第3話

「夏希ちゃんはどうして吹奏楽部に入ったの?」

 わたしと茜との出会いは遡ること二年半前、高校一年生の時の話だ。

 地元からそれほど遠くない高校に入学したものの、もともとお世辞にも人づきあいが良いとは言えなかったわたしは運悪く同じクラスに仲の良い友達がおらず、入学直後の早速グループを作り始めている教室の雰囲気に呑まれて誰にも話しかけられなかったあの日、そんなわたしに話しかけてくれたのが茜だった。

 ──可愛らしい子だな、と思った。


 誤解しないで欲しいのだが、わたしは別に惚れっぽい質ではない。どころか生まれてからこの方好意を持った相手など片手の、それも人差し指までで数えられる程度だ(どの指から数え始めるのかによって結構違ってくるだろうがそのあたりはご想像にお任せする)

 とにかくわたしは慣れない空間で緊張して固まっていたところにちょっと優しくされたからと言ってコロッと好きになってしまうようなタイプでもないし、見た目が良いからと言ってキャーキャー言うタイプでもない。

 だけれど、気になった。

 小柄で童顔で可愛らしい、という評価を学校の男子たちがしているのは後から知った。正しくは小柄で童顔で可愛らしいけど、それでいてどこか掴みどころのない性格をしている。

 わたしがそういった茜の性格やら何やらを知ったのはそうして彼女に話しかけられて以降、だからその時点ではまだ容姿が可愛らしくて纏う空気が鮮やかだな、という程度の認識で彼女に近づいたのだが、今にして思えばそれはわたしの最初の失敗だったのだろう。

 当時、まるで夜に飛ぶ虫さながら光に引き寄せられるようにして自分も吹奏楽部に入ってはみたものの、茜と同じトランペットにはなれず周りは経験者ばかりでおまけに人づきあいが良いとは言えない自分はなかなか部に馴染めずにいた。


 入部から約三か月、いつものように校舎裏で一人でサックスの練習しながら、わたしは何をやっているんだろう、とため息を付いた。

 マウスピースから口を離し、ぼんやりと空を見上げる。

 真っ青な空。雲はほとんどなかった。この場所はちょうど校舎によって日差しが遮られて日陰になっている。そこから日光降り注ぐ影の外の世界に目をやると、遮られなかった太陽の光が壁や地面などのあちこちで乱反射してひどく白やんで見えた。

 白と黒の世界。

 絶え間なく聞こえる蝉の鳴き声が悲鳴みたいだと思った。

 もうやめてしまおうかな。

 眼前に広がる真っ白の世界を眺めながらそんなことを考えていた時、同じように一人で練習できる場所を探していた茜と偶然出会って話しかけられたのだった。


「夏希ちゃんはどうして吹奏楽部に入ったの?」

 予想外な来訪に少し舞い上がりながらしばらくたわいもない話をしていると唐突にそんなことを聞かれた。

 あなたがいるから、なんてとても言えなかった。

「え、えっと前にテレビかなにかでジャズを演奏してる人がいて、それでかっこいいなって思って」

 だから苦し紛れの嘘をついた。

「わかる。ジャズかっこいいよね。私もたまにコンサートとか行くよ。お父さんがジャズ好きだから」

 茜はパッと顔を綻ばせて嬉しそうにそう言った。

 思いがけず共感を得られたようでわたしは少しホッとする。

「わたしも、トランペットがやりたかったな」

 ささやかな愚痴を漏らしながら手持無沙汰に手元のサックスのキーを楽譜通りに押してみる。いつまでたってもおぼつかない自分の運指にまたため息が漏れそうだった。

「そうなんだぁ。サックスはあんまやりたくなかったの?」

 退屈そうなわたしのそれを見て茜が聞いてきた。

「やりたくなかったってわけじゃないけど……」

 そう言って顔を見られないようにうつむいた。

 それを言い出したら吹奏楽自体別にやりたかったわけじゃない。今に至ってなお、わたしはなんで自分が吹奏楽部に入ったのか分からないんだから。

「私はどっちも好きだなぁ」

 茜は視線を前に戻すと、持っていたトランペットを抱きかかえるようにしてそう言う。

「トランペットのハリのある高音も綺麗だけど、サックスのおしゃれな音色も上品で好き」

 彼女の声は風鈴みたいだと、この時思った。

 容赦なく照り付ける直射日光。雲一つない青空。照り返すアスファルト。蒸し風呂のような湿度。悲鳴を上げる蝉の鳴き声。日向と日陰。白と黒。

 校舎裏に風は吹かない。なのに彼女の声は風に吹かれた風鈴のように軽やかで、涼しい。

「夏希ちゃん、髪綺麗だよねぇ」

 いつの間にか彼女がわたしの事を見ているのを視界の端で捉えた。

「そ、そう?」

 唐突に褒められてわたしの声が裏返る。見られている、と思うと彼女の方に視線をやるのに勇気がいった。ゆっくりと、慎重に、顔を横に向ける。

「うん、綺麗な黒髪だし、背も高くてかっこいいし」

 彼女は自分のトランペットを抱きかかえ、それにもたれるようにしてわたしを眺めていた。

 目が合う。

「サックス、似合うと思うけどなぁ」

 そう言って優しく微笑んだ。

「そう、かな」

 えへへ、と声が漏れそうになる。

 もうちょっと続けちゃおっかな。

 こんな風になってしまうわたしはきっと単純。

「私も最初はトランペットよりもピアノがやりたかったから、夏希ちゃんの気持ちちょっとわかるなぁ」

「そうなんだ……意外」

 てっきり最初からトランペットがやりたくて音楽を始めたのだと思っていたから。

 そう言うと彼女は「よく言われる」と言って少し笑った。

「いつの間にか好きになってた。好きになるきっかけって、案外なんでもなかったりするよね」

 わたしの目線の先はもう、吸い寄せられたかのように茜に向けられて動かない。

「好きだから頑張るのか、頑張ったから好きになるのか、結果的に好きになれるのなら私はどっちでもいいと思うんだよねぇ」

 こんなにも茜の顔を、その瞳を、正面から真っ直ぐ見たのは多分この時が初めてだった。

 自分と同年代とは思えない程、幼くてあどけない顔立ち。それなのにどこか底知れない、大人びた表情をしていた。

「好きって、知ってるってことだもんね。その価値を理解できてるってことだもんね。私はね、この世界に価値のないものなんて一つもないんじゃないかって思ってるよ。誰かが好きだと言っているものを自分が好きになれない時、それはまだ自分にはその価値を理解できていないだけなんだよ。それが良い悪いじゃなくってね。だから好きになれたってことは知らないことを知ったってことだよ。それってすっごく素敵じゃない?」

 遠回しに、だからもう少し吹奏楽続けてみよ? と言われているのはわかっている。続けてみたら楽しくなってくるかもよ、と。

 ──でも、

「でも、わたしそんなに何かを好きになったことない、そんなに本気になったことない」

 だからこそわたしは焦っていた。茜の言っていることが真実だと分かっていたから。その時すでにわたしはどっぷりと沼に片足を突っ込んでいるのが分かっていたから。

「だって、怖いから」

 隣に座る茜の瞳に吸い寄せられるようにして釘付けになった自分の目を引きはがさなければならないと本能が告げていた。

「本気でやって、努力して、だけどそれでも自分には手が届かないってわかってしまったら、どうするの?」

 茜は相変わらず優しく微笑んだままだ。夏の暑さなどそこに存在しないかのように涼しげに。

「そんなに好きになってしまったらどうやって諦めればいいの、どう折り合いをつければいいの」

 わたしの必死の問いに茜は微笑んだまま、ゆっくりと時間をかけて口を開く。

「そんな自分の事も、きっといつか許せるようになる」

 静寂。

 どこかからか風鈴の音が聞こえた気がした。幻聴だろうか。暑さでおかしくなってしまったのかもしれない。

 その音の余韻が消えると同時に、また騒がしい蝉の鳴き声が戻ってきた。

「許すだけでいいの? それは、自分のことは、好きになれなくて」

 わたしが聞くと茜は涼しい顔で「いいんだよぉ」と言った。

「だって自分の価値が理解できていないだけで、価値がないわけじゃないもん」

 そう言って茜は抱きかかえているトランペットを指先で撫でる。

「本気で何かに取り組んで、それでも手が届かないと知って、諦めなきゃいけない時が来たとして、それってありのままの自分を受け入れられたってことなんだと思う」

 彼女のよく磨かれたトランペットにわたしが映る。しかしその像はぼやけてよく見えない。

「努力は報われないし、奇跡は起こらないし、運命はいつだって理不尽で、特別な才能なんて何一つない。立ちはだかる障害を軽々と乗り越えられるような力強さも、全てを解決できるような頭脳も、圧倒的な才覚も、最後には何もかも解決できるような主人公性も自分にはない。諦めるってことはそれを受け入れるってことだよ。自分が凡人だって認めるってことだよ──誰にでもできることじゃない──だけど、ありのままの自分を受け入れないと前に進めない時だってあるよね。本気で努力するのも、そして諦めるのも、特別じゃない自分を受け入れて前に進むために必要なことなんじゃないかなぁって思うよ」

 気が付けば彼女の目線は手元のトランペットに落ちていた。指先で撫でるのと同じくらい優しいまなざしでそれを見つめながら、

「それができる人が、無価値な訳ないじゃない」

 そう言った。

 首筋を汗がツゥ、と流れるのを感じた。

 諦める。

 諦めて、前に進む。

「茜ちゃんは、それができるの? そうしてきたの?」

 わたしが問うと茜はゆるゆると首を横に振る。

「でも今のまま続けていけたら、ううん、今よりもっと頑張ったら、どっちかはできる気がする」

 どっちか。

 欲しいものを得られるか、すっきりと諦められるか。

「いつか」

 いつの間にか、喉がカラカラに乾いていた。

「もしもこの先、わたしが前に進まないといけなくて、そのためには何かを諦めないといけなくて、だけどその勇気がでない時、茜ちゃんわたしの背中を押してくれる?」

「もちろんだよぉ。その時は自分の事を受け入れた夏希ちゃんを私も受け入れて『頑張ったね』って言ってハグしてあげるよ」

 色々言って急に恥ずかしくなったのか、彼女は笑いながらおどけた様子でそう言った。

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