第35話 新生 (7)
「儂に一体何が出来たと言うのだ」
一方、自身に割り当てられた客室に戻ったグンナルは、机に被さるようにして頭を抱えていた。
長らく床に臥せていた国王エリアン、心の壊れた王女レセディ、それによって担ぎ上げられた王子アミルカル、思惑によってまとまりのない諸侯、それらを思う時、グンナルはウルリーカのような強い君主を望み、記憶に燦然と輝くかつての王家を夢想した。
だがそれだけである。グンナルは何もウルリーカ本人の帰還を望んでいたわけではない。
「何故、こんな事に……」
次いで出た言葉こそが全てだった。もしライラントが生きていれば、いや、そもそもレナードが謀殺など企てなければ、レセディは良き伴侶を得て、かつてのウルリーカと同様に名君として国を導いたに違いない。
それなのに何故、こうも悲劇的な未来へと変わってしまったのか、グンナルは嘆かずにはいられなかった。だが現にそうなってしまった。過ぎ去った時を戻す事は出来ない。
「レセディ様のご覚悟、あれは相当なものであった。ああなってしまっては、その心を動かすのは容易な事ではない」
まだ引き返せる段階にあると信じたいが、レセディ本人がそれを望まぬのではあれば最早どうすることも出来ない。もしエリアンが健在であれば、レセディもあのような決断はしなかったであろうが、それもまた今となってはどうしようもない事だった。
グンナルは歯噛みした。どの事柄もレセディの決断を後押しするものばかりで、助けになるようなものはない。まるで見えざる意思の力によって、そうなるように仕向けられてるようにさえ思えた。
「……宿命というものか、或いは積み重なった偶然の産物か、どちらにせよ、全ての歯車がこうも望まぬ形で噛み合ってしまうとは、この世とは随分と無慈悲な世界だったようだ」
項垂れるグンナルは吐き捨てるようにして呟くと、何とか気を紛らわそうとして机に置かれてある日誌を手に取った。この行為が現実逃避であることは理解していたが、今はとにかく目を逸らしたかった。
しかし集中出来るはずもなく、くたびれた脳は文字を読む事を拒否しているようだった。それでも日誌と睨み合い、何とかその内容を詰め込むと、そこにはリトラに表れた症状やその経過、対処療法などについて几帳面な文字で記されている。
「発熱、痛み、その時々に表れた症状に応じて対処する。原因を絶とうという考えに囚われていた儂では、おそらく死なせていたであろう。リトラが目覚めたのは、駆け付けてくれた彼等のお陰だ」
一時であれリトラが目覚め、確実に快方に向かっている事に安堵しながら、なんの気なしに最初のページへと戻ってみると、その日付は十七日前だった。
そこにはリトラが運び込まれた直後の出来事、東館二階客室を改装して病室にした事などが乱れた文字で記されている。ちなみに、その病室はグンナルのいる客室の隣にあり、その他数名の医師にもグンナル同様に部屋が与えられている。今後暫くはこの状態が続くだろう。
「静かなものだ」
壁の向こう側、リトラの眠る病室から音はない。その穏やかな静寂に聞き入りながら、グンナルは椅子にもたれて一息ついた。
夜が静かに、穏やかに過ぎて行くなど、ほんの数日前までは考えられない事だった。
リトラは、夜になると発作のようにして表れる発熱に魘され、激しい苦痛によって身を捩り、酷い時には暴れることもあり、そうなれば大人数人で押さえなければならない程だった。
しかしそれらの恐ろしい症状も、リトラが目覚めてからは姿を見せていない。とは言え油断はならず、今も一人が付いている。いずれ更に快方へと向かえば、数時間に一度様子を見る程度には落ち着くだろうが、それはまだまだ先であろう。
ここでふと、グンナルは思った。
(皆も当然の事として受け入れているが、落ち着いて考えてみると、素性の分からぬ少年を宮殿に置いておくなど有り得ぬ話だ)
現在の宮殿には医師、薬品、設備、全てが揃っている。おそらく市街の病院に匹敵し得る設備があり、結集した知識も含めれば最先端と言えるだろう。
宮殿に医師を置くというのは、元々床に臥していたエリアンに加え、襲撃によって負傷者が多数出た為に已む無くだと理解することは出来る。だが王家でもない、特別親交のある貴族ですらない人間の為に病室を作るなど通常考えられない話である。
また、あらゆる可能性を考慮した場合、リトラを宮殿に置くのは危険だと言えた。というのも、現代において婚姻前の女性(ウルリーカは既婚なのだがそれはさておき)にあらぬ噂が立つのは非常に危険な事である。殊更に、神格化されつつあるレセディ(ウルリーカ)にとって、処女性や神聖さを失うことは絶対に避けなければならない事であろう。
その上で決断したのならば、そこにはどのような意味があるのだろうか。
「もし、そうであるなら……」
迂遠な言い回しをせずにはっきりと言ってしまえば、リトラへの措置は女王の寛大さを周囲に示すという意図だけではなく、特別な感情を抱いているからではないのか。と、グンナルはそう考えていた。
たった一夜の出来事とは言え、寺院での運命的な出会いやリトラの行動を思えば、如何に心に傷があろうと恋に落ちるのは何も不思議な話ではない。愛した男を思わせる面差しも、レセディはそれを不快に思うどころか、好意を寄せる一つの要因になっているようだった。
「リトラならば、或いは」
リトラならば、レセディの心を変えることが出来るかもしれない。現実的に考えて最も有力な人物はアンセルムだが、グンナルにはリトラの方が望みのあるように思えた。
そう感じる理由としては先述したものに加えて、それを補強する事実が二つあった。まずリトラの目覚めを報告した際のレセディの反応が一つ、もう一つは、日常生活に支障を来す程に視力が低下していると報告した際の反応だった。
前者はリトラの回復を喜ぶ笑顔、これは純粋に好意を抱いている者への反応に違い無かった。
後者は、ほんの一瞬だけ見せた歓喜の表情。瞳は一度大きく見開かれて輝き、口元は無意識に口角が上がるのを抑えた為か歪んでいた。レセディがリトラに恋愛的な好意を抱いていると感じたのはこれが大きい。
おそらくレセディにも自覚はないであろうが、これによって彼と離れずに済むのではないか、または、奉仕と慈悲によって彼を我が物に出来る、という一種の支配的な悦びである。
何故、こうもはっきりと断言出来るのかと言えば、グンナルにはその表情に覚えがあったからだ。
それは七十余年前の王都決戦後、ヴィルケス公ブラムとの戦いで負傷したラーシュ、彼に寄り添ったウルリーカも同じ顔を見せた事がある。また、これは彼女本人がそれと認め、打ち明けた事でもある。彼女は嫉妬深く独占欲の強い自分を変えようと努力したが、それは遂に叶わなかった。
しかし、グンナルは今も昔もそこに軽蔑の感情など抱かなかった。たとえ一般的には後ろ暗い感情だとしても、それは相手を深く思っているからこそ生じた感情に他ならない。
負傷したラーシュの下にウルリーカが足繁く通ったのは事実であるし、その行動と感情に偽りはない。また、看護婦にさえも触れさせたくない、彼を独占したいと欲する激しい感情にも偽りはないのである。
これは二人ともに言えることだが、ひとたびこれと決めた男に向けた愛の情熱は冷める事がなく、それは時に本人すらも容易く呑み込むが、その強靭な精神と合わさった時、まさに超人的な意思の力を生む。かつてのウルリーカや、此度のレセディがまさにそれであった。
グンナルはそれを思うと、レセディがリトラに恋心を抱いているという考えが間違いのような気がしてきた。レセディのような人物は、そのような心変わりを許されない裏切りだと捉える傾向がある。
「だがそれでも、リトラに強い感情を抱いているのは確かなのだ」
これは人聞きが悪いが、グンナルはリトラを利用し、レセディの心変わりを目論んでいた。
リトラが回復すれば、レセディは必ず会いに来る。いや、現在の立場を考えれば呼び出すだろうか。ともかく、接触はするはずである。どのような名目か、リトラに爵位を与えるという話でもするだろうか。それも全くあり得ない話ではないだろう。
その後に二人で話すことがあれば、それが上手く軌道に乗り、リトラにそれとなくレセディの考えを改めさせるように言い含めれば、気の長い話ではあるが可能性はある。ウルリーカではなく、レセディでいることに喜びを感じることがあれば、おそらくは。
「……果たして起こり得るだろうか、そんな奇跡の連続が。いや、偶然の積み重ねが今を作ったのだ。ならば、どんな未来もあり得るはずだ」
生まれたその時から知っている子が自らの人生を犠牲にする選択など許容したくはない。今は放棄したいとさえ思える人生にも、幸せの可能性は残されているはずなのだ。
何とかして、レセディには自分自身として生き、願わくは幸せになって欲しい。それは父エリアンも同じはずである。覚悟を決めた彼女にとっては要らぬ世話かもしれないが、到底諦められるものではなかった。
そこで何とか考え付いたのは、あまりに他力本願、穴だらけで、お世辞にも計画とは言えない思い付きだったが、それでも微かな希望が見えた気がした。
(そうだ、諦めるにはまだ早い。考え得る手段は全て試さねば……)
そう意気込むグンナルであったが、その未来と希望はこの直後、あろうことかリトラの手によって粉々に打ち砕かれる事になる。
「グンナル先生!」
思案に耽っていたグンナルは、完全な意識外にあった現実からの声によって引き戻された。
ノックもなく飛び込んできた医師は飛び跳ねるように立ち上がったグンナルの姿を認めると、今にも卒倒しそうな顔に微かな安堵を浮かべたが、それも束の間、再びその表情を強張らせた。
一方のグンナルはあまりの驚きに恨みがましい視線を送って咎めたが、相手にはそれに気付く余裕もない。そして、次の言葉によってグンナルは今度こそ驚愕した。
「すぐに来てください。彼の脈がないのです」
言葉の意味が飲み込めなかった。リトラは快方に向かっていたはずである。その身に一体何が起きたというのか、だが、それを考えている暇はない。グンナルは医師と共に隣室へ走ると、中では既に別の医師が心肺蘇生を試みている最中であった。
(逝かないでくれ、頼む)
しかし、グンナルの願いも虚しく、この夜に奇跡は起きなかった。誰にも気付かれることなくリトラに忍び寄っていた死は、遂に彼を捕らえて離さなかったのである。彼等の尽力も虚しく、この夜、リトラは死んだ。
しかし、誰がそれを責められるだろう。快方に向かっているかに思えたリトラが、あの夜、シリウスによって既に回復不可能な程に身のうちを焼き尽くされていた事に、彼等がどうして気付くことが出来ただろう。
そしてこの夜に訪れた死は、彼女の心をすっかり凍てつかせてしまった。ほんの僅かに残っていた愛への希望も、その胸に微かな温もりを与えていた、まだ恋心とも言えない仄かな想いの芽生えも、冷え切ったリトラの頬に彼女の震える指先が触れた時、跡形もなく消え去ってしまった。
だがその一方で、この時までは単なる想像でしかなく、本来なら永遠に見るはずのなかった、愛する男の真実の死に顔によって、彼女の心に深く刻まれた復讐の一念は再び、いや、二年前のあの日よりも更に激しく燃え上がったのは言うまでもない。
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