第5話
わたしは蝉が嫌いだ。
どのくらい嫌いかというと、これはなかなか一言で言い表すのは難しい。
見た目が嫌い、鳴き声がうるさいのが嫌い、死んだふりして地面に転がるところが嫌い、近づくと急に暴れだすところが嫌い、
──そのうえでわたしと違って、飛んで火に入らないから、嫌い。
蝉は昼行性である。夜に明かり目がけて飛んだりはしない。まぁ、かといって夜行性の虫なら好きかと言われると別に全然そんなことはないのだけれど。
「もう終わっちゃうねぇ。夏休み」
鈴の音を転がすような声が聞こえてきて、わたしは落としていた視線を上げた。
目の前の信号機は赤。
歩道橋のない大通りの交差点。その隅っこにわたしは立っていた。
目の前を何台も車が横切っていく。
隣を見る。
夕陽が茜の横顔を照らしている。
夏の夕焼けは冬のそれに比べて赤みが強い。
理由は大気中の水蒸気量にあるそうだ。気温が高くて大気中の飽和水蒸気量が高い夏場は波長の短い光は散乱し波長の長い赤色光が目に届きやすくなる結果、空が燃えているような赤色に染まる。
茜色。
君の色。
空も、川も、木も、家も、道路も、信号機も、車も、自転車も、蝉も、わたしも、
世界が茜色の光に包まれて燃えているようで、それがあまりに美しくて、
一瞬夢かと思った。
自分に話しかけられているのに気が付くのが遅れてとりあえず何か言わなきゃと思って掠れた声で「うん」と言った。
茜といるときはいつもうまく喋れない。
「今年の夏休みもずっと部活漬けだったね」
わたしがそう言うと茜はクスっと笑った。
「そうだねぇ。でもとりあえず支部大会金賞とれたからよかったねぇ」
四日前、八月二十七日に行われた支部大会でわたし達の高校は去年に引き続き金賞を取り、全国大会への出場が決まった。
それは同時にわたし達吹奏楽部の三年生は全国大会がある十月まで部活があるというのが確定したということである。
「夏希は夏休みの宿題終わった?」
「ううん、まだ残ってる」
わたしが言うと茜は間延びした声で私もぉと言う。
「今日は徹夜かなぁ」
そう、茜が言った言葉に返したわたしの「そうだね」という返事は、心なしか一か月前よりも鳴き声が大きくなっている気がする蝉の鳴き声に掻き消されたかもしれない。
八月下旬。蝉のピーク。
もうじき夏が終わる。
寿命があと僅かしか残されていない蝉たちは、文字通り命を燃やして鳴いている。夏休みの最終日まで残してしまった宿題を片付けるように。
「やらないと、わたしも」
やり残したことがある。
それをやらずして、わたしは夏を終われない。
ずっと赤信号の前で立ち止まったまま、黙って静かに身を焦がしている場合ではないのだ。
いまだ赤のまま変わる気配のない信号機を見つめながらわたしは、進路の事なんだけど、と茜に切り出す。
「うん?」
「……わたし、やっぱり、音大にはいかない、と思う」
先にこれを言わないと、と思った。
振られた後になって、じゃあやっぱ一緒の音大行かない、とか言い出すのは子供じみていて卑怯だと思ったから。
わたしがそう言った後、茜はその大きな瞳をパチパチと瞬いてから心配そうに眉尻を下げた。
「そうなの? どうして?」
どうして。
答えづらいことを聞いてくるなぁ。
予想出来てしかるべき質問だったが、いざ聞かれるとうまく答えられなくてわたしは曖昧な苦笑いを返した。
「もしかして親に反対とかされたの?」
「いや、違うよ。そういうのは全然ない」
慌てて否定する。
そもそも親には音大に行こうか迷っているなんて話は微塵もしていない。大体、高校生になって初めてまともに楽器というものに触れたわたしには、親に反対されるどうこう以前に高すぎる壁が立ちはだかっているというものだ。
経験も実力も情熱もなにもかもが足りていない。
わたしの音大に行くという発言を真に受ける茜が無邪気すぎるのだ。世の中にいる人間が自分と同じように音楽が大好きということをなんの疑いもなく信じてるから。
「単にわたしが音楽とは別の道に進もうかなって考えてるだけ」
本心の半分を伝えると茜は「そっかぁ」と小さく呟いて目線を伏せた。
そんな反応をされてしまうと、勘違いしちゃうよ。
わたしと一緒に居られなくなることがそんなに残念? わたしと一緒に音大行きたい? なんて、絶対に言うべきでない言葉が思わず口から出てしまいそうになる。
違うことは知っている。吹奏楽なんて全くの未経験のわたしが、高校からサックスを始めてたった三年で小学生の頃から楽器に触れていた人たちと一緒に全国大会の舞台に立てるまで成長したものだから、それがきっととても嬉しかったのだ。
茜は小さく「うん」と呟いてから少し伏せた視線をまたわたしに戻すと、
「夏希ならきっと吹奏楽以外にもなんでもできるよ。絵とかもすっごくうまいし」
分かってる。
茜という人間がこっちの事情を無視して自分の気持ちを押し付けたりなんてする子でないことくらい。
でもそんなこと気にしなくていいのに。
あなたがたった一言、一緒に来て、と言ってくれたなら、わたしは今すぐ吐いた唾飲み込んで、あなたと一緒にどこへだって行くんだから。
「じゃあ、全国大会が一緒にできる最後の演奏だね。一緒に頑張ろうね」
だけど彼女はそんなこと言わないし、わたしもそれを要求したりはしない。この三年間ずっとそうやって生きてきたから。一方通行であるという自覚をもっているから、なにも望まない。
だから小さく「うん」と言った。
フ──と短く息を吐く。
もういいんじゃないかな、と思った。
もう十分頑張った気がする。
そう言えば告白する理由が、ちゃんと振られることでわたしが前に進むためというためのものであるならば──将来音楽関係の仕事に就きたい訳でもないし、付き合ってもいなければ、付き合える可能性もないのに茜と同じ音大にふらふらと進学するのを諦めるためと言うのであれば、それはもうこの時点で達成したと言える。
あくまでも目的はそれで、告白と言うのはその手段というか、過程の中の一つであったはずだ。
部活の引退までも高校の卒業までも、もうそんなに時間がない。目的を達成したいま、限られたその時間をこれまでの関係を崩してまで告白する意味も意義も一つもないと思えた。
何も変わらず、何も変えずにこのまま平穏に過ごしたい。
卒業するまで、こうして隣を歩きたいから。
わたしの気持ちなんて、やっぱり一生知らなくていい。
「ねぇ」
唐突に呼びかけられて無意識に足元に落としていた視線を上げて隣を見る。
蝉の声が聞こえる。
夏の夕暮れ。茜色の世界。そこに立つ彼女と目が合った。
わたしの目を見てゆっくりと優しく微笑む。
「サックスのことは好きになれた?」
──いつか。
もしもこの先、
わたしが前に進まないといけなくて、そのためには何かを諦めないといけなくて、だけどその勇気がでない時──
夕陽も照らされてじんわりと背中が暖かくなっているのに気が付いた。
「あ、青になったよぉ」
わたしがとっさに返事ができずにいると茜は青になった信号に気が付いてそう言うと横断歩道に一歩足を踏み出した。
この信号を渡り切ったら茜の家はすぐそこだ。
ちゃんと言わなくちゃ。
この信号が青のうちに。
不思議とそんな思いが体の奥の方から湧き出てきて瞬く間に全身を包み込んだ。
ちゃんと諦めなくちゃ。
「茜」
気づけば歩きだしていた茜を呼び止めていた。
呼び止められてキョトンとした顔の茜が振り返る。
心臓が痛いくらい激しく動いていた。
血液が凄まじい圧力で全身の隅々まで押し出されているのが、鼓動に合わせて震える指先から伝わってくる。
緊張で喉がカラカラに乾いている。
続く言葉が喉に引っかかって出てこない。
車の音は聞こえない。人の声も聞こえない。
茜色に輝く世界に、蝉の鳴き声だけが響いていた。
それを聞きながらふと思う。
夏が過ぎて、
蝉が死んだら、髪を切ろう。
君に褒めてもらったこの髪を。
「あのさ」
吹奏楽は頑張っていたと思う。邪な理由ではあったけど精一杯努力していた。
だからかな、
そう言えば、楽しかった気がする。
諦めるのだって簡単じゃない。
中途半端な事をしていたら諦めることだってできない。
もっと本気でやったら出来るはず、まだ全力を出せていないだけ。
小さな希望と可能性を抱きしめて、そうやっていつしか取り返しの付かない段階まで行く前に、ちゃんと諦めないといけない。
「わたし」
本気でやれよ。わたし。
鳴く蝉より、鳴かぬ蛍が身を焦がす 祝 唾棄 @iwai_daki
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