第14話 白馬の王子様
ルネが立ち去って部屋に二人きりになると、リトラとケフェウスは今日初めて、ゆっくりと一息吐くことが出来た。
祭りの中にあっては民衆の視線に追われ、時計塔から今に至るまでは近衛兵に追われたりと、その大半は自らが招いた事態ではあるものの、ともかく休む間は無かった。
リトラは足を投げ出すようにして安楽椅子に体を預け、天井に吊るされた灯りをぼんやりと眺めている。どうやら、緊張が解けてどっと疲れがやって来たようだ。
一方のケフェウスはと言えば、翼を目一杯広げても余るベッドの真ん中で、仰向けになって既に寝息を立てている。
リトラを掴み、数マイルもの距離を縮んだ体で飛び続けたのだ。気を抜いた瞬間に襲ってきた睡魔に抗う力は最早残っていなかったのだろう。とは言え、そもそもベッドに寝転んでいた時点で、抵抗の意志があったのかどうか怪しいものである。
リトラはいつもの喧しいお喋りが聞こえて来ないのを不思議に思ったが、代わりに聞こえてきた寝息で全てを理解した。
(やけに大人しいと思ったら……夜行性のくせに早寝だなぁ、気持ち良さそうに寝やがって。まったく、まだ夜は冷えるんだ、お腹出してると風邪引くぞ)
リトラはケフェウスを起こさぬように音を立てずに立ち上がると、翼を広げて寝息を立てるケフェウスに、そっと薄手の毛布を掛けてやった。
「お疲れ様、ケフェウス」
そうして再び椅子に戻ろうとした時、何か小さな物音がした。それは小石を窓に軽く投げ付けたような、聞き逃してしまう程に控えめな音で、それが扉を叩いている音だと気が付くのに僅かに時間を要した。
ルネではない、リトラはそう直感した。第一に、彼女がこのように控えめに扉を叩くかどうか疑問である。おそらくは、気が付いた時には背後に立っているに違いない。
「
ではそれ以外となると、グンナルやアンセルムが思い浮かんだが、どうやら気配が違う。ならば一体誰だろうかと扉を開いてみると、そこにはまだリトラの胸の高さにも満たない、おそらく子供であろう人物が一人立っていた。
おそらくと言うのも、その人物はフード付きの黒いマントを目深に被っており、顔を見る事は出来ないからである。
彼か、彼女か。その謎の人物は、扉が開いたと見るやリトラの伸ばした腕の下を潜り、そのままするりと部屋の中へと入ってしまった。
正体不明、目的不明の小さな侵入者に、リトラは振り返って何か言おうとしたが、その前に、廊下に人気のない事に気が付いた。部屋から頭だけを出して辺りを見てみると、先程と比べて随分と寂しくなっている。
廊下のあちこちで立ち話をしていた貴族たちや、此処と下階とを行き来しながら忙しなく動き回っていた侍女たちの姿もない。
(夜が更けたから、ってわけじゃあなさそうだ。階下からは声がするし、多分別の場所で何か……それより、今はこっちだな)
と、振り返って後ろ手に扉を閉じると、寝息を立てるケフェウスをじっと眺めている小さな侵入者に声を掛けた。
「あのさ、部屋間違えてない?」
「いいえ、間違えてなどいません。私はリトラさんに用があって来たのです」
声からするに、どうやら少年のようだ。そして、当然のように名を知っている。夜の訪問、その服装、聞きたいことは幾つかあったが、リトラが訊ねる前に向こうから口を開いた。
「ところで、この眠っているミミズクは単なる獣ですか? それとも、〈智慧あるもの〉ですか?」
「智慧あるもの? 喋る動物って此処ではそんな風に呼ばれてんの? まあそうだね、君の言葉を借りるなら、そいつは確かに〈智慧あるもの〉だよ」
その答えに、外套の人物は僅かに肩を揺らしてリトラを振り返った。どうやら驚いているらしい。
「近頃ではその数を減らしていると聞きました。それに、〈彼等〉はとても気高く滅多に人間に従ったりはしないと。ただ、特殊な環境下では友や兄弟、更には親子のような関係さえも築く事があると聞きます」
少年は顎に手を当てて興味深そうにケフェウスを観察しながら、「これは単に興味本位の質問ですが、貴方とこのミミズクはどのような関係なのですか?」と訊ねた。
「えっ、関係って言われてもなぁ。そいつはケフェウスって言うんだけど、友達っていうか相棒っていうか、そんな感じだよ。あっ、かなり疲れてるみたいだから、そのままにしておいてくれないかな。お喋りな奴でね、ようやく静かになったところなんだ」
「いえ、起こすつもりはありませんよ。出来れば二人で話がしたかったので、これは好都合です」
そう言って、少年が頭部の覆いを外すと、まず美しい黒髪が目に入った。そして、リトラと同じ琥珀色の瞳、病弱にさえ思える白い肌、次いで、まだ記憶に新しい人物と良く似た顔が露わになった。
「もしかして、君は彼女の……」
「ええ、お察しの通り、私はアミルカル・フェルディーン。王女レセディ・ラ・ロナの弟です」
その名を聞いて、リトラは非礼を謝罪しようとしたが、アミルカルは「いえ、貴方はそのままで結構、どうぞ普段通りにしていて下さい。それから、私の事はアミルカルと呼んで構いません」と言って椅子に腰を下ろした。
「そう? それじゃあ、お言葉に甘えて」
リトラは素直に応じて、余った椅子を引くと向かい合って座った。その様子を、アミルカルはしげしげと眺めている。本日何度目かも分からない探るような視線に、リトラも流石に慣れた様子だった。
「あっ、申し訳ない、人様の顔をじろじろと見てしまって……」
「いやいや、気にしなくてもいいよ、顔を見られるのは慣れてるからね。それより、君は大丈夫かい? 何だか体調が悪そうに見えるけど」
「大丈夫です。私はいつもこうなので、気にしないで下さい」
大丈夫だと言ったアミルカルの声に弱々しさはなかったが、その声には常に声を潜めているかのような、そんなか細さが付きまとっている。
リトラは今一度しっかりとアミルカルの顔を見ると、ほんの少し落ち窪んだ目元や、頬も少し痩けているのが分かった。頬には僅かに赤みが差しているから、血色は悪くないようだ。おそらく、生まれつき健康に問題があるのだろう。
「アミルカル、そのマントは外しても大丈夫なのかい? 宮殿の中だし、身を隠す為に身に付けていたわけじゃないと思うんだけど」
「ご心配ありがとうございます。お察しの通り、どうやら私の肌は光に弱いようでして、常日頃からこのような格好をしなければなりません。とは言え、夜間ならば大丈夫かと思います。いつもの習慣で着用していただけですから、お気になさらず」
「……そっか。えっと、それで、王子様が俺なんかに何の用だい?」
アミルカルはそう問われると、より一層姿勢を正した。そして、膝に置いた両の拳を固く握ると「リトラさん、貴方に姉様を救って頂きたいのです」と深々と頭を下げたのだった。
「救うって、それは一体どういう……と言うか、その様子だと姉弟仲は良かったんだね」
目の前で深々と頭を下げている王子の声は決意に満ちたものであり、訳も話さぬうちから依頼を切り出したのを見るに、リトラはアミルカルが相当切羽詰まっているような印象を受けた。
仲が良いと感じたのも、アミルカルの態度や声色に打算の意図は見えず、単に十歳かそこらの少年が姉を心底心配している、そのように思えたからだった。
「誰に何を吹き込まれたのか分かりませんが、私達姉弟が争った事など一度もありません。言葉には出さずとも、姉様は今でも私を守ろうとして下さっています。勿論、それは私も同じです。一部の諦めの悪い者が私達を対立させようと画策しているようですが、万一にもそのような事は起こらないと断言出来ます」
先程と変わらず落ち着いた声ではあるが、暗に不仲だと言われたのがアミルカルにはとても不愉快なようだった。今の言葉から察するに、年の離れた姉を慕っていると言うよりも、尊敬の念が強いようである。
「ごめんよ、アミルカル。俺の勝手な想像で、二人の立場上、君達には結構な距離があるものだと思い込んでいたんだ。君の姉様が長い間落ち込んでいる事や、君達の周りにいる人達の事は聞いて知っていたから、余計にね。だから、君が彼女の事で熱心になっている姿に少し驚いただけなんだよ」
リトラはアミルカルに弁解して「それと、そろそろ顔を上げて欲しいな。大事な頼み事をするからと言ってそう簡単に頭を下げるのは、何て言うか、ほら、フェルディーン王家にとってあんまり良くないだろ?」と続けた。
「そ、そうですね、確かに仰る通りです。ご忠告、ありがとうございます……」
少し気恥ずかしそうにして、アミルカルは顔を上げた。どうやら不仲と言われた怒りは既に収まっているらしい。アミルカルは椅子の中で小さくなって、俯き加減で頬を染めている。そんな子供らしい姿を見て、リトラは少し安心していた。
「アミルカル、まずは理由を話してくれないか。 君の姉様を助けるにしたって、訳を知らないことには何をしたら良いのか分からないからね」
「と言うことは、引き受けて下さるのですか?」
はっと顔を上げたアミルカルの表情は明らかな期待に満ちていた。その冷淡にさえ思える程に落ち着いている声とは裏腹に、感情は豊かで顔にも出やすいらしい。
「あんな風に頭を下げられて、姉様を救って欲しいだなんて言われたら、そりゃあね。でも、出来れば理由を先に教えて欲しいな」
「救って下さると約束して頂けるのなら、お教えします。たとえそれが口約束に過ぎなくとも、約束が無ければお教えする訳にはいきません」
「では、その口約束に一体何の意味があるのか」とは流石に言えなかった。形式上だけではあっても、何か一つ、証のようなものが欲しいのだろう。
身を固くしてリトラの返答を待つアミルカルは、とても心細そうな様子だった。どうやって抜け出して来たのかは分からないが、この部屋に一人で訪れた事を考えれば、彼の周囲に頼れる大人がいなかったのだろうということは察しが付く。
しかし、そうとは言え、一体何故自分の所になど来たのだろうか。その上、姉を救って欲しいという極めて個人的な願いを、事情も知らぬ赤の他人に打ち明けるのはどういうことなのか。何よりも、アミルカルから向けられる身に覚えのない強い信頼と、どこか親しみの込められた感情が、リトラには不思議でならなかった。
このように疑問は尽きなかったものの、リトラは目の前の、一人ぼっちの少年の力になりたかった。それは今や遠くにある自身の過去が、アミルカルと重なったからでもあった。
「分かった、約束するよ」
「絶対に、ですか?」
なんとも子供らしい物言いに、リトラは思わず微笑んでしまいそうになったが、アミルカルの表情は真剣そのものだった。
実際、アミルカルはまだ子供なのだが、その大人びた口調、王族に相応しい威厳を示そうとする姿勢、冷静で紳士的な態度。そんな、幼くとも王族足ろうとする彼を年相応の子供だと思うのは大いに侮辱であると、リトラは無意識のうちにそう考えていた。
しかし、そんなアミルカルが今は恥を捨て、取り繕わずに年相応の子供らしい口約束に頼っているのだ。この事実を前にして、リトラは表情を引き締めると、彼の言葉に対して真摯に向き合おうと決めた。
「絶対に絶対だ。それにね、実は君の姉様にも力を貸すって約束してるんだ」
「姉様とも?」
「うん。これで君達姉弟とは一つずつの約束した事になるけど、どっちの約束も守ってみせるよ。大丈夫、俺は嘘は吐くけど約束は破らない。それにこう見えて、やるって思った事は最後までやるんだぜ?」
それは何の根拠も無い言葉だったが、
「女神様が言っていたのは本当だったんだ……」
「女神様?」
「い、いえっ、こちらの話です。では、約束通りにお話します」
アミルカルはこほんと咳払いをすると姿勢を正し、声を一段落として話し始めた。
「救うと言うのは少し大袈裟な表現だったのかも知れません。もう少し具体的に言うのであれば、姉様を女王から解放して欲しいのです」
「解放?」
「はい。今の姉様は女王に、真紅に染まってしまった〈女王の心〉に囚われ、自身の心を見失っています。私は姉様が女王となることに疑問はありません。姉様は必ずや悲しみを乗り越え、素晴らしい女王になる。それこそウルリーカ様のような、民に愛され、永く語り継がれる女王になるのだと信じています。しかし、あれでは駄目なのです。あの威厳、あの声の持つ力、確かにウルリーカ様は素晴らしい女王だったのでしょう。でも私は、姉様には姉様として女王になって欲しい」
この話振りからして、アミルカルがレセディの変貌について知っているのは確かだろう。しかし、その原因となった人物が目の前にいるとは知る由もない。
リトラは内心、かなり申し訳なく感じていたが、その件については始めから何とかするつもりでいたし、既に彼女を元に戻す算段も付いていた。
「大丈夫。女王の心はすぐに元の淡い桃色に戻るよ。原因が女王の心にあるなら、彼女はきっと元に戻るはずさ」
アミルカルはぱっと表情を明るくしたかと思うと、すぐに曇らせた。それは、リトラの口振りに違和感を覚えたからだった。
「リトラさんは、原因が他にあると考えているのですか?」
「いや、そこまで考えてるわけじゃないんだけど、少し気になる点があってね」と、リトラは聖堂での出来事を話したが、そこにいた本当の理由や、女王の心を染めた〈紅い光〉の出処については伏せる事にした。
「なるほど、リトラさんはその場にいたのですね。そうですか、あの時に見えた光が……」
姉の変貌、その原因について知ったアミルカルは大層驚いている。
「しかし、聞けば神話か何かのようですね。自身をウルリーカだと言っていたのも、それが原因だったわけですか。リトラさん、これは私の想像なのですが、実際はその強い光と自己暗示によるものだと私は考えます」
「自己暗示ってことは、君から見て、彼女は自分をウルリーカだと思い込むとか、ウルリーカのようになりたいと強く思っているとか、そう感じる事が昔からあったのかい?」
「憧れや理想として目指していた部分はあったと思います。ただ、姉様自身と言うよりは、周囲によって植え付けられたものだと思っています。物心付いた頃から瓜二つだと言われて育ったのですから、それは刷り込みに近いものでしょう。それに姉様自身、ウルリーカ様については大変な興味を持って調べていたと聞きますから、それらで得た知識を自身の記憶のように錯覚しているのかも知れません」
「なるほど……と言うか、アミルカル、君は本当に賢いんだね。そういう知識って、普通の勉強じゃ身に付かないものだと思うんだけどな」
リトラの裏のない賛辞に、アミルカルは照れたように微笑んで「王家三代を支えた素晴らしい先生が付いていますので」と、とても嬉しそうにしながら謙遜した。
(王家三代ってことは、この子もグンナルお爺さんの生徒なのか。凄いんだな、あのお爺さん)
「と、ところで、リトラさんの言った、気になる点と言うのは?」
「あ、そうだった。俺が気になってるのは、彼女が聖堂で何をするつもりだったのかって事なんだ。古風な髪型、随分と古い型のドレス、国宝と言える宝石まで身に付けて、しかも玉座に座ってさ。それに……」
「何です?」
「うーん、話を勿体振るつもりはないんだけど、ここから先はまだ想像に過ぎないんだ。だから、それが正しいのかどうか確かめる必要がある。これは俺一人でもやるつもりだったんだけど、君が協力してくれるなら直ぐにでも済むと思う」
「協力、ですか? それが私に出来る事であれば良いのですが……」
少々不安な面持ちで、アミルカルが訊ねた。
「まず初めに聞いておきたい事があるんだ。聖堂に入って彼女を見つける前に、玉座右手の壁、その一箇所に動いた跡を見つけた。王家の君なら、その存在を知ってるはずだ」
「勿論です。有事の際、王家が避難する為に作られた通路ですから」
「なら、宮殿側の入り口も知ってる?」
「はい、知っていますが……」
「それは良かったよ。協力って言うのは、そこに案内して欲しいって事なんだ」
「案内するのは構いませんが、一体何の為に?」
リトラは未だ不安そうにしているアミルカルを安心させるように微笑むと、すっと立ち上がった。
「それは勿論、君の姉様を救う為さ。さあ行こう、アミルカル。俺と君とで、彼女の物語を変えてみせようじゃないか」
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