第2話

「よお、夏希」

 後ろからそんな風に雑に声を掛けられてわたしは振り返る。

 茜を家に送り届けてからも、なんとなく自転車に乗る気になれず、自転車を押しながら一人とぼとぼと家までの帰路を歩いていた時の事だ。

「今帰り?」

 わたしの隣に横付けした男がそう聞いてきた。

「……そうだよ」

 返事をしながらわたしは思わず目線を逸らしてしまう。

「ユウトも今帰りなんだ。遅いね」

「まぁね。俺たちサッカー部もそろそろ夏の大会近いから。てかお前、自転車の乗り方知らんの?」

 茜を家に送り届けて一人になった後も自転車に乗らず押して歩いていたわたしにそう言った。

「知らないなら教えるけど」

「……んな訳ないでしょ」

「じゃあチェーン外れたとか? 直してやろうか?」

「いい、そういう訳じゃないし」

「じゃなんで歩いてんだよ」

「歩きたい気分なの。別にいいでしょ。あんたはさっさと帰りなよ」

 彼と話すとき、わたしはどうしてもこんな風にぶっきらぼうな話し方になってしまう。

 意識してやっているのではない。無意識にそうなってしまうのだ。

 一方彼はそんなわたしの態度に特に気を害したこともないらしく「へーぇ」と気の抜けた返事をしていた。

「今日も途中まで茜と一緒に帰ってたのか? ほんと仲いいなお前ら」

 先に帰りなよと言ったのにそれに従うつもりは欠片もないようで、自転車を押して歩くわたしの隣をペダルを器用に小刻みに漕ぎながらふらふらと並走していた。

「いいでしょ、別に」

 わたしは一向に彼と視線を合わせることなくすげなくそう答え、

「あんたこそどうすんのよ」

 無意識に明日返してくれればいいよと言われて借りっぱなしのバレッタに指先で触れながらそんな意地悪なことを言ってみる。

「え? 俺? なにが?」

 しかし彼は何のことを言われているのか分かっていない様でキョトンとした顔で聞き返してきた。その態度にわたしは少し苛ついた。

「新しく好きな人とかできないのかって聞いてんの」

「は? 好きな人? なんだよ急に」

 想像だにしていなかったのか、わたしの歩くペースに合わせて絶妙なハンドルさばきとペダルの漕ぎ方でを調整していた彼は驚いてバランスを崩し慌てて地面に足をついた。

「今年のバレンタインで何人かの女子からチョコ貰ってたでしょ? あれどうするの」

「どうするもなにもお返しはしたよ」

「じゃなくて返事って意味」

「返事? あぁ、いやあれ義理だぜ。みんなに配ってたやつをおれも貰っただけだよ」

 確かに茜はユウトのほかにも女子含めて何人かに配っていた。

 だけどユウトにあげたものだけは内容が違ったはずだ。

 だけどまぁ、気づいていないならそれでいい。

 少し、ほっとした。

 そんなことでほっとする自分に──少し落ち込んだ。

 仮にユウトが茜と付き合わなかったからと言って、それでわたしと付き合うことになるなんてことがないということは、実際のところわたしが一番よくわかっているから。

 じゃあ、それならばどうしたらいいのかが、わたしには分からない。

 この気持ちの行き先をどこに向けたらいいのか分からない。

 ふと、脳裏に茜の顔がよぎる。

 彼女がユウトの事を話しているときの顔を。

 誰かを好きって、きっとああいうのを言うんだ。

 その人のことを考えているだけでドキドキするだとか、話しかけられただけで嬉しくなってしまうだとか、そういう、気持ちを高揚させるもののような気がする。

 ──ドキドキ。

 わたしは、しない。

 好きな人のことを考えてもドキドキしない。

 わたしにあるのは痛みだけ。

 ──ズキズキ、するだけ。

 そういえば、恋という漢字の旧字体は戀と書くそうで、さらにそれを遡って漢字以前の状態では、男女が互いに糸を引っ張りあう、という意味の絵文字になるそうだ。

 二人を繋ぐ運命の糸。

 ロマンチックな話である。

 ならばわたしの場合は孤悲だ。

 孤悲。万葉集などでも度々使われたらしい、戀という字の当て字。

 孤りで──悲しい。

 わたしにお似合いな漢字である。

 「お前はだれか好きな人いないのかよ」

「……はぁ?」

 突拍子のない質問に(突拍子のない質問ではない)わたしは素っ頓狂な声を上げた。

 コイツは……人の気も知らないで。

「いてもあんたに教えるわけないでしょ」

 人に聞いておいて自分が同じ質問をされても答えない女。それがわたし。

「おいおい。人に聞いておいて自分は答えないのかよ。俺も言ったんだからお前も言えよ」

 案の定、至極全うなことを言われる。

 はぁ、とわたしは肺に溜まった重い空気を吐き出す。

 重い気体ってなんだっけ?

 軽い気体と言えばヘリウムだけど、重いのは二酸化硫黄?

 ……なんか臭そうだな。

 それ吸ってトランペットを吹いたら低音楽器のような音が出るのかな、とか考えるとちょっと面白いけど。いや実際に二酸化硫黄なんて吸ったらトランペットを吹くどころかすぐさま入院になるのかな。

 あれは確か有毒だ。

 ……入院ねぇ。

 恋の病なんて、ロマンチックなものを実際に医者が診断してくれるのなら是非とも入院してみたいものである。

 ただ話をしているだけなのに、ただ隣を歩いているだけなのに、どうしてこんなに胸が苦しいんだろう。

 好きな人の好きな人の話を笑顔で聞く度に、下水道の水を喉に流し込まれているような気分になる。それは食道を通って胃に入り、消化されることなく溜まっていく。

 もういっそ、言ってしまおうかな。

「……わたしさぁ」

 言って、吐き出したら少しは楽になれるのかな。

「あんたのことが嫌い」

 「……いや、俺は好きな人いねぇのかって聞いてんだけど。えっ、ていうか嫌いなの!? 俺の事!?」

 少し溜めてから発したわたしの言葉を、彼は冗談だと受け取ったらしくいつも通りオーバーなリアクションをとったのを、わたしは冷めた視線で眺めてから鼻で笑って一蹴する。

 わたしはなにも「べ、別にあんたの事なんて、好きでもなんでもないんだからねっ!」みたいな漫画やアニメにおけるツンデレヒロインみたいなことがやりたいわけではない。

 ……いやほんとに。

「幼稚園の頃、わたしが描いた絵をあんたが横からぐちゃぐちゃにしたの、忘れたの?」

「またその話かよ。だから覚えてねぇってそんな昔の事」

「いじめてる側はそうなんだよね」

「いや、多分だけど別にいじめてたわけじゃねぇって」

「いじめてる側はそう言うよね」

「……」

 彼がグッと言葉に詰まったのをみて、わたしは久々に少し胸がすっとした。

 むしろわたしからしてみれば、なんで今までわたしから嫌われていないと思っていたのかが、甚だ疑問である。

「わたしが遊んでたおもちゃを横取りするし、わたしの好きな本をどっかに隠したりするし」

「うーん正直全然覚えてないんだけど、ごめんな。昔の俺に会う機会があったら叱っておくよ」

「かけっこだってわたしの方が早かったのに、いつの間にかあんたの方が足早くなってるし」

「それは、言いがかりも甚だしいな」

「テストだっていつもわたしより良い点とるし」

「でも絵は夏希の方が上手かっただろ。俺絵は全然描けないし」

「それは別にいいんだよ。どうだって」

 それに……と言いかけてわたしは黙る。

 最後の一つは、いつも言えない。

 なんだか無性にむしゃくしゃして、ふらふらと鬱陶しくわたしの隣を並走する彼の自転車を横から軽く蹴った。

「あぶねっ──おい何すんだ急に」

 バランスを崩して慌てて片足をついた彼はそんな文句を言う。

「別にいいでしょ。幼馴染なんだから」

「いやあの、幼馴染だから何してもいいってことはないよ。全然」

 幼馴染をなんだと思ってんだ、とかなんとかブツブツ不満を口にしながら、また自転車をこぎ始め並走を始めた彼を無視して、わたしはいよいよ押して歩くのをやめて自転車に乗った。

 耳に纏わりつくような蝉の声を振り払うように足をペダルにかけて苛立ちに任せてペダルを漕げば、夏のぬるい風が頬を流れた。


 そう、わたしは、

 この男のことが、

 わたしの幼馴染である橘ユウトのことが、


 ──大嫌いなのである。

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