第4話

「吹奏楽部も来週大会なんだっけ?」

 いつの間にか当たり前のようにまたわたしの隣を並走していたユウトが唐突にそんなことを聞いてきた。

「夏希のお母さんとかも見に行くんだったら動画とってもらって俺にも見せてよ」

「嫌。貰ってどうすんのよ。大体見たけりゃ自分で見に来ればいいでしょ」

「行けるんだったら行ってるよ。サッカー部も大会前だから休むわけにはいかないんだよ。ほら俺キャプテンだし」

「……あっそ」

 そういえばこの男サッカー部のキャプテン何だった。

 サッカーは小学生の頃からやっていたというのがあるのだろうが、話に聞くところによると結構うまいらしい。高校選びだってスポーツ推薦もいくつか来ていたはずだ。

 だからそれがどういう訳か取り立てて運動部に力を入れていないうちの高校に入学すると言いだしたときは周囲もわたしも驚いたものだった。

「サッカー部は今年は全国行きそう?」

「うーん。どうでしょう。行くんじゃないですかねぇ俺がいるから」

「うざ」

 このわたしが気まぐれで、興味もないことを聞いてやったら、すこぶる調子に乗ってきたので一括する。

「バカ蝉が」

「え? ごめん、なんて?」

 自信家で、それに恥じない程度の能力があって、それ故に楽観主義者でしかしその能力を発揮することに余念がなく、自己アピールも上手いこの男はまぁ、モテるべくしてモテている。

「幼稚園の時鼻クソ食ってたくせに」

「また幼稚園の話かい」

 少々うんざりしたようにそう言いながらも、しかし気にする様子はない。

 この世界は結局、そうゆうやつが得をするのだ。

 雰囲気イケメンなんて失礼極まりない言葉があるが、要は素の状態では外見の上でも内面でもモテる要素がなかったとしても、あたかもモテているかのように振舞うことでモテるようになる、というのは実際あるものだ。浮気をしない人は好きだけど浮気できない人のことを好きにはならない、という話にも似ている。

 誰からも興味を持たれないものを拾って愛でる人は世の中あまり多くないということだ。結局みんな、みんなが好きなものを好きになるのだ。

 なんて。

 失礼なことを思ってはみたものの、ユウトは別に雰囲気イケメンではないし、素でモテるタイプだ。それにみんなが好きなものを好きという点ではわたしもその例に漏れない、ミーハー中のミーハーだということを改めて思い至るとなんだか眩暈がしてきて頭を振って思考を外に追いやった。

 「でもあれだよな夏希も頑張ったよなぁマジで」

 夏の暑い日差しのなか自己嫌悪に任せて勢いよく頭を振ったことで、ますますクラクラした視界にわたしが慌ててハンドルを握りなおしていると、そんなことを知ってか知らずか、わたしの少し後ろを走っていたユウトがそんなフォローのような励ましのようなことを言ってきて、わたしは思わず顔を上げた。

「え?」

「吹奏楽だよ。高校から始めただろ?」

 あぁ、うん。とわたしは首肯する。

「全くの未経験で、中学からやってたような奴らと混じって今年もちゃんと大会出場のメンバーに選ばれてるんだろ? すげーと思うよ俺は」

「……そう、かな」

 そう言われても素直に喜ぶことができない。

 わたしが吹奏楽部に入ったのは茜がいたからだ。

 そうでもしないと、友達の多い彼女に近づくことなんてできなかったから。

 彼女とたまに話すクラスメイト以上の関係になるにはそれしかなかった。

 茜がいる吹奏楽部に入って、やったこともないのに茜と同じトランペットを希望して、茜の隣で吹くためだけにこの三年間部活を続けてきた。

 これを、茜がいたから頑張れた、なんて美化していうつもりはない。

 頑張った、と胸を張って言うにはいささか動機が不純すぎる。

 今年こそは全国で金賞をとろうとしている吹奏楽部の部員や、純粋に音楽が好きだから吹奏楽部に入っている人や──

「夏希の進学先は音大だったりすんの?」

 ──将来は音楽で食っていこうとしている人に、わたしが合わせる顔など、本来ないのだから。

 「わたしは」

 ──わたしは、

 どこに行くのだろう。

 なにが、したいのだろう。

 突然足元で『ミッ!』と聞こえた。道端でひっくり返って、てっきり死骸だと思った蝉の横すれすれを自転車がすり抜けたことで驚いた蝉が『ミミミミミミッ!!』とけたたましく泣き叫びながらバタバタと翅を羽ばたかせて暴れまわったのだ。

 そして肩をビクリと大きく震わせたものの驚きすぎて声すら出なかったわたしの足や脹脛や太ももに二度三度激突して、

 最終的にYシャツの脇腹あたりに引っ付いた。

「──ギエエエエエエェェェェェェェェ!!!!!!!」

 地獄の底から聞こえてくるような叫び声が聞こえた。

 わたしだった。

 花も恥じらう女子高生の口から出てくる声とは思えないような大絶叫をかまし、そのままパニックに任せて走行中の自転車を飛び降りた。

 これが映画で、わたしがアクション俳優だったなら走行中のバイクから勇ましく飛び降りたあとかっこよく着地を決めて懐からピストルを取り出すところなのだけど、映画でもなければ俳優でもないわたしは、緩い坂道を走行中の自転車の慣性などまるっきり頭から抜けており、体が前に進もうとするエネルギーに足の速さがまるで追い付かず、着地した一歩目から前につんのめった。

 後ろでガシャンと自転車が派手に倒れる音がした。

 そしてその状態でまるでNARUTO走りさながらに数歩走った後、ヘッドスライディングのように歩道の植え込みに頭から突っ込んだ。

 両肘と両膝、それから胴体を強く地面に打ち付けたものだから転んだ瞬間「グエッ!」とカエルを踏み潰したような声が喉から出る。

 体が地面に打ち付けられる寸前、脇腹に引っ付いていた蝉が飛んで逃げて、その際にひっかけられたおしっこが顔にかかった気がした。

「…………」

 誰か殺してくれ、わたしを。

 踏んだり蹴ったりとはこのことである。

 たぶんこれパンツとか丸見えなんだけど痛すぎてすぐには立ち上がれそうになかった。

 背後でユウトの馬鹿笑いが聞こえた。

 笑いすぎて過呼吸になっているのか、その笑い声は引き笑いのようになっていた。

 笑い声からして苦しそうで、もうこのまま笑い死ぬのではと思うほどだ。

 いやマジで死んでくれるか? そのまま。

 不幸中の幸い、というべきか周りに通行人はおらず今のわたしの失態はユウト以外には見られていない様だった。つまり今ユウトが死ねば今の出来事はなかったことになるのである。

 わたしは屈辱と羞恥に体をわなわな震わせながらとりあえず上半身だけ起き上がらせてそのまま座り込んだ。

 予想通り両肘と両膝は擦り剥いてちょっと血が滲んでいたし上半身を強く打ち付けたせいで胸も痛かった。顎も少し擦りむいているのかもしれない、と顎に手を当てたついでに考える。

 ……まぁ落ち着けよ、わたし。

 きっとまだ取り返せる。

 全行程がマヌケでバカ丸出しだったが奇跡的に歩道の植え込みに突っ込んだその最後の瞬間だけは、まるでスーパーマンが空を飛ぶときのポーズみたいなカッコいい体勢をとれていた気がするから──どうだろう、トータルでチャラということになるんじゃないかな?

 わたしはどうにか立ち上がると無表情でその場でスカートやシャツについた泥を手ではたきながらユウトの笑いが収まるのを待った。

 はい、静かになるまで一分かかりました。

 ようやく笑いが落ち着いて、ふとずっとわたしに見られていることに気が付いたユウトの事を、わたしはまっすぐに見つめ返して言う。

「……さっき茜には音大行くって言ったんだけど、正直迷ってる。わたしは、茜みたいに真っ直ぐな気持ちで吹奏楽部に居るわけじゃないから、自分にはその資格がないんじゃないかって、思う」

「……いや、今のをなかったことにするのは、それは……無理だから」

「…………」

 そうか、無理なのか。

「じゃあ、殺すか」

「判断が早い」

「即決即断がわたしの長所だから」

「その長所がよくない方向に働いてるんだよ」

 間違った判断への思い切りが良すぎるぜ、とユウトがわざとらしくやれやれと肩を竦めてみせる。

「…………」

 間違った判断への思い切りが良すぎる。

 冗談だ。冗談なのはわかっているのに、ユウトの言っていることがあまりに的を得ているからだろうか。今の今まで痛くなかった鳩尾あたりがジワジワと鈍い痛みを訴えだした。

 高校入学したてのあの時、茜が吹奏楽部に入るのだということを知って、どうして自分も入ろうだなんて思ったんだろう。

 最初の間違いはなんだったかと聞かれれば、きっとそれだ。

 ──そしてそれ以降の全部。

 楽器なんて小学生の時のリコーダーくらいしか触ったことがない癖に、茜の後を追って吹奏楽部に入って、彼女と同じトランペットを希望して、それでわたしは何がしたかったのだろう。

 彼女の隣に立つためだけに毎日部活に出て練習してなんの意味があるのだろう。二人で登下校するために毎日朝練に行く時だって朝早く家をでてわざわざ遠回りの彼女の家寄っているわたしは、ほんとうに何がしたいのだろう。

 無理なのは分かっていたのに、

 どうせこうなることは知っていたのに、

 自分の思慕なんて叶うはずがないのに、よく考えずに飛び込んで、しかしそれで思いを伝えるわけでもなく、ただ一緒に居られればいいからとか言い訳がましく自分に言い聞かせる癖に嫉妬心だけは一丁前で、諦めている風な態度を取っておきながら化け物みたいな執着心を抱えて、彼女といるだけで擦り減って傷つく自分にベロベロに酔っぱらったわたしは、

 ──もう存在自体が間違いだった。


 Booby(まぬけ)トラップとはよく言ったものである。

 まぬけも、

 飛んで火に入ったのも、

 ───わたしだった。

 まぬけなわたしは自ら進んで火に入って死ぬのだ。

 恋に焦がれて、死ぬのだ。

 ……なんてね。

 やっぱり酔ってるのかもしれない。

 ふいに涙が滲んで零れかけて慌てて手の甲で目を拭った。

「──え、ごめん。今のは冗談で、本気で思ってるわけじゃない」

 それを見て驚いたユウトが焦ったような声をだした。

「間違ってないから。夏希間違ってないから。全然あれだから、俺の事とか殺して良いから」

 良い訳ないだろ、と言おうとしたけどそんな風に珍しく慌てているユウトが面白くて、わたしはちょっと笑ってしまった。

「いや、違う。普通に、転んだところが痛くて」

 誤魔化すように笑いながらそう言ったわたしに、「え、そうなの?」と言いながら、だけどまだユウトは心配そうにわたしのことを見ていた。

 違う違う。ほんとに違うんだ。

 悲劇のヒロインぶりたいわけじゃないんだって。ほんとに。

 だからそんな目でわたしを見ないでほしい。

 これ以上わたしを悲劇のヒロインぶらせないでほしい。

「ごめん俺絆創膏とかそういうのなんも持ってなくて、病院行くか?」

「いい、全然そこまでじゃない。てか運動部なのに絆創膏持ってないの?」

「持ってないよ。マネージャーとかなら持ってるかもしれないけど、俺ら擦り傷とかなら基本放置だし」

 男子だねぇ。こっちは転んだことすら数年ぶりだ。

「マジで病院行かなくて大丈夫か? 手首とか捻ったりしてない?」

「全然マジで平気。ちょっと肘とか擦りむいちゃったから泣いちゃっただけ。女の子だから」

「そうか? ならいいんだけど」

 ユウトにこれ以上変な心配をかけられないようにわたしは今度こそ何事もなかったように歩いて倒れた自転車を起こす。

 サドルに跨ってペダルに足をのせて漕ぐ。膝はジンジンと痛むけど、自転車に乗れない程ではなかった。

 空は青く。蝉の声は相変わらず五月蠅い。

「で、なんだっけ? 音大行くか迷ってるんだっけ?」

「──え? あぁ、うん」

 走り始めて少ししてまたわたしの少し後ろを走っていたユウトがそんなことを聞いてきた。

 さっきはわたしの失態を誤魔化すためにそんなことを言ったけど、スルーされた話を今更掘り起こされても困ってしまう。

「どうした? 即決即断が長所なんじゃないのかよ」

「…………」

 うるさいなコイツ。さっきまで珍しく心配してくれていたのにもう煽ってきやがる。

「諦めきれないんだよ」

「諦めきれないって音楽を?」

「いや好きな人を」

 言った後で、あぁしまった、と思った。

 全然言うつもりじゃなかったのに聞かれてつい素直な返答が口をついて出てしまった。

 きっと今日は疲れているんだ。

 喜んだり、落ち込んだり、怒ったり、転んだりするのに忙しくて、なんだか頭がぼんやりしている気がする。

「へぇー、好きな人……えッ!?」

 一拍遅れて後ろからユウトの素っ頓狂な声が聞こえた。

「お前好きな人いたの!?」

「……いないなんて言ったことないでしょ」

「いるとも言ったことないだろ」

「なんでわたしのこと全部教えてもらえる気でいるのよ」

 ため息交じりにそう答える。

 こいつさっさと先に帰ってくれないかなぁ。

 今はなんとなく一人になりたい気分だった。

「で、誰?」

「言う訳ないでしょ」

 既にこの状況が事故みたいなものなのに。

「なるほど、俺か」

「違う。死ね」

 はっきりと否定したのに後ろでユウトは「困るなぁ」とかキモイことを言っていた。

「吹奏楽部の人」

 ここで黙ったらほんとにこの男の事が好きみたいなことになりそうで、それだけは避けるため、わたしは身を切られる思いでそう言ったのだが、それを聞いたユウトは一言、

「ぽへー」

 と世界一興味のなさそうな相槌を打った。

 マジでなんなんだコイツ。

 こんな相槌が許されるやつあんまいないだろ。

 そしてユウトはその興味のなさそうな態度のまま、

「付き合えそうなの?」

 と聞いてきた。

 ズキンと胸が痛んだ。

 ──付き合えそう?

 そんなこと気軽に聞いてくるなよ。

 なんであんたにそんなこと聞かれないといけないんだ。

 どこまでデリカシーがないんだ。

 無理そうだとも、付き合えそうだとも言いたくない。

 こいつには何も言いたくない。

「あんたには関係ないでしょ」

 だからわたしは本日何度目か分からないその言葉を口にする。

 結構突き放した言葉だし、この話は終わり、という意味を込めて言っているはずなのだけれど、ユウトにはなぜかあまり伝わっていない様で、

「まぁね。でもさっさと告白した方がいいよ」

 そんな風に話を続けてくる。

「しないよ」

 わたしは早くこの話を終わらせたくて、ユウトにこの話を続けることを諦めてほしくて、ぶっきらぼうににべもなく彼の言葉を否定する。

「え、しないの? 告白」

「……するわけないでしょ」

「ははーんなるほど。アメリカ式的な? 告白文化がなくて気が付いたら付き合ってるみたいな、つまりそうゆうことだ」

「違う黙れ」

 軽い調子でへらへらとそんな軽口を言い始めたユウトをわたしはぴしゃりと一蹴する。

 いや、そのままふざけ続けてこんな話題は有耶無耶にしてしまった方がよかったのだと遅れて気が付く。

「で、なんで?」

「なんでも」

「告白しても振られそうだから?」

「……」

 答えない。

 答えたくない。

 だけどわたしの沈黙はユウトに肯定と捉えられたようだった。

 否、捉えられたのではない。

「夏希は」

 言い逃れのしようのない、事実だった。

「怖いんだ。振られるのが」

 漕ぐ足を止めた。

 いや止まってしまった。

 わたしのすぐ後ろを走っていたユウトが「あぶねッ」と言いながらブレーキを掛けた音がする。

 ちんたらのんびりと自転車を漕いでいられる精神状態ではなくなって、かといって立ち漕ぎで逃げるようにして先に帰れるだけの元気もなかったから。

 白状しよう。

 今までわたしがユウトに抱いていた怒りは冗談だった。

 今この瞬間の怒りに比べれば。

 瞬間的にカァッと頭が熱くなって、指先が小刻みに震えほどの、怒り。

 なんなんだコイツ。

 なんなんだよコイツは。

 悔しくて零れそうになった涙を怒りで誤魔化してどうにか堪える。

 言い返すための言葉がいくつも脳裏に浮かんでも、血液が沸騰するほど熱くなった頭では浮かんだそばから爆竹のように弾けてしまって言葉にならない。

 心臓が不自然に強く動悸したせいで胸が苦しく、小さく掠れた声でようやく「はぁ?」と絞り出した。

「なんであんたにそんなこと言われないといけないわけ」

 怒りで震える喉でそう言って後ろを振り返り、なぜか飄々とした顔をしているユウトを睨みつける。

「黙ってよマジでいい加減。あんたに一ミリも関係ないでしょ。大体なに? 付き合えなさそうだとか、告白しても振られそうだとか? わたし一言も言ってないよね? 勝手に分かったようなこと言って見透かした気になんないでくれる?」

「へぇ、てことは付き合えそうなの?」

 ユウトは内臓が煮えくり返ったわたしをあざ笑うように、おどけた様に少しオーバーな身振りでそう言った。

 プチプチと頭の血管が切れるような音がした気がした。

 ぶん殴りたい。

 人を殴ったことなんて一度もないから、うまく殴れるかは分からないけどそんなことはどうでもよかった。今すぐ駆け出してこのニヤケ面に思いっきり拳を叩きつけたい。

 が、しかし結局わたしがその問いに答えることはなかった。

 そうだよ、とか、あとはわたしが告白するだけで付き合えそうとか、言うだけなのに、わたしがそれを口にすることはなかった。

 それを見たユウトはこれ見よがしに肩を竦めて「夏希は昔から嘘だけはつけないよね」と知ったようなことを言った。

 「どうせ、一緒に居られるだけでいいだとか、自分の思いは伝わらなくてもいいだとか、乙女チックなこと思ってるんだろうけど、そんなの欺瞞だね」

 五月蠅い。

 茜は、わたしの思いなんて一生知らなくて良いんだから。

 「自己欺瞞。伝わらなかったら思いなんて無いのと一緒なのに。そうやって抱え込んで悲壮感たっぷりの顔でいればなんか悲劇のヒロインみたいな感覚になれるのかもしれないけど、普通に夏希がそれを選んでるだけだからね。今の夏希の状況を作ってるのは夏希自身だ」

 五月蠅い。五月蠅い。五月蠅い。五月蠅い。五月蠅い。五月蠅い。五月蠅い。五月蠅い。五月蠅い。五月蠅い。五月蠅い。五月蠅い。五月蠅い。五月蠅い。五月蠅い。五月蠅い。五月蠅い。

「だから、ほら、そんな顔するくらいならさっさと告白してこい。もしかしたらワンちゃんあるかも──」

 「だからしないってばッ!」

 ユウトの言葉を遮って思わず大きな声が出た。

 言った自分が驚くくらいの剣幕に、流石のユウトもしゃべるのをやめて黙った。

 永遠のようにも感じる、その一瞬静まり返った空気に、蝉の鳴き声がやけに大きく耳障りに聞こえた。

 「うるさすぎるほんとに。なんなのマジで。しないって言ってんじゃん」

 ユウトの方は見れない。真夏の太陽が照り付けて溶けそうなほど熱くなったアスファルトをぼんやりとした視界が捉えていた。

「一緒に居られるだけで良いって思って何が悪いの? わたし誰にも迷惑かけてない」

 夏の暑さか、それとも急に激昂して血圧が上がったのか、いよいよ眩暈を感じて額を抑えた。

「むしろ告白した方が迷惑でしょ。友達同士なのに相手は自分の事を好きだったとか、大会前なのにショックで演奏に支障がでたらどうするの」

 だめだ、泣くなわたし。この男にそれを見られてはいけない。

「無理なんだって。その人好きな人いるって、名前まで聞いたんだから。そこまで聞いといて告白するだけ迷惑でしょ」

 そこまで言ってからわたしは思わず目を瞑って小さく息を吐いた。

 一瞬、視界が白く染まるほど瞬間的に頭が熱くなった。それは怒りでも、日差しの暑さによるものでもなく、きっと自己嫌悪、あるいは罪悪感かもしれない。

 過去のわたしが、今のわたしを見たらなんと言うだろう。

 だからわたしは、この後にユウトが何を言うのか、だれよりもよく知っている。

「いや、すべきだ」

 沈黙を破ってユウトは言った。

「無理なのが分かっているなら、なおさら告白するべきだ」

 ほらきた。

 こうなってしまえばもうまな板の上に置かれた魚だ。

 誰かに捌かれるのを待つだけ。

「あんた」

 普段のユウトがあまり使わない二人称を使い始めてわたしは閉じていた瞼をさらにギュッと強く瞑った。

「口では無理だとか、どうせ付き合えないとか言ってるけど、心のどっかで可能性はゼロじゃないかもって思ってるだろ」

 こう言われることは分かっていたはずなのに、その言葉を聞いて今更焦ったように心臓が早鐘を打った。

 ユウトにこれを言われることはもうずっと前から分かっていたはずなのに、言い返す言葉の準備はなにもできていない。

「確かにゼロじゃないよな。だって振られてないんだもん」

 否。言い返すも何も、わたしにそんな権利は元よりなかった。

「いま相手には確かに好きな人がいるけど、告白したら自分に乗り換えてくれる可能性もゼロじゃない、とか。もっと言うと自分がなかなか告白しないから焦れて他の誰かが好きみたいなことを言うことで焦らせて告白させてこようって考えている可能性もゼロじゃない──とか」

 そこで一拍置かれてわたしは思わずユウトの方を見た。

 彼の表情は、当然だが怒っているわけではないし熱い気持ちでわたしに説教垂れている訳でもない、視線はわたしを外していて、ぼんやりと虚空を見つめながらなにか思い出しているような顔だった。

「そんなありもしない可能性を考えて胸躍らせてる暇があったらさっさと告白して、これ以上拗らせる前に完膚なきまでに玉砕しろ。付き合ってもない、ただ自分が一方的に好きなだけの人と同じ進路目指そうとかとか考えてんのマジで異常だから。それ誰も幸せにならない」

 耳が痛い、というのはきっとこういう時に使うのだろう。

 そして多分、ぐうの音も出ない、というのもこういう時に使うのだ。

 実際わたしは、一言も言葉を発せず、身じろぎ一つできず、何かを思い出しながら喋っていたユウトがゆっくりとわたしの方に視線を戻すのと同時にわたしはユウトから目線を落とした。

 なぜなら。

「みたいなこと──俺前に夏希に言われたんだけど」


 若気の至り、だなんて言ってしまってよいのだろうか。

 きっと誰にだってある、自分の過去の黒歴史。

 わたしにとってはそれが、今から約二年前の夏だった。

 能力や経験や専門性が低い人ほど自己評価が高くなるダニングクルーガー効果、という言葉がある。例えば特定の分野をちょっと齧った程度の者ほどその分野についてよく知ったかのような錯覚に陥るというあれだ。

 ちょうどその当時のわたしは人生においてのダニングクルーガー効果に捉われている真っ最中だった。

 そう。わたしは高校一年生の夏ごろに今しがたユウトがわたしに言ったのと同じようなことを、訳知り顔でわたしがユウトに対して言ったのだ。

 それまでわたしはユウトの事を、人にちょっかいをかけたりからかったりするのが趣味の性格の悪い奴だと思っていた。ずっとそういう奴だとしか思っていなかったから、ユウトがちょっかいを掛ける対象がわたしだけだと気が付くのに随分と時間がかかった。

 中学三年生の夏頃だったか、わたしはそれとなくユウトに自分には好きな人がいるというような感じの事を匂わせてみた。

 確か、男子って誕生日プレゼント何貰ったら嬉しい? みたいなことを言ったはずだ。ユウトは早生まれで誕生日にはまだまだ先だった。

 それからというものユウトがわたしに対して見せる顔が変わった。

 なんというか例えるなら──そう遠くない未来で自分が死ぬことが分かっている母親が、たった一人の息子のためになけなしの財産と自分の死後に息子が苦労しないようにできる限りの準備を終えて迎えた、おそらくこれが自分が祝える息子の最後の誕生日になるであろう日に、そんなことは露知らず無邪気にはしゃぐ息子の様子を眺めているときに浮かべる、寂しさと諦めの混じった慈愛に満ちた微笑み。

 鬱陶しかった。

 考えても見てほしい。顔を合わせるたびにそんな顔をされるのだ。わたしはそれが鬱陶しくてたまらなくて、つい言ってしまった。

「さっさと告白してきなよ。振ってあげるから」

 青い。そして痛すぎるわたしの黒歴史。

 恋愛経験なんてほとんどないし、ましてや誰かと交際したことだったないのに、いやないからこそ、他人の恋愛模様を第三者の立場から見てなぜか知った気になっていた。

 脈がないならさっさと諦めて次に行けばいいとか、そんなクズ男さっさと別れればいいのにとか、当事者じゃなければいくらでも言えるものである。

 そもそもただの繁殖が目的なら必要なのは性欲だけでいいのに、そこに恋だの愛だのクソめんどくさい感情を持ち込んだ時点で、合理的な思考だとか鼻で笑える話なのに、当時のわたしはそれが理解できていなかった。

 結果、恋愛のレの字も知らん女が、数多の恋愛をしてきた恋愛マスターかのような錯覚を起こした結果、友達の恋愛相談を聞いては渾身のアドバイス(正論パンチ)をしまくる化け物が生まれたのであった。

「──だって、振られたら、もう茜と一緒に学校行けなくなっちゃう」

 そしてこのざまである。

 そしてボロボロ泣く始末。

 始末に負えないとはこのことである。

「部活でだって毎日顔合わせるのに、振られたらもう部活行けない。気持ち悪いって思われたら生きていけない。告白しちゃったらもう元に戻れない」

 喋りだすと止まらなくなって、口から出る言葉と同じ量だけ涙が溢れた。

 ボロボロと溢れる涙を手の甲で拭いながら、

 「せめて大会終わって部活引退してからがいい……」

 「全国まで進んだとして全国大会いつだっけ?」

 「十月」

 「……まぁ、何かいろいろ言ったけど別に俺は強制したい訳じゃないから、うん、好きにするといいよ、その辺は。任せる」

「…………」

 わかっている。

 わたしはきっと怖いのだ。

 本気でやって、失敗して、それで自分が傷つくのが怖い。

 今ならまだ本気を出してないだけって言えるから。

 告白していないから振られてもいない、振られていないからまだ可能性はゼロじゃないと、決定的な結末を先延ばしにしている。

 結論を保留にし続けている。

 好きな女の子に告白して振られた途端「冗談だよ笑 本気にしちゃった?」とか言っちゃう男に匹敵するセコさだ。

 そんなことをしているからいつまで経っても諦めきれないのだ。

 未練がましくいつまでも一縷の希望にしがみついている。

 朝一緒に登校できなくなるくらいなら、一緒に帰れなくなるくらいなら、もう今までのように話せなくなるくらいなら、このまま一生告白なんかせずに、思いは胸にしまったまま友達のままでいい、とか一蹴回って吹っ切ったつもりでも一緒の音大行こうかとかウジウジ悩んでるこの結果がすべてを物語っている。

 わかっている。

 わたしはいい加減、現実を見なくてはならない。

「……あんたは、この学校に入学したこと後悔してんの?」

 今更になって泣いているのが恥ずかしく思えてきてユウトから顔を伏せながらそんなことを聞いてみる。

「いや、後悔とかは正直そんなにかな。部活の奴らも面白いやつが多いし、そこそこ楽しいよ──夏希に振られてからは」

「なに、嫌味?」

「いや、マジな話」

 「あっそ」

 やっぱコイツ嫌いだな。

 あと数年前にわたしが言ったことを真似してくるの普通に性格が悪い。

「先に言っておくけどわたし別に振られたからと言ってあんたと付き合うとか、そんなことはありえないからね」

「わかってるよ。男を好きになれとか言うつもりはないし。俺はただお前が振られてるところが見たいだけなんだから」

「ゴミ」

 そう言ってわたしはようやく自転車に跨って、

 ふぅ、と深く息を吐いてからユウトに尋ねる。

「……進路希望調査票提出するのいつだっけ」

「たしか、夏休み明けすぐだよ」

「そう、じゃあその頃までには」

 その言葉を聞いたユウトはわたしの目を真っ直ぐに見据えて、しかしそれは決して自分の思い通りに事が運んだからと満足気な顔をする訳でもなく、かといって振られることがわかっているわたしを憐みの目で見る訳でもない表情で、

「うん」と言った。


 だからおまえその顔すんなって。

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