね。ぶっちゃけ虫けらは死ねばいいと思うねきっと。働いた金のうちほとんどが税金に消えてくなんて国はまっぴらゴメンだよ」
「わたしさあ、毛利さん、そういうキッツい考えってよくわっかんないんだよねぇ。自分はね、逆に、自分らみたいなしんどい若者を国がちゃんと支えてくれたらいいのにと思うよ税金で。この少子化社会、若者は国の宝じゃん」
「ふーん」
毛利さんはすごく優しい顔で笑って、わたしの頭を撫ぜた。
「貴様ひょっとして箱入り娘? 処女?」
バカにされているのがわかった。
「おかげさまで」
「てめぇみたいなクソのせいで、最近の大学生がみんなクソ並みの学力だと言われんだよーぅ」
「言葉が汚いのーぅ」
酔っ払ってるからご愛嬌。しょっぱい唐揚げを食べて許してあげよう。
楽しく酔っ払って狂ってる最中でさえ、わたしはこの春からどうやって暮らしてるんだろうとそればかり考えている。
あれから母親に、大学を卒業したら出ていけと言われた。
ここに五十万ある、これはおまえのこれまでのお年玉を全部貯金したものだ、これを返すからまずはこれでアパートを借りなさいときた。
わたしは一人暮らしなんてネバー絶対したくない。
料理とか面倒そうだから。そういうことに時間をさらわれるのがもったいない。
それにあれだ、苦楽を共にしてくれそうな彼氏もいないしな。つか男欲しいな。何とかして欲しいこの事態。できれば結婚したい。ちゃんとした男と。できれば年上。新卒カードならぬ処女カードをきれば何とかなるような気がする、世の中の男はみんな若い処女と結婚したがってるってネットに書いてあった。
ちゃんとした男に愛されたらわたしはちゃんとした人間になれる気がする。
わたしニードイズ愛。
「彼氏欲しいなあ。ガチ理系で猫好きで、一流企業じゃなくてもいいから福利厚生がちゃんとしている地方大都市の中小企業にお勤めの結婚願望の強いサラリーマンで、メガネかけてて、古今東西のカルト映画と格闘技ネタにはちょっとうるさくて、某海賊マンガのアンチで、高校時代は孤高なタイプで、各種アイドルは一軍選手層の顔と名前がどうにか一致する程度で曲は買わない、ネット関係の話題は苦手で、選挙には必ず行って、貯金額は最低でも年齢掛ける二十五万、わたしが生涯三人目か四人目くらいの彼女だから女の扱いに馴れてて気遣いもさりげなくて、それでもって元カノたちとは完全に絶縁している状態で、実家から完全に独立してるから血縁者に対する執着がなくて、インドア派だけど男子力高くてIT家電の配線や量販家具の組立が得意で、それで深夜アニメをたまにチェックする程度のライトなアニオタで理解してくれる系がいい。インスタ漫画の『ゴーゴー☆腐夫婦の日常』みたいなやつ」
「そんな都合の良いATM男なんて喪女をこじらせすぎてトンじゃった腐女子の前頭葉の中にしか存在しない。ハイスペックイケメン研究員オタク夫と商業マンガ家腐女子妻の実録漫画のアレは全部捏造なんだってさ、作者は病的な虚言癖で昔から有名だったってリアル知り合いに暴露されてた」
「もうバカぁなんでそんなこというのー、薄々そんな気はしてたけどー」
毛利さんは冷静だ。
なんだかなあ、ってわたしが首をひねってもたじろがない。この友人とは萌えの相性はばっちりなのに政治的な思想が合わない。
彼女は言う。
「わたしが男だったらさ、せめて結婚相手の女にはそこそこ社会に揉まれてて欲しいよ。心地よいプライドのあるイイ女がいいもん。何処に出しても恥ずかしくないっていうかさ」
「それと就職はぜんぜん関係ない気がする」
「あーそれはやっぱりアタシも卑屈になってるからかなあ、今」
「呑めよ」
わたしの中に住んでいる凶暴な小人が、今こそチャンスだと剣を突き上げる。
ガンバロー。エイエイオー。
悔しかったら生き抜いてみろ、と大仰なことを言う。
エイエイオー。
……でもさ、あれだよ、えい、えい、おー……って何をガンバルんだよ畜生。
「あ、みて、あのひと!」
毛利さんがいきなり声を潜めてわたしの腕を引いた。
「えっ何」
「向こうのカウンターのとこ。おっさんとババアとお爺さんの三人連れがいるでしょ、で、そのおっさんあれだ、日下部先生だ」
「え、うわ、ガチだ!」
立ち上がりかけたわたしを「こらこら」と毛利さんが引き戻す。だからなるべく平静を装って、この狭いテーブル席の気配を殺して、談笑しながら酒のグラスをあけているおっさんを遠く観察する。
間違いない。やばい。すごい。ガチでナマの日下部先生だ。
日下部先生というのは神だ。
神というのは古き良き平成ネットスラング的な意味の死語で、簡単に言えば、わたしが好きすぎて憧れている、令和語でいうなら推しの男性漫画家だ。誰もが知る商業エロ作家で、ときどきは別のペンネームでコミケに参加している。毛利さんはいつも「日下部神になら抱かれてもいい」って言う。なぜなら日下部という名の神は四十路のおっさんだけどめちゃめちゃイケメンなのだ。あんなに緻密で劇画的で変態的な素晴らしい経典を数々発表なさっているのに細身でハンサムで今もメガネが似合ってる。最高にハンサム。とてもアラフォーのエロオタクには見えないよ。ずるい。エロ漫画家はもっとブサイクであるべき。百貫デブであるべき。ずるい。
ここだけの話、マンガを描き始めたばかりの頃のわたしは彼のイラストやマンガをトレースしまくって独学した。おお神イズゴッドよ、あなたはわたしの心の恋人であり父なのだ……今日も大行列に並んで新刊買いました! 最&高でした!
彼の容姿と才能に憧れているサブカル系同人女は多い。
でも彼はそんな女たちをつまみ食いすることはない。結婚することもない。その理由はネット掲示板で知った。ゲイなのだ。だけどそんなのべつに彼の人格や作風には関係ないしファンにとってはどうでもいい。
わたしを掴んでいる毛利さんの手がゆるんだ。今だ。わたしはスマホをつかんでカウンター席に向かう。歩く。小走りになる。走る。
「え、わっ、あんた、やめっ」
毛利さんの制止はきかない。すでにわたしは日下部さんの背後に立っていた。彼は老人とおばさんに挟まれて座っていた。三人ともほろ酔いでご機嫌だった。テーブルに並んだ牛タンステーキおいしそう。さすが大手サークルのアフターは違う。
「あの、失礼ですけどっ、日下部先生でいらっしゃいますか! わたし先生のファンです!」
*
わたしが声をかけると彼はゆっくり振り向いた。
カウンターの中では居酒屋の若大将が笑いをかみ殺しているのが見えた。店内は大晦日なのにブルースが流れていた。彼の右隣の老人は誰だろう。きちんとスーツを着ているけれどネクタイを弛めていてやけにセクシーなお爺さんだ。父親というわけでもなさそうだからもしかしたら出版社の偉い人かもしれないけど、ただひとつ判ること、これは直感だけどたぶん彼の彼氏だ。でもって彼の左隣にいるおばさんは彼のサークルの売り子たちを仕切ってるひとだ。彼には顔がそっくりの美しい姉がいるのだと、これもネット掲示板で知った。彼女は去年結婚したけれど、すぐに離婚して弟のアシスタントに戻ったのだという。
日下部先生は驚いていなかったし戸惑いの表情も見せなかった。
いきなり失礼にも声をかけたわたしに淡々と
「あ、そうですか。どうもありがとうございます」
と言った。
「いきなり声をかけてすみません、話はすぐ終わります、あのっ、わたしもマンガ描いててっ、今はエロやってるんですけどあんましパッとしなくて、いちお一般誌で奨励賞とか貰ったことあるんですけど、いつかは男性誌で勝負したくてっ!」
元から頭が悪いし今は酔っているし混乱しているし、さっき毛利さんと話してたこともあって言葉の中身がぐちゃぐちゃだった。支離滅裂は自覚してる。
彼のお姉さんがプゲラッと笑った。
日下部先生は笑ってない。でも頬が赤くて酔っている。
「商業をめざしてるんですか?」
なんて艶やかで素敵なんだろう。この男は最高か。究極か。
「あ……ハイ……先生の原稿だいすきでお手本にして絵の練習しまくりました、やっぱりアナログの線は味があって……」
「オレはもう長いことデジタルだけど」
「あッそうなんですか失礼しました! それでえっともしよければ絵をみてアドバイスをいただければ! ネットで公開してる作品がありまして、ええとスマホから読めるのでよろしければ」
握りしめてたスマホを操作しようとして自分の持ち物なのにロック解除に手間取って、自分がめちゃめちゃ震えてることにようやく気づいた。ああ神よ。ゴッド神よ。
「ごめん、この場所はそういう雰囲気じゃないから閲覧は遠慮しておきます。こんな底辺商業やってるおっさんからのアドバイスっていうか特にたいしたことは言えないしそういう立場でもないけど、」
日下部先生はふわふわした声でわたしを制して肩をすくめた。ああしまった。わたしはどうしてこんなにばかなんだろう。すみません。死にます。嘘です。でもごめんなさい。申し訳ない。
「君、夏休みの宿題はちゃんと仕上げて提出日を守ってた?」
日下部先生がわたしに訊ねる。
いきなり何だろう。
でもわたしは反り返るほど胸を張った。
「あ、はいそれはもう! 七月下旬の十日間で全部片付けて八月はずっと祖父母の家で過ごしてました。そうしないと母親がすっごく怒るので!」
「寝坊して学校に遅刻したことある?」
「ないです。大学やバイトにいくときには、最悪でも家を出る一時間前までには起きるようにしてます。わたしは頭が悪いから何をするにも二時間前に準備しておきなさいってこれも母親が」
「それじゃもちろん同人誌の〆切は破ったことないよね」
「メインジャンルはいつも印刷所の早割を使ってます、毎回大赤字だから少しでも安く上げないといけないし。突発本をつくることもありますが遅くとも〆切の一週間前には仕上げなきゃ自分でも気分が悪くて」
「それならいつか努力が実る日がくる。どうやら君は〝大丈夫なひと〟だから」
「へっ」
間抜けな声をもらしたわたしに、先生はゆっくりと告げた。
「来年かも知れないし十年後かそれより先かもしれない、一回こっきりで終わるかもしれないし軌道に乗れるかもわからない。でもね、絵が下手でもストーリーが壊滅的でも〝大丈夫なひと〟は他の人間よりもチャンス到来の確率がはるかに高い。がんばってください、応援してます」
大丈夫なひとってどういう意味だろう。でも悪い意味じゃないことはわかった、なんとなく。
「わあああ、ありがとうございます、がんばります!」
なんだかテンプレ回答で流されちゃったような気がしないでもないけど、これが神のご神託であることには間違いなかった。わたしは予言神アポロンの声をたしかに今きいたのだ。
「お母さんにめっちゃ感謝しなきゃね」
日下部先生のお姉さんが言った。
「だってそうでしょ。あなたの話を聞いてると、そんなふうにいい子に育ったのはお母さんのスパルタ教育のおかげじゃん。親孝行しなよ」
「あ……」
言い返せなかった。
そうだった。
たしかにそうだった。わたしは約束を破らない。わたしは提出物の締め切りを破らない。わたしはぜったいに遅刻しない。わたしがそんな〝大丈夫なひと〟に育ったのは母親の薫陶を受けたからだ。それだけは否定しようのない真実だった。
急な胸痛におそわれて、マンガみたいなリアクションで「うっ」と呻いてしまう。人間ってほんとうに痛いこと言われたら心臓の血管が詰まるんだ。
「おや、向こうで倒れているのはあなたのお友達ではありませんか?」
それまで黙って話を聞いていた老紳士がいきなりジェントルな口調で向こうを指さした。
「え! あ! わ! 毛利さん!」
たしかに毛利さんだった。マーライオンのように胃の中身をぶちまけながら床に倒れている。飲み過ぎたせいだ。慌ててしまって、日下部先生たちに挨拶もできず毛利さんにかけつけた。居酒屋の店員も飛んできて「ただの酔っ払いだといいのですが一応いま救急車を呼びましたから」とわたしに告げる。毛利さんは顔面蒼白で冷や汗をかいているけれどすぐに死ぬような様子ではない。
頬を叩くと毛利さんはすぐに覚醒した。
「毛利さんしっかりして、もうすぐ救急車くるからねー!」
「えー……ゲロったら楽になったから寝てりゃ治るのにぃー、眠い……」
「そんなこと言ったってここで寝るわけにはいかんでしょ」
騒然としている店内をわたしはもういちど見渡す。日下部先生たち三人はすでに姿がなかった。わたしに凸られたのが迷惑だったのだろうし、この騒ぎを嫌って店を替えることにしたのだろう。仕方ない。所詮は他人、所詮は神だ。
救急車はすぐに来た。
救急隊員は事務的に毛利さんの様子を確認して担架で運んだ。わたしは自分と毛利さんの荷物を抱えて、それから大慌てで店の勘定とフロア清掃の迷惑料を払って済ませようとしたら若大将が手を振った。
「すでに戸崎さんにお支払いいただいてますよ。お大事にとおっしゃってました」
「え? 誰?」
「日下部先生のお連れ様です、いつかあなたの迷いが消えてルビコン川を渡りきったらそのときに貸した金額を返してくださいと──あ、ほら早くお友達に付き添ってあげなくちゃ」
救急車が発車しそうだ。なんだか訳がわからないまま頭をさげ、改めてお詫びに参りますと力の限り叫んで店を飛び出し、救急車の毛利さんに付き添った。
──いつかわたしがルビコン川を渡りきったら。
カエサルかよ。ローマかよ。何の話だよ。
大晦日の東京をぐるぐると、救急車は渋滞の波に飲み込まれてゆく。
「あ、年が明けた」
そしてあっさりと午前零時を迎えた。
あけましておめでとうおめでとう、すべてのチルドレンにおめでとうだこん畜生め。
搬送先の病院はまだ遠い。
「おかげさまで一生忘れないメモリアル年末年始になったよ」
ゲロまみれで眠っちゃった毛利さんに厭味を囁いて、さてこれからどうしてやろうかと考えつつ、わたしは、わたしは。
わたしは、ふと、ちゃんとしようって思った。
仕事があるとかないとかそういう表向きのことではなくて、母親の言葉で言うなら、気概とか、根性とか、そういう意味のこと。就職するにせよ同人とか持ち込みとかそっちの方面で覚悟を決めるにせよ、とにかく全部。全部全部の全部。
一言でまとめると、何だか今、すごく自分の人生が惨めで悔しかったのだ。
スタートしなくちゃと思ったのだ。
いずれにせよ、決断の日が近づいている。
惨めで情けなくて誰も祝福してくれないとしても、わたしは賽を投げねばならない。
そして賽は投げられたのだと自分に鞭を入れなくちゃならない。
ああ、ひとはある日ある夜あるタイミングで突然こうして心を決める。
行くのだ。
ひとりで征くのだ。
キャリーバッグに青春詰めて、春が来たらルビコン川を渡るのだ。
了
ルビコン川を渡るのだ アズマ60 @under60
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