魔剣行(まけんこう)

高田正人

第1話



 人体と意識を統合し、最も効率よく運用する技術。

 これが「流儀」である。

 この皇国において、その流儀は剣術と同義であった。



 皇国では、長らく政治は幕府の将軍が頂点であった。

 外国では神秘と結びつき、真理への到達を目指す流儀は、この国ではもっぱら剣を通じて己を高める実技とされる。

 その将軍家の流儀指南役として知られる「御神楽(みかぐら)流」。

 栄誉あるこの剣が折れたのは、今年の黄龍祭の時だった。





 御神楽 凜堂(りんどう)。それが私の名前です。

 政治の中心が幕府から政府に代わっても、御神楽家の娘として私は当流を修めていました。文武両道。それが私の人生でした。

 その日々が、突然崩れ去るとは。

 原因は、私の兄が流儀の大祭である黄龍祭において、流れの剣士に敗れたことでした。兄は文武両道の好青年であり、妹の私から見ても素晴らしい方でした。

 その兄が栄えある黄龍祭でボロ切れのように痛めつけられる姿は、正視に耐えられるものではありませんでした。

 流れの剣士は、名を羅刹(らせつ)といいます。

 異常に柔軟な両腕の関節を有する、変幻自在の技の持ち主でした。兄を倒した後、羅刹は私たちをあざ笑って言いました。


「か弱いなあ。お前たちの剣はままごとか? 俺に『魔剣』を使わせてくれよ」


 彼のその言葉と嘲笑は、今でも耳に残っています。

 黄龍祭の後、私は女学校を休学して御神楽流を磨こうとしました。しかし、私の剣は上品すぎるのです。

 どうしても魔剣を学ばなければなりませんでした。

 だからこそ、私は実家に置手紙だけを残し、禁忌を破ってここ「修羅城」に来たのです。

 御神楽流から破門された剣士――砥部蔵人(とべくろうど)に会うために。風の便りで、彼は魔剣を会得しているとのことでした。



 修羅城は隔離された地域であり、皇国の剣士が一度は修行をしたいと願う場所でもあります。けれども、御神楽流は修羅城に行くことを禁じていました。ここは猥雑で非道な行いが横行している場所です。

 実際、修羅城に到着早々、私は刀を持ったごろつきたちに囲まれてしまいました。

 臆せずに「砥部蔵人なる剣士を知りませんか?」と尋ねれば、彼らは笑いました。けれども、刀を抜けば頭目らしい男が態度を変えました。


「ただの小娘が遊びに来たってわけじゃねえな。修羅城は強い奴を歓迎するぜ」

「お分かりですか?」

「抜けば隙がまったくねえ。面白い奴だ。蔵人に何の用だ?」

「魔剣を会得したいのです」


 私がそう言うと、彼らは顔を見合わせました。


「悪いことは言わん。帰りな。あんたみたいな常人に魔剣は似合わねえ」


 頭目の男に続いて、彼の取り巻きも言います。


「そうだ。今ならまだ間に合う。二度と来るんじゃねえぞ」


 しかし、私は首を左右に振りました。


「いいえ、帰りません。絶対に魔剣を学びます。御神楽流の汚名をすすぐのが私の使命なのです!」


 そうして、私は彼らと揉めることになりました。結局全員を倒すことになり、私は頭目から蔵人の居場所を教えてもらったのです。



 修羅城の奥に建つ廃寺に、私は足を踏み入れました。

 首のない仏像が並ぶそこに、一人の剣士がいました。野犬のように痩せ、目だけが爛々と光った凄味のある剣士でした。一目見た瞬間、彼が羅刹の同類であり、修羅城の住人であると理解できました。


「誰だ、お前は」


 私は答えました。


「御神楽流宗家、御神楽凜堂といいます。砥部蔵人様ですね? どうか、私に魔剣を教えてください」


 蔵人は眉をひそめました。


「俺の名を知っているのか。しかも御神楽の娘だと? なら話は早い。帰れ」

「貴方も剣士でしたら、黄龍祭をご存じですよね。そこで私の兄はある剣士に敗れました。私は兄に代わって勝たなければなりません」


 私は蔵人の前に座り、頭を下げました。


「御神楽流は正道の剣。しかしそれでは、邪道の剣には勝てないのです。魔剣と称される剣の流儀。どうか授けてはいただけませんか」


 蔵人は少しの間黙り込みました。


「……お前の技量は見ずとも分かる。魔剣を会得するのは無理だ」


 そう言うと、蔵人は向こうを向いて横になってしまいました。


「流儀とは一切衆生悉有仏性を悟る手段。刀剣はその道具。正道の剣でよいではないか。邪道の剣など不要だ。失せろ」


 取り付く島もない様子でしたが、ここで諦めるわけにはいきません。


「兄の無念を私は晴らしたいのです。それができれば、他に何も要りません」

「お前の兄を破ったその剣士の名は?」

「羅刹、と名乗っていました」

「なに?」


 蔵人がこちらに向き直りました。


「白猿(はくえん)の羅刹か?」

「分かりません。ただ、異常に柔軟な関節を有し、刀を両手で自在に振るってたのは覚えています」

「……そうか」


 しばらく考えていましたが、やがて蔵人は畳の上にあぐらをかきました。


「羅刹とは縁があってな。あいつには借りがある」

「仇なのですか?」

「仇敵でもあり、恩人でもある。首を取りたいと思いつつ、同時に背中を預けるに足ると認めてもいる」

「複雑な関係なのですね」

「ああ。お前が魔剣を会得してあいつと戦ったのならば、借りを返したことになるかもしれん」


 蔵人は立ち上がると、壁に立てかけてある自分の刀を抜きます。


「魔剣を学びたいと言ったな。どこまでお前は覚悟を決めている?」

「死ぬことまで、すべて」


 刀が振られましたが、私はよけずにいます。朝に道聞かば夕べに死すとも可なり。その覚悟を示さなければなりません。

 蔵人の刀は、私の首の薄皮一枚に触れて止まっていました。精妙な技量はまさしく、御神楽流を学んだ剣士のものでした。蔵人は刀を鞘に納めます。


「死を恐れぬ覚悟は知った。あえて言おう。魔剣を学びたければ御神楽流を捨てろ」

「それはできません。私にとって御神楽流は誇りそのものです」

「頑固な奴だな」


 蔵人はため息をつきました。


「ならばお前はさらに困難な道を選ぶぞ。御神楽流を基礎として、そこに魔剣を上乗せすることになる。御神楽流と魔剣の複合だ」

「……やってみせましょう」

「威勢だけはいいな。だが、対価もなしに魔剣を教わろうと思っていないだろうな?」


 私は戸惑いましたが、すぐに意味を理解しました。


「まだ生娘か」

「はい」


 そう答えると、蔵人は私を抱き寄せました。私は払いのけません。


「年はいくつだ?」

「十六です」

「ならば女として扱っても構わんか」


 蔵人は唇を重ねてきました。


「お前を俺の女にする。これは『妹背(いもせ)の法』。我が心を欺き、お前を俺の女と思い込む術。故に俺は全身全霊で流儀を教えよう」

「女の操は命より重いもの。私はそれを貴方に差し上げます」


 かすかに震えながらも、私は平静を装いました。いつか伴侶に捧げると誓った貞操を、私は対価として投げ出すのでしょうか。蔵人は私の心中を見透かしたように、苦笑して首を振りました。


「安心しろ。俺はそこまで非道ではない」



 その日より後。

 何も問わず、ただ彼と同じ鍛錬を行い、彼の仕事に同行する日々が始まりました。蔵人は殺し以外の仕事なら無作為に引き受け、鉄火場に一刀と共に飛び込むのです。私も必死で彼に続きました。

 いつしかごろつきたちとも仲良くなり、「姫さん」「嬢ちゃん」と呼ばれるようにもなりました。

 あの日以降、蔵人は距離を置いていました。寝る時も別の場所で休みます。しかし、私は予感していました。少しずつ私は、彼の望む高みに近づいていると。



 ある日の早朝、私と蔵人は木刀を手に境内にいました。


「一つ聞く。お前にとって魔剣とは何に見えた?」


 あの日以降、初めて蔵人は魔剣の名を口にしました。


「魔性に魅入られた剣――と」

「ならばその認識を改めろ。あれは超常の剣ではない」


 蔵人は私の正面に立つと、木刀を軽く振りました。


「構えろ」

「はい」


 私は慣れた構えを取りました。一方蔵人は、切っ先を突き出す奇妙な構えを取りました。彼の動きすべてに注意を払わなければ。


「――この時点でお前は負けている」


 蔵人の構えが見慣れた形に戻り――そして。


「……え?」


 私は木刀を打たれて取り落としました。肩を軽く蹴られ、地面に転がります。わずかな痛みよりも、悔しさの方が上回りました。私の反応は新米同然です。


「なぜ負けたか分かるか?」

「蔵人様の構えに……惑わされました」


 異様な構えに騙され、私は警戒しすぎていました。その時点で彼の術中だったのです。


「そうだ。見せかけの構えにお前は反応し隙を見せた。それが敗因だ。俺はお前の心を惑わす」


 蔵人は再び私の前に立ち、同じように構えました。立ち上がった私は、今度は注意深く観察します。


「何を見ている」


 片手だけで伸びる蔵人の突き。今度は肩を突かれて私は膝をつきました。


「今のお前には闘志が皆無だ。兄の恥辱を思い出せ。俺を羅刹と思え」


 蔵人は厳しい声で言いました。私は再び構えます。


「来い」

「はいっ!」


 それから私と蔵人は打ち合いました。蔵人は私の太刀筋を完璧に見切り、先を読んだかのような突きを放ってきます。

 気持ちで負けてはいけない。自らを叱咤しても、彼には届きません。


「次はお前の顔を突くぞ」

「……はい」


 女の顔を傷つけると言う蔵人を非難する気は毛頭ありません。羅刹に勝つために、私は強くならなければならないのです。


「いい気配だ。来い」


 蔵人はわずかに笑みを浮かべると、誘うように構えを取りました。


「……行きます」


 私は一歩を踏み出しました。御神楽流を私は誇りに思っています。だからこそ、私は御神楽流で攻めます。剣戟の最中に間合いを詰め、蔵人の足が私の足を踏みました。蔵人の顔に私は羅刹を重ねます。


「斬るっ!」


 私は蔵人につばぜり合いをしかけ、相手の体勢を崩しました。かすかに驚きの表情を浮かべる蔵人。しかし――


「魔剣――『影踏み』」


 蔵人の体が沈み、歪むような突きが放たれました。私はそれを払おうとして――途方もなく嫌な予感に体がすくみました。

 なぜ私の体は怯えているのです? しかし、反射的に動いた手は空を切りました。


「え……」


 私の口から掠れた声がもれました。


「くぅっ!」


 腹に突きが食い込み、私は呻きながら地面にうずくまりました。手から木刀が転がり、私は腹を押さえます。


「特別に教えてやる。魔剣は『分かっているが対応できない』ことを目的とする。初見しか通用しない剣など魔剣ではない」


 蔵人は私の木刀を踏んで言い放ちました。


「俺の魔剣は心を狂わせ判断を迷わせる。達人も杯中の蛇影に惑う刹那があるものだ。魔剣を使わせた時点でお前の負けだ」


 私は拳を握りしめました。これが魔剣の理不尽さなのですか。嗚咽をこらえる私に対して、蔵人は声を和らげました。


「泣くな。お前は俺に魔剣を使わせたのだ。これで俺たちは同じ土俵に立った」


 私の前にかがむと、蔵人はこちらの肩に手を置きました。


「魔剣とは己のみの技。魔性の力を借りる剣ではない。俺の剣を真似るな。お前だけの流儀を手に入れろ」


 蔵人はそう言って立ち上がると、背を向けました。

 私の魔剣。それはきっと兄を上回る剣ではなく、羅刹に勝てる剣なのでしょう。

 私はゆっくりと立ち上がりました。


「なぜ、宣言通り顔を突かなかったのですか?」

「それを俺の口から聞きたいのか?」

「はい」


 私は振り返る蔵人に駆け寄り、抱きつきました。彼は私の髪を撫でながら、しばらくじっとしていました。


「俺も未熟だな。お前の顔を傷つけたくなかった」

「どうしてですか?」

「……本心から惚れつつある女は、大事にしたくなるものだ」


 私は思わず言葉を失いました。蔵人は照れ隠しなのか、そっぽを向いていました。



 それからの日々は、あっと言う間に過ぎていきました。

 流儀を学ぶのではなく編み出す過程で、なぜ魔剣が禁忌とされたのかも分かりました。これは一代限りのものです。

 私の魔剣は誰にも継げない。あまりにも個の才覚に依存した異形剣。

 それが――魔剣。

 忙しい日々の中、いくつかの変化が生じました。蔵人は変わらず人前ではそっけなく武骨でしたが、二人の時は不器用な優しさを見せるようになりました。

 いつしか荒れ放題の廃寺は、一緒に掃除をしたことできれいになりました。


「俺の魔剣を見たお前なら分かるだろう。俺はわずかだが人の心が読める。己の心を操っている過程で分かったことだ」


 ある夜のこと。珍しく酒を飲みながら蔵人は私に言いました。


「己の心を、ですか?」

「きっと、己の心も他者の心も深奥では同じなのだ。妹背の法……己の女と思い込むことで身命を賭して教えるこの術で、俺は多くの婦女を鍛え上げてきた」


 私は蔵人の過去に思いを馳せます。昔の彼は、今よりも美男子だったでしょう。もっとも、私は尾羽打ち枯らした今の彼に惹かれてしまったのですが。我ながら、悪い男に引っかかったものです。


「ある時、一人の奥方に御神楽流を教えることとなった。初めは何事もなかったのだが、俺は次第にその奥方の心が読めてしまった」


 蔵人は杯を置き、廃寺の頭上にかかる月を見上げます。


「あの方は、冷淡な夫よりも俺を恋慕しておられた。このままでは間違いを犯してしまう。俺は恐ろしくなり、御神楽流を捨てて出奔した」


 つい、私は酒瓶を手に取って中身を杯に注ぎます。酌など一度もしたことはなかったのに。


「相手の心を読み、その間隙を突く剣を完成させる。それが、修羅城での俺の拠り所となった。多くを失った果てに――俺は魔剣を手にしたのだ」

「……その奥方とは?」

「以来一度も会っていない。今でも、逃げる以外に方法はなかったのかと後悔に苛まれる。馬鹿な話だがな」


 私は居住まいを正して、自嘲する蔵人を見つめます。最初会った時は、粗野で無作法な男に見えました。でも、実際は違ったのですね。


「蔵人様、どんな理由であろうと不貞は罪です。過ちを犯す前に身を退いた蔵人様の行動を、私は立派だと思います」

「だが、俺は奥方の心に火を焚きつけておきながら、自分だけ逃げたも同然だ。さぞかし悲しまれ、恨まれたことだろう」

「蔵人様は女性を甘く見ておられます。女はその程度で心が折れるほど弱くありません。この私が何よりの証拠です」


 私がはっきりそう言うと、蔵人は驚愕した顔で私を見つめます。私が真顔で見返すと、彼は唇の端で笑いました。


「そうだったな。お前は強い女だった。あの方もそうであったと思いたい」


 そして蔵人は囁きました。


「お前のおかげで悔恨と決別できそうだ。ありがとう、凛堂」


 彼に名前を呼ばれたことは滅多にありません。私は胸の奥が熱くなるのをはっきりと感じました。気がつくと、私は彼の前で三つ指をついて伏していました。


「蔵人様、お願いがございます」

「なんだ? 改まって」

「私が勝った暁には……私をめとって下さい」


 顔を上げると、蔵人は困惑した様子で私を見つめていました。


「あなたの妻になりたいのです」

「お前が負けたらどうする」

「その時は――」


 私は何も言えませんでした。蔵人は私を抱きしめると、「馬鹿者め」と囁きました。


「破門された男と一緒になってみろ。お前の将来は閉ざされるぞ。それでもいいのか?」

「構いません。私にとって一番大切なのは、あなたのそばにいることなのです」

「……そうか」


 蔵人は私を抱く手に力を込めました。


「お前を必ず羅刹より強くする。勝ったお前を、俺の嫁にする」


 そして――その日がやって来ることになったのです。



 修羅城の一角。廃墟の中庭に私と蔵人、そしてもう一人の剣士がいました。外套を羽織り笠をかぶった猫背の男こそ、羅刹です。


「蔵人。お前がこんなに義理堅いとは思ってなかったぜ」


 羅刹は笠を手で上げ、歯をむき出して笑いました。


「修羅城に帰ってみれば、手厚い歓迎じゃねえか。俺のためにこんな女を作り上げてくれたなんてなあ」


 蔵人は腕を組んで柱に寄りかかったまま、息をつきました。


「お前のためじゃない。兄の仇を取らせてくれと泣きつかれただけだ」

「ひゃはは、素直じゃねえな。だがまあいいさ。せいぜい楽しませてもらうぜ」


 羅刹は刀を手に取り、舌なめずりをしながら言いました。


「しかも魔剣だって? こんな小娘が我が身を削って魔剣を得たんだって? いいねいいねぇ! 剣士冥利に尽きる! 血がたぎる! これが生き甲斐だぁ!」


 狂ったように天を仰ぎ叫んでから、羅刹は笠を放り投げ、外套を脱ぎ捨てました。猫背と相まって、膝まで届くほど長い両腕があらわになります。


「俺はお前を殺しはしない。面倒だからな。でもお前は俺を殺す気で来い」


 私は刀を抜きました。羅刹も刀を構えます。


「名乗る流派など無し――我流・羅刹」

「御神楽流・御神楽凜堂」


 名乗りを終えるや否や、私たちは同時に地を蹴りました。

 先手を取ったのは羅刹の方でした。鞭のように腕をしならせて下段から刀が襲い掛かります。

 それを私はかわして斬りつけます。御神楽流の足運びと姿勢。兄の敗れた技で、私は羅刹に戦いを挑みます。連続して響く刀と刀のぶつかる音。


「いいぞ! この音こそ俺が聞きたい音だ! 恍惚となる!」


 そうです。この音は私たち剣士が命を削って鳴らす音。命を懸けて戦う者の証。


「もっと鳴らせ! もっと! もっとぉ!」


 狂喜しながら、羅刹はさらに激しく刀を振るってきました。嵐の中の木の葉のように、私は翻弄されそうになります。

 彼の刀が腹を狙いますが、私は構わず前に出ます。薄く斬られつつもそれを受け入れ、彼の足を踏みました。蔵人がよく使った牽制の技。私は刀を羅刹の頭に振り下ろします。

 瞬時に羅刹の左手がしなりました。蛸のような動きで指が刀身を挟みます。私は拳を彼の顔に突き入れます。鼻梁に当たる感触と共に、羅刹は飛びのきました。


「御無礼」

「何が無礼だぁ!?」


 鼻血を流す羅刹の声は歓喜に震えていました。


「真剣勝負で殴る奴に久しぶりに会えたぁ! 訂正するぜ! 御神楽流はままごとじゃない! お前は小娘じゃない! ありがとうありがとうありがとう蔵人! 俺は今、最高に生きてるぜぇえええ!!」


 何という妄執でしょう。羅刹。彼はまるで泥濘の中でもがいているようでした。何をしても生の実感を得られないのでしょう。だから必死に、命のやり取りを求めているのです。

 もはや、私は彼が憎くありませんでした。でも、負ける気はありません。


「逃がしません。あなただけは」

「逃げねえよ! 俺こそお前は逃がさねえ! だから――見せてやる」


 狂態をさらしていた羅刹が、ふと冷静な顔になりました。彼の両手があり得ない角度で背後に回ります。


「魔剣――『通臂猿猴(つうひえんこう)』」



 次の瞬間、羅刹が宙を舞いました。

 まるで隣国の拳法のような動きです。恐らく硬鞭や青龍刀の動きまで取り入れています。

 かわそうとした途端、彼の腕が伸びたかのように感じました。背後に回り込んでも、正面のように自在に刀が振られます。前後左右、そのすべてが意味をなくす彼の流儀。

 これが、羅刹が己の身体と極限まで向き合った結果編み出した――魔剣。

 それでも私は諦めません。蔵人なら諦めないはずです。

 斬る、突く、払う。

 精妙な関節のしなりに惑わされることなく、ひたすら刀を振るいます。

 羅刹の刀を弾いた私は、その勢いを利用して後ろに下がりました。口を開きます。


「私の魔剣を見せましょう。見たいですか?」

「ああ、見たい。死んでも見たいぃ!」


 私は蔵人を見ます。彼はうなずきます。

 見せなくてはいけません。私が身命を賭して研ぎ澄ました、私だけの剣を。


「魔剣――『響花吹月(きょうかすいげつ)』」


 私はひた走りました。羅刹も走ります。目を見開き、歓喜に打ち震えた顔で。

 羅刹の刀が自由自在に振るわれます。先程と変わったのは、不規則に緩急が追加されたことです。

 原因は彼の手と足の指です。それで刀身を挟むことによって、振るわれる刀が突然止まるのです。一瞬間違えただけで斬られる恐怖。

 既に私の魔剣は始まっています。ここからが真骨頂。呼吸さえやめて、私は我が身を剣と変えました。

 一度の呼吸に要する時間に繰り出される五回の攻撃。頭、首筋、胸、腰、腹を狙う刀をすべて、羅刹は刀で受けます。信じられない技量です。


「無呼吸がお前の魔剣か!?」


 いいえ。そうではありません。

 でも私は口を開きません、次の姿勢に移行します。蔵人が得意とした突き。でもそれは私の剣ではありません。

 一度、二度、三度、四度、五度。そして――脇差しを左手で抜いて六度。この瞬間私は、鍛錬の時の自分を越えました。

 右腕が悲鳴を上げるのを無視した七度目の突き。六度目と七度目はほぼ同時に羅刹の頭を狙っていました。それを彼は、右手と左手に刀を持ちかえて弾いてみせました。

 計七回の私の攻撃は、ほぼ同時に響くすさまじい金属音に変わりました。

 ――ええ、変わったのです。


「響花吹月――破れたり」


 極限の集中で噛みしめた歯茎から血を垂らしながら、羅刹は言いました。私は息を吸います。肺はこの一度の交錯で限界を迎え、利き腕も痛めています。これが魔剣。我が身さえ破壊する剣なのでしょう。


「いいえ。我が剣は――既に成就せり」

「……なに?」


 訝しげに一歩を踏み出した羅刹の足がよろめきました。鼻と耳、そして目から血が流れ出しました。


「……お前の剣は……一度も俺を斬っていないはず」

「はい。ですが、刀と刀がぶつかる音の連続は、貴方の脳に衝撃を与え続けました」


 これこそが私の魔剣。

 音の刃。精緻に重ねた音の衝撃で耳から相手の脳を揺らして倒す。それが私の無形にして見えざる魔剣でした。

 羅刹は膝をつき、立ち上がろうともがきますができません。


「私の勝ちです」


 羅刹はうつむきました。そしてしばらくしてから顔を上げます。


「ははっ! ははははは! 見事! 蔵人め、とんでもない逸材を育てたなあ! ただ負けたんじゃない、俺は魔剣に負けたんだ! こんなに負けて嬉しいのは初めてだ!」


 大の字に横たわって、羅刹は心底幸福そうに笑い続けました。そして笑い終えた時、彼は平然とこう言いました。


「兄の仇を討つか? 修羅城なら俺を殺しても誰も咎めないぞ」

「貴方は死にたいのですか?」

「最高の勝負をしたんだ。悔いはない。生かすも殺すもお前次第だ」


 私は立ち上がって刀を持ち、それを――羅刹の頭の横の地面に突き刺しました。


「あなたは御神楽流を汚しましたが、兄の命を奪うことはしなかった。私もあなたを殺しません。二度と御神楽流の前に現れないでください」

「――お前、本当にあいつの妹なのか?」

「はい」

「まあいいか。じゃあお前の言うとおり、俺はもう御神楽流にはちょっかいを出さねえよ。ありがとう、楽しかったぜ」


 羅刹は身を起こし、ふらつきつつも頭を叩きながら立ち上がりました。

 最後に見せた羅刹の顔。それは狂気の抜け落ちた真摯なものでした。


「素晴らしい剣だった。誇ってくれ」


 そう言い残し、彼は去っていきました。

 一瞬だけ、羅刹の過去が見えた気がしました。誰からも理解されずに特異な体質さえ否定され、魔剣を編み出すほどに強さに焦がれた、孤独な剣士の姿が。

 私は彼の姿が消えるまで見送り、それから刀を収めました。


「よくやった。これでお前は一人前だ」


 近寄ってきた蔵人は不愛想に言いつつも、嬉しそうに笑っていました。


「いいえ。私はまだ未熟者です。これからもご指導お願いしますね」


 私は彼にほほ笑みかけました。


「ああ、任せておけ。俺が鍛えてやる」


 彼は少しだけこそばゆそうな顔をして、どこか遠くを見ているふりをしていました。


「では、出立の用意をお願いしますね?」

「……は?」


 蔵人の驚いた顔を見て、私は様々な感情がいっぺんに押し寄せてくるのを感じていました。


「私をめとって下さるのでしょう? 一緒に帰りましょう。家族に蔵人様を紹介したいのです」

「おい待て。俺は破門された身だぞ。修羅城を出る気はない」

「まあ。父が怖いのですか? ご安心ください、私が一緒ですから」

「馬鹿者。俺は怖いとは言っていない。お前こそ、父に殴られても知らんぞ」

「蔵人様に守っていただければ大丈夫です」


 蔵人の顔がみるみる赤くなっていきます。私はわざとしなを作って悲しそうな顔をしてみます。


「私を守って下さらないのですか?」

「くそ、一丁前に女の顔をしおって」

「私を女にしたのは、ほかでもない貴方です」


 ここまで言ってようやく、蔵人は覚悟を決めたようです。本当に困った方です。


「ああ分かった! 行くとも! だがその代わり、お前は一生俺のそばを離れるな! 絶対に離さんからな、凛堂!」

「ええ。もちろんです」


 私は彼に飛びつきました。


「ずっと――そばにいます」


 こうして私は、本懐を遂げて修羅城を後にすることとなったのです。



 この後、私が蔵人を連れて帰ったことで父母も兄も仰天したこと。

 蔵人が「破門を取り消せとは言わん。こいつをよこせ。嫁にする」と言って父が激怒したこと。

 それを私がとりなして、夫婦になる許しを得ようと奮闘したこと。

 いろいろありましたが、それはまた別の話。


 ――これは、とある少女と剣の道に生きた男の、波乱万丈の恋物語なのです。


[完]

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