第15話 王子の心


 両手を広げ、芝居がかった台詞を口にするリトラ、一方のアミルカルは、そんなリトラに呆れるかと思いきや、胸をときめかせていた。


(女神様の言っていた通りだった。この人は、僕が夜毎よごとに思い描いていた存在そのものだ。〈彼〉はいつも、あのベッドに囚われた僕を冒険に連れ出してくれた。それが今、現実になったんだ……まるで夢みたいだ。もしかしたら、まだ夢の中にいるのかもしれない。でも、それでもいい。この一夜ひとよだけでも自由に触れられるのなら、僕はそれで構わない)


 アミルカル・フェルディーン。

 彼には知恵があり、未経験の事柄に踏み出す勇気もあったが、その虚弱な体質と、それを案じる周囲によって才気を試す機会には恵まれず、箱入り、いや、軟禁とさえ言える息苦しい生活に辟易していた。


 況してや、彼の周囲に友人と呼べる者はおらず、本心を隠して近づいて来る大人達になど気を許せるはずもない。グンナルによる月に数回の授業は慰めにはなったが解決にはならず、最近では衝突する事も多くなっていた。


 衝突の原因は制御出来ない感情、つまりは八つ当たりや我儘であったが、そうような感情をぶつける相手もグンナル以外になく、アミルカルはそのような行いを悔い、年老いた恩師に申し訳ないとは思いつつも、己の可能性を試したいという思いと、募る苛立ちを抑える事は出来なかった。


 自身の置かれた環境、正常とは言えない人間関係、生れつきの不利、様々な〈飢え〉を耐え続けていた少年にとって、夜毎の空想は逃避ではなく救いだったのだろう。


 そんな彼にとって、リトラという自由は、ただただ眩しかった。


「アミルカル、大丈夫かい? もし体調が悪いなら言ってくれよ?」


「いえ、私なら平気です。本当に何ともないです」


 アミルカルは惚けていた頭を振って立ち上がると、背もたれに掛けていたマントを羽織り、リトラの隣に立った。


「行きましょう。場所は一階東館です」


「分かった。でも、階下には大勢が集まってる気配があった。大丈夫そうかい?」


 その問いに、アミルカルは目を丸くしてリトラを見上げた。


「どうかした?」


「あの、リトラさん、我々は潜入する訳ではありませんよ? 特に怪しまれる事もないと思いますが……」


 リトラが一体何を警戒しているのか分からず、アミルカルは不思議そうな顔をしている。


 一方のリトラは、宮殿内において自身の存在が既に知れ渡っている事や、現在の高貴な服装をすっかり忘れていたようで、アミルカルの言葉を聞いてそれに気が付くと、「あ、そっか、それもそうだね。ついつい忍び込む事ばかり考えてたよ」と言って頭を掻いた。


「でも、君の方は大丈夫? 今更だけど、君が部屋にいないのが分かったら騒ぎになるんじゃないか?」


「暫くは大丈夫だと思いますよ? 今頃は〈ウルリーカ様〉の王位継承の件で、私どころではないでしょうからね。我々は焦らず堂々と、のんびりと行きましょう」


 アミルカルの肝の座った物言いに、リトラは悪い顔をして微笑んだ。するとその時、背後から聞き慣れた声が掛かった。


「リトラ、いつまでも話してないで早く行って来い。ルネさんが来たら、オレから言っておく。それから、王子殿下にもしもの事があれば、オレもオマエも只じゃ済まない。夜遊びは程々にな」


 欠伸混じりに、ベッドの上でひらひらと翼を振るケフェウス。どうやら、二人の会話で少し前には起きていたらしい。


 リトラは「分かってる」とだけ言うと、驚いて固まっているアミルカルの背中を押しながら部屋を出た。


 廊下には先程と変わらず人影はなく、階下から聞こえていた大勢の声も今では聞こえない。二人は頷き合うと階段を降りて行く。その途中、未だ驚きを隠せない様子のアミルカルが口を開いた。


「ほ、本当に話せるんですね」


「そう言ったじゃないか」


「そうは言っても、聞くのと見るのとでは全く違いますよ。それにしても、その、随分と砕けた喋り方でしたね」


「がっかりした?」


「いえ、意外だっただけです。特に梟、いや、彼の場合は木兎なわけですが、ある神話では〈女神の女王〉の使いとして有名ですからね。なので、もっとこう、年老いたような口調で、まさに森の賢者といった感じだと思っていたのです」


「はははっ、あいつが森の賢者か。でもまあ、見た目だけならそうかもね」


 などと話している間に、二人は階段を降りて広間に出た。遠方には玄関が見え、そこには灯りを持った近衛兵達が立っているが、この玄関広間を巡回している近衛兵はいないようだ。


「君が部屋に来た時は騒がしかったけど、すっかり人がいなくなってるみたいだ。足止めを食ったりしないのは好都合だけど、皆揃ってどこに行ったんだろうな」


「おそらくは西館、〈あかの間〉でしょう。あそこなら、大勢が集まっても問題ないですから」


「そこは確か、玉座のある大広間だったね」


「ご存知でしたか。きっとそこに、父上と東側諸侯の方々、それから、姉様も……さあ、こちらです」


 広間の中頃に差し掛かると、東西に分かれた廊下があり、二人は東館に向けて歩き出した。


 そうして幾つかの部屋を通り過ぎた時、アミルカルは憂いを帯びた表情で、「おそらく、今夜中に決まるのだと思います」と寂し気に呟いたのだった。


「決まるってのは、エリアン陛下がすぐにでも彼女を次期女王に? それは、幾ら何でも事の進みが早すぎやしないか?」


「私もそう思います。けれど先程、これはリトラさんを訪ねる前の事ですが、姉様の傍には先生とアンセルム様が付いていました。アンセルム様は父上の古くからのご友人で、東側諸侯のまとめ役、先生は父上の教師でもあった御方です。あのお二人がいれば、周囲を納得させるのも容易いでしょう。それに、父上もそう長くはない。姉様があんな風になっても、それが頼れる存在であるならば良しと、そうお考えになってもおかしくはない」


 やや落胆したように、アミルカルは言葉を切った。父の心境を思えば仕方がないとは思いつつも、納得出来るかどうかはまた別の話である。


 リトラは、アミルカルの足取りが重くなっている事をはっきりと感じていた。彼の心に蓄積した不安が、その肉体さえも重くしているのだと、そう思った。


「どうかな、アミルカル、何か悩みがあるなら話してみないか? 俺は部外者で赤の他人、貴族でも何でもない。つまり、君や王家にとって毒にも薬にもならない人間だ。話し相手としてはもってこいだろ?」


 へらへらと軽口を叩くかのように言うが、アミルカルの目には、それが軽薄だとは映らなかった。


 自身の発言によって生まれた重苦しい空気、リトラはそれを緩和させようとしているのだろう。その心遣いが、アミルカルには有り難かった。


 そうとは言え、これまで自身の心情を他者に打ち明けた経験のないアミルカルは、話すのを躊躇った。躊躇いと言うより、どのように話せば良いのかが分からず、逡巡しているようだった。


 しかしそうしている間にも、姉の事、父の事、取り巻く環境、焦り、不安、そうしたものが心中に渦巻くの感じて、気が付けば、言葉が溢れ出していた。


「……私には、一体何が出来るでしょう。日の下を歩けず、体の調子が良いからととこから抜け出してみても、そこは闇の中です。近づいて来るのは甘言を用いる者、野心を植え付けようとする者、中には自分の子供さえもその手先にする者まで……私には、未だ友人と呼べる存在がおりません。他人と心を通わせた事がないのです。近頃では、父上や姉様とさえ気軽に会えなくなりました。王家とはこのようなものなのでしょうか。これが、この日々の連続が、私の人生なのでしょうか」


 そこまで言ってしまってから、アミルカルは我に返った。まるで、長く信頼を寄せている相手(ある意味ではそうなのだが)にするかのように心情を吐露してしまったが、リトラにとっては初対面の相手でしかない。


 こんな事を話した自分自身にも驚いたが、彼もさぞ困惑している事だろう。そう思い、アミルカルが謝罪しようとした時、リトラがゆっくりと穏やかな口調で語りかけた。


「俺は君の事をよく知っている訳じゃない。でもね、君は大丈夫だよ。君は賢くて、温かい心を持ってる。そしてきっと、他人の痛みや孤独を理解して、寄り添える人だ。アミルカル、君にしか出来ない事は必ずあるよ。もしも君がそれを見つけられなくても、向こうの方から君を見つけるはずさ」


「向こうから? 僕のやるべき事が、僕を見つける?」


「おかしな話だと思うかい? でもね、そういうものなんだよ。内側から生まれるものも、外側から得られる気付きも、そういう風に訪れるものなんだ」


「〈それ〉は、運命のようなものですか?」


「かも知れないね。それはとても大きな力の流れだ。良くも悪くもね。だから、そういうものを感じた時は、ただ身を任せたり、翻弄されちゃいけない。時には立ち向かわなきゃならない時もある。それがたとえ、自分ではどうしようもないと思ってしまう程、大きなものだとしても」


 此処ではない、どこか遠くを幻視しているような眼で、リトラが言った。


 アミルカルは立ち止まり、リトラを見上げた。リトラもまた立ち止まり、どこか不思議そうな顔をして此方を見つめるアミルカルを、優しげな眼差しで見つめた。


「ごめん、結局はただの気休めみたいになってしまったね。でも、そういうものを信じてみても悪くはないと思う。今見えているものだけを信じて、それだけを見続けるってのは、何ていうか、退屈だろ?」


「リトラさんはどうなのですか? 信じているのですか、運命や、そういった〈見えない何か〉を」


「俺は、そうだな……信じてるって言うか、何て言えば良いんだろ。言葉にするのはちょっと難しいな」


 などと曖昧な返事をしながら、リトラは窓辺に寄って夜空を見た。すると丁度、幾つもの流星が宮殿の頭上を越え、彼方へと飛び去って行くところだった。


 輝きを増した星々が一斉に飛び立ち、それが大きな窓一面に映し出されると、薄暗い廊下にリトラの姿が鮮明に浮かび上がった。アミルカルは、その神秘的とさえ言える光景に思わず息を呑んだ。


「俺の場合、信じてるってのとはちょっと違うのかも知れない。でもね、アミルカル」


 そう言って、リトラは流星の群を背にして向き直ると、


「この世界には、そういう何かが確かにあるよ」


 と、アミルカルの小さな肩に手を置いて微笑んだ。


「……ええ、そうですね。どうやら、確かにそのようです」


 どこか吹っ切れたように笑って、アミルカルが言った。


 アミルカルは、リトラの言葉を信じざるを得なかった。何故なら、目の前にいるリトラこそが、その証明に他ならないからである。


「さて、行こうか。君の姉様が何をしようとしたのか、その答えとまでは行かなくても、その手かがりは得られるはずだ」


「分かりました。行きましょう」


 アミルカルは先程までとは打って変わって、晴れやかな、清々しい表情で歩き出した。


 リトラの言葉はアミルカルの悩みや不安を払拭したわけではなかった。しかし、彼の胸のうちに微かな希望を抱かせるには十分だったのである。





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リトラと夜の幻想曲 本居 素直 @sonetto-1_4

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