第36話 彼のこと


 翌日早朝、宿屋の一室で目覚めたレオの寝惚けた眼は、その視界の端でいるはずのない人物の姿を捉えた。


 その人物はベッドから数歩離れた場所に、何をするでもなく直立不動のまま立ち尽くしている。あまりの驚きによって瞬時に意識が覚醒したレオは、まるで猫か何かのように飛び起きた。


「あ、起きましたか」


「本当に勘弁してくれっ! 昨日の今日で殺しに来たのかと思ったぜ!?」


「そうだとしたら、貴方は目覚めていませんよ」


「そうだろうな! で!? 何の用だ!?」


「まずは落ち着いて下さい。他の宿泊客のご迷惑になります」


 荒ぶるレオに着席するように促すと、ルネは慣れた様子でお茶を淹れた。よくよく見れば、テーブルには朝食も用意してある。


「誰の所為だよ……」


 ぶつぶつ文句を言いながらも服装を整えて席に付き、そっと差し出されたお茶を口にした。ほんのりと甘いが味そのものは薄くさっぱりしており、その一方で香り高く、目覚めには丁度良かった。


「お茶なんてどれも同じだろうと思っていたが、それは間違っていたみたいだ。茶葉の香りが気分を落ち着けるってのも、どうやら本当らしい」


「そのような効果もありますが、何より、香りや風味というものは毒を誤魔化すのに最適なのです」


 レオはゆっくりと音を立てずにティーカップを置くと、ルネに批難の眼差しを向けた。


「今のは冗談です」


「そうだと信じたい。でもな、顔が本気過ぎて判別が付かないんだよ」


「そう心配しなくても大丈夫ですよ。現に生きているではありませんか」


「今の所はな。遅効性の毒が入ってなかったことを祈るよ」


 朝食に手を付ける気が失せたのか、レオは席から立ってベッドに腰を下ろすと、ルネには椅子に座るようにと促した。


「それで、俺に何の用があって来たんだ。驚かせる為に来たわけじゃないだろう?」


「勿論、別の用件があって参りました」


 ルネは相変わらず立ったままで、レオも再度着席を促すような事はしなかった。おそらく、何度勧めたところで断るだろうし、そうして油断無く立っている方が彼女らしいと思えた。


「貴方はリトラ様に恩があると言っていましたね。自分達はあの方に救われたと」


「何だよ急に。実際、確かにそう言ったが、それがどうかしたのか? もしあいつに関わることで何かあったって言うなら、勿論協力はするが……」


「いえ、これはそういう話ではないのです」


「違うのか? それじゃあ、何故そんな話を?」


「あの夜に出会っただけの関係とは言え、貴方はあの方にとても恩義を感じていたようですから、これは貴方にもお伝えした方が良いかと思ったのです」


 ルネはここで一度言葉を切った。その勿体ぶった言い方に、レオはどこか嫌な予感がした。


「昨晩、リトラ様が亡くなりました」


「……そいつは、笑えない冗談だな。つい先日宮殿を訪れた時、リトラは寛解に向かっていると耳にしたばかりだ」


「これは冗談ではありません。非常に残念ですが、これは確かな事実です」


 部屋の空気は一転して重苦しいものへと変わり、朝食の良い香りも、微かに残る香草の香りも、レオの感覚から消え去った。そして理解の追い付かないまま、その胸の鼓動だけが大きく脈打ち、彼はそれによって自分が酷く動揺しているのだと理解した。


 その激しい動揺はリトラは必ず生き延びると確信していたからでもある。何らかの後遺症によって指先が不自由になったり、或いは片足を引き摺るような事になるかも知れないとは考えた。最悪の場合、介助が必要な身体になるのではないかと案じてもいた。

だがリトラの死など一度たりと考えたことは無く、不意に脳裏を過ったことも無かった。今のレオは、まさしく混乱の只中にあった。


「死んだ? あいつが? 何故?」


「医師によれば、一度は目覚めて快方に向かっているように思えたが、気付けば心肺が停止していた。との事でした」


「そんなわけがあるか!」


 突然声を荒げたかと思うと、レオは固く握った拳をベッドに叩き付けた。

 受け入れ難い事実が引き起こした動揺は今や混乱を経て、やり場のない怒りへと変わっていた。


「あいつはあの化け物にさえ殺せなかった男だぞ! あんたも見たはずだ、あの時突然現れた太陽を、あの奇跡のような出来事を。あいつはきっと、神か何かに愛されてるに違い無いんだ。そんな奴が簡単に、当たり前に死ぬはずがないんだよ」


 その声は震え、瞳には明らかな混乱が見て取れた。レオ自身、他人の死にここまで動揺するとは思ってもいなかったが、事実、次々に込み上げて来る感情の整理が付かず、心は激しく乱れていた。


 リトラに何一つ返す事が出来なかった、感謝の一つも伝えられなかった、という怒りにも似た激しい後悔。そして、まるで無二の友人を失ったかのような寂しさがあった。


「……人生を変えられたんだ。あいつと出会わなければ仲間達を失い、俺も死んでいただろう。何の根拠もないが、あいつが死ぬはずはないと思っていた。いつか必ず話せると、いずれは友になれると、勝手にそう思っていたんだ」


 その胸中に渦巻く感情は複雑なものだった。当初は強く反発する感情を抱いていた一方で、嫉妬や到底受け入れ難い羨望があったのも確かだった。それはおそらく、血筋や歴史に囚われないリトラに憧れがあったからなのだろう。レオ自身も、それに気が付いているようだった。


「踵を射抜かれでもしない限りは死なない奴だと思ってた。俺にとって、あいつはそういう存在に近かったんだ」


 一方のルネは、彼がリトラに対してここまで大きな感情を抱いているとは思わず、内心驚いていた。そうしていると、深く内省に沈んでいたレオがふと顔を上げた。


「済まなかったな、急に大声を出したりして。自分でも、こんなに取り乱すとは思ってなかった」


「いえ、私にもそのお気持ちは分かります。あの方について思ったり、話している時、不思議と明るい未来しか想像出来ませんでしたから……」


 とても寂し気な声色だった。そしてほんの一瞬だが、その表情は心細そうにしているように思えた。彼女もまた何か特別な感情を抱いているのだろうと、レオは思った。


「一夜の出来事とは言え、あの方は今後決して消える事のない、色褪せる事のない記憶を、私達の心に刻み込みました。だからこそ、その喪失感もまた大きいのでしょう」


「俺にはまだそこまで考えられない。出来ることなら、あいつを知りたかった。何処で何をしてたのか、どうやって生きてきたのか、いや、普通に話せるだけでも良かったんだ。仲間と一緒に飲み食いしながら、何でもない話をしたかったよ」


 突然の死、その動揺が過ぎ去り懐かしむような悲しみへと変わると、部屋の空気も幾らか和らいだようだった。


 ふと、レオはあの夜に受けた右腕の傷に触れてみたが、ほんの微かな痛みしか感じられなかった。その微かな痛みは、あの印象深く奇妙な夜でさえも、いずれは朧気な過去になるのだと示しているようだった。


「……そうだ、花くらいは手向けたい。あいつは何処に?」


「その前に、もう一つ知らせなければならない事があります。こちらが本題です」


「もう悪い報せは聞きたくないんだが、まさか、あいつ等に何かあったのか?」


「いえ、こちらは朗報です。貴方の罪は赦されました。数日もすれば、仲間達と再会出来るでしょう」


「は? いや、そいつは嬉しい限りだが、何故急に?」


「全てとは言わないまでも調査は進み、裏切り者の特定も出来ています。もう十分だと判断されたのでしょう」


「……そうか、〈彼女〉がそれで良いと言ったのなら、俺達はそれに従うだけだ。実際、彼女には感謝してる。そう伝えてくれると助かる」


「ええ、分かりました」


「おっと、これを聞き忘れた。数日後には合流出来ると言ったが、俺は此処で待っていれば良いのか?」


「ええ、担当の者にはこの宿の場所を伝えるようにと言ってあります。その間は宿代の心配をしなくても大丈夫です」


「そいつは大助かりだ。ありがとう。 他に、合流したら直ちに都から去れだとか、二度と都へは近付くなだとか、そういうのは?」


「何もありません。こう言っては何ですが、あの御方にはもう貴方達への関心などないのです」


 レオはこの言い方に引っ掛かったが、詮索しない方が懸命だと判断した。ひと月も経たず解放されたのは非常に喜ばしい事であるし、自分達への関心が無くなったのも好都合である。わざわざ問題を掘り起こす必要は無い。


「他に質問はありますか?」


「いいや、全く無い。それじゃあ、これであんたともお別れだな」


 晴れ晴れとした顔で、レオが言った。


「そうなります。では、用は済みましたので、私はこれで失礼致します」


 ルネは最後まで無表情だった。そうして軽やかに踵を返してドアへと向かったかと思うと、彼女は途中で足を止めて振り返った。


「危うく忘れる所でした。リトラ様のご遺体は都の南東、パパラチアという葬儀屋の安置施設にあります。先に言っておきますが、あまり良い気分にはならないでしょう。それについては、どうかお許し下さい」


 彼女はそう言って頭を下げると、今度こそ部屋を後にした。


 片や、一人残されたレオは、ルネの意味不明な謝罪に困惑していた。そもそも遺体と対面して良い気分になるはずはなく、それに関して彼女が謝罪するのもおかしな話である。


「何か面倒な事が起きてるな……」


 去り際の言葉もそうだが、気になる事はもう一つあった。


「あの御方はもう貴方達に関心などないのです」


 つまり以前は多少なりとも関心はあり、それが今では無くなったという事である。離反したとは言え、襲撃事件に加担した一味をこうも早く解放するというのは、果たして寛大という言葉が適切なのだろうか、恩赦とはそういうものなのだろうか、レオは訝った。


「事前に予告はなく、突然だからな。当然、予定されていた事ではない」


 であれば、今は自分達の処分どころではなく、他に注力したい問題が生じたと考えた方が自然に思えた。つまりそれは、ルネに注力させたい問題が出来たという事でもある。


(何か大きな仕事でも任されたのか?)


 そう考えて、レオは首を振った。


(いや、やめよう。どうせ碌な事じゃない、そうに決まってる。恩赦だと思って有り難く受け取ろう。それよりも、ええと、何て名前だったか、そうだ、パパラチアって葬儀屋だ。そっちもそっちで何かありそうだったが、どうしたもんかな……)


 解放され、後は仲間との合流を待つのみである。面倒事に巻き込まれるのは避けたい。


 レオはベッドに倒れ込んで黄色く変色した天井を見ながら、リトラに花を手向けに行くか否かを暫く悩んでいたが、そうしている間に大きく腹の音が鳴った。


「……食べてから考えるか」


 悩みは尽きないが、取り敢えず、冷めた朝食から片付ける事にした。



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リトラと夜の幻想曲 本居 素直 @sonetto-1_4

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