鳴く蝉より、鳴かぬ蛍が身を焦がす

祝 唾棄

第1話

 ──蝉は嫌いだ。

 と、雲一つない真っ青な空から降り注ぐ、痛みすら覚えるような紫外線を肌に感じながら、わたしは自転車を押していたハンドルから片手を放し、汗で頬に張り付いた髪を手で払ってハンカチで首元の汗を拭いつつ横目で、まるで吐瀉物でも見てしまったかのような顔をしてそれを見ながら、そう思った。

 見れば溶けそうなほど熱く焼かれたアスファルトの上に一匹の蝉が天を仰いでひっくり返っていた。

 わたしは蝉が嫌いだ。

 

 どのくらい嫌いかというと、これはなかなか一言で言い表すのは難しいかもしれない。

 まず思い浮かぶのは、今でこそそんなことはしないけれど小学生くらいの頃、公園の木に留まっているそれを捕まえようとして手を伸ばしたが逃げられ、その際に飛びながら、まるであざ笑うかのようにおしっこをひっかけられた思い出だ。

 考えてみれば、おしっこをかけられる経験というのもあまりない。

 犬だって電信柱にするし赤ちゃんだっておむつにする。まぁ犬も赤ちゃんもおしっこを漏らしてしまうことはあるし、それが時には自分にかかってしまうこともあるにはあるのかもしれないけれど、いずれにしても(一部の特殊な性癖をお持ちの方を除けば)人生においておしっこを『顔に』ひっかけられる機会に恵まれるのは蝉という生き物を除けばないと断言してしまっていいのではないだろうか。

 理由の二つ目は、なんだろう、蝉がカメムシ目に入っているということだろうか。

 カメムシ目(半翅目はんしもく)・頸吻亜目けいふんあもく・セミ上科(Cicadoidea)

 あの、手で触れるとなかなか落ちない強烈で不快な匂いを噴射するあの虫と、元を辿れば同類だというのは、なんかもう、その時点で嫌悪感がある。

 かと言って、じゃあカメムシも蝉と同じくらい嫌いなのかといわれると、そうではない。それはさすがにカメムシに失礼というものだ。そもそもカメムシがあの臭い匂いを出すのは身の危険を感じたからであって、言うなれば正当防衛のようなものだ。こっちからちょっかいをかけなければどうということはない。

 その点、蝉というやつはどうだ。

 地面にひっくり返ってまるで死んだかのようなそぶりをして、それに騙されたこっちが油断して近づくと突然気でも狂ったかのように耳障りな鳴き声でわめき散らかして、気色悪い翅をバタバタと気色悪く羽ばたかせて暴れだす。

 俗に言う蝉トラップである。

 卑怯者ここに極まれりといった感じだ。

 地雷などを代表とするブービートラップが戦争で使用を禁止されているのは、先日の中間テストで出された歴史Aで赤点をとったわたしでさえ知っているというのに。

 まぁ、虫けらには人間社会のしがらみなんてわかる訳ないか、と自転車の籠に雑に放り入れていたペットボトルを手に取って飲みながら、わたしはそんな無意味な優越感に浸る。

 「今日ほんと暑いねぇ。夏希は髪下ろしたままで暑くないの?」

 隣を歩いていた茜が暑いという割には呑気な声音でわたしの下ろしたままの髪の毛を見ながらそう言って、右肩に下げているソフトバックを左肩に持ち変える。

 その動作で頭の後ろで束ねた少し茶色がかったポニーテイルがくるんと揺れた。

 パーマもかからない程の直毛を持つわたしにしてみれば、なにもせずともパーマがかったように見える彼女のその髪はとても羨ましい。校則に引っかからない程度に染めた髪は容赦なく照り付ける太陽の光を浴びて煌き、いつもより眩しく見えた。

 「今日忘れちゃったの」

 それをぼんやりと眺めながら、わたしは肩を竦め、暑いねほんとに、と彼女の言葉に同意した。

「もういっそ切っちゃおうかな」

「えっ、そんな軽い気持ちで切っちゃうの? てっきりなんか願掛けとかで伸ばしてんのかと思ってたよぉ」

 そう言ってから茜ははい、と言ってカバンから髪留めを取り出した。私はありがとう、と言って受け取ったそれを見て、あぁ、忘れたなんて言わなければよかったと後悔した。

 大して高いものでもない。しかしかといって百均に売っているようなものでもない金属製のバレッタ。

 少し迷ってから、でもつけないわけにはいかないと思い、立ち留まって自転車のスタンドを立てて止めてから両手で自分の後ろ髪に触れた。

 去年は肩くらいまでだった髪は今は肩甲骨よりも下まで伸びている。この分だと来年の今頃には腰まで届くだろう。

「願掛け……まぁそうなんだけどね」

「コンクールで金賞とれますようにとか?」

 キラキラした目でわたしを見ながらそう聞いてきた茜に、わたしは髪をまとめながらついそっけなく違うよ、と言った。

 わたしたちの通っている公立高校の吹奏楽部は、毎年地方大会で金賞をとる、それなりの強豪だ。ただそれでも全国で金賞をとったことはこれまで一度もなく、来年に卒業を控えるわたしたちは今年こそは全国で金賞をとる気持ちで毎日練習に励んでいるのである。

 そこはわたしも例外ではなく、だからこうして部活が終わった後も家に帰ってから練習ができるように自分のサックスを持って帰っているのだが、

 ちらりと茜の背負っているソフトバッグを見る。

「茜も家で練習するの?」

 中にはトランペットが入っているはずだ。

「うん、ソロパートのところ、難しいんだぁ。私が足引っ張るわけにはいかないから」

 茜はそう言ってにっこりと笑った。

 わたしはそっか、と言いながら後ろで束ね終わった髪から手を放し、自転車のハンドルを両手で持って歩くのを再開した。

 結ぶのを待ってくれていた茜もまたわたしの隣に並んで歩きだす。

「それで、お願い事、コンクールじゃないならなに?」

 それとなく話題をそらせたと思ったのに歩きながらすぐ、茜が聞いてきた。

「もしかして好きな人できた?」

「……いや、できてないよ」

 少し肩を竦めてそう言いながらわたしは片手でたった今結んだばかりの髪に触れた。

 となりで茜が「えーほんとにぃ?」とか言っているのが聞こえた。

 いや正確には触れたのは髪ではなく、たった今茜から貸してもらったバレッタだった。

 ……これ確か今年のバレンタインのお返しで茜がユウトからもらったやつだよね。

 よくもまぁこんなに気軽に貸してくるものだ。

 ──わたしの気持ちも知らないでさ。

 そんな風に思いながらわたしは茜のそれ以上の追及を避けるようにぼんやりと遠くの空を眺めた。


 蝉の鳴き声が五月蠅い。

 こういうの蝉時雨って言うんだろうか、と現実逃避じみたことを考える。土砂降りの雨の日みたいに四方八方から蝉の声が聞こえた。

 蝉の嫌いな理由の三つ目。

 というかこれが本命だ。

 それは、

 ──セミの鳴き声。

 ではなく、

 ─蝉の鳴く理由。

 にある。

 おそらく知らない人はいないであろう、蝉の鳴く理由。

 わたしも当然知っている。

 具体的にいつ知ったのかなんて覚えてない。だって一般常識だ。

 蝉は求愛のために鳴いている。

 オスの蝉が鳴いてメスを呼んでいるのだ。

 成虫になってからの寿命の短い蝉は、死ぬまでの短い間に子孫を残さなければならず、それはもう、文字通り必死に鳴いて求愛するのだ。

 それを知った当時は「ほへー」くらいにしか思わなかったけれど、年を重ねるにつれて「ほへー」以外の解釈をするようになった。

 まぁ、つまり蝉たちはセックスがしたいがために毎日毎日飽きもせず喧しく鳴き喚いているということだ、と。

 ──キショすぎる。さすがに。

 別に性行為自体を否定しているわけではなくてね? 子孫を残すためには必要なことだからね。わたし達もその結果この世に生を受けたわけだし。

 だけど、

 ……もうちょっと静かにできないものかな。

 つまりこれ人間で言うとナンパをしているってことだよね?

 町中で、何百、何千って夥しい数のオスたちが、メガホンもって一斉に「すみませーん! だれか俺とセックスしてくださーい!」とか言っている訳だよね?

 いやいやヤバすぎる。

 何かしらの法に触れるでしょ、それ。

 フェミニストの方々は創作物やらの表現に規制をかける前にこいつら規制してくださいよ、とか、

 まぁそれは冗談にしても、夏の虫らしく、

 飛んで火に入って死んでくれればいいのに、くらいには思う。

「夏希はどう思う? 私脈あると思う?」

「え?」

 ぼんやりと残酷なことを考えていると、突然茜からそんなことを聞かれわたしは聞き返す。

 ちなみに蝉は昼行性だから夜に光につられて火に入ったりはしない。

 そんなところも嫌いである。

「ユウト君の事だよぉ。私の事なにか話したりしてない?」

 どうやらわたしに好きな人の話を聞いた流れで、そのまま自分の好きな人の話に繋がったらしい。

 最悪だった。

「どうだろ……そもそもあんまり話さないし、わたし別に仲良くもないから……」

「そっかぁ……バレンタインのお返しも貰えたし、脈あるのかと思ったんだけどなぁ」

 曖昧な笑みで返したわたしに茜は少し視線を落としてしょんぼりとした様子でそう言った。

 ──だったら、

 そんなやつ、諦めちゃいなよ。

 そしたらわたしが貰ってあげるのに。

 なんて、

 喉まで出かかった言葉をわたしは唾と一緒に飲み込んで、

「まぁ、そんなもんなんじゃないかな。男なんて」

 とか毒にも薬にもならない、分かったようなことを言って宥めてみる。

 もー真面目に聞いてよーと口を尖らせる茜を無視してわたしは歩くペースを少し上げた。

「もしかしたら他の女子にも義理チョコみたいな感じで貰ってたみたいだし、茜からのも義理チョコだと思われたのかもね」

 そう言うと「やっぱそうなのかなぁ」とわたしの少し後ろで茜が呟いているのが聞こえた。

 押していたハンドルから片手を放し、貸してもらったバレットに触れてみる。大したブランド物でもないこれを茜が大事にしているのをわたしは知ってる。

 ──羨ましいな、と思う。

 わたしが茜から、とある男子生徒の事を好きだと聞いたのは今から約一年前の事だ。

 名前は橘ユウトという。わたしたちと同じ学年のサッカー部のキャプテンだ。

 運動神経がよく、勉強もできて、おまけに顔立ちも良いということもあって、何人かの女子生徒から好意を抱かれているというのはわたしも聞いたことがある。

 茜も茜でまぁなんと言うか、控えめに言っても美人というか。勉強ができておまけに吹奏楽部の部長で人柄もよく後輩たちからも慕われている。

 はっきり言ってお似合いだ。

 正直いつ付き合ってもおかしくないと思う。

 茜がこれで意外と奥手だからまだ付き合えていないけど、今日にでもユウトの方から茜に告白してきても全然驚かない。茜はそういう魅力を持った女の子だ。


 ──でも、そんなのは納得いかない。

 ──だって好きになったのは、わたしの方が先なんだから。


 思えば、わたしの欲しいものはいつだって目の前で奪われてきた。

 幼馴染、という言葉の具体的な定義は知らないけど、幼稚園の頃から一緒に遊んでいたというのはまぁまず間違いなく幼馴染と呼んでよい関係だろう。

 今でこそそんなことはしてこないし、傍から見ている分にはとてもそんなことをしていたようには見えないかもしれないが、わたしが遊んでいた玩具を横から取られたり、好きな絵本を隠されたり、書いていた絵を横からぐちゃぐちゃにされたり、した方は今となっては覚えていないのだろうけれど、そういうの、された側はいつまでも覚えているものだ。

 幼稚園時代のことをいつまでもグチグチと、と思われるかもしれないが、それだけじゃない。小学校に入ってからだって、それまでかけっこはわたしの方が早かったのに、気が付けば差をつけられて、テストの点については一度だって勝てたことがなかった。

 別にわたしは特別足の速さに自信があったわけでも、頭の良さに誇りを持っていたわけでもないのだけど、

 自分のものだと思っていたものをそんな風に目の前で取り上げ続けてきて、今回だけはそうならないだなんて、思えるはずがない。

「そういえば夏希はあげてないの? ユウト君にバレンタイン」

 意識的に茜の言葉を聞かないようにしてズンズンと歩いたが、茜はあまり気にしていないようで、置いて行かれないようにわたしの少し後ろを歩きながら聞いてくる。

 「あげないよ。なんでそう思うの」

 茜からの問いにわたしは後ろを振り向かないまま聞き返す。

 「だって……」

 茜はそう言って、しかしその先は続かなかった。

 しばらく無言で歩いて

 「ねぇ」と声を掛けてきた。

 「夏希はほんとにユウト君の事好きじゃないの?」

 そう問われてわたしは立ち止まって茜を振り返った。

 目が合う。

「好きじゃないよ、ほんとに」

 彼女の外敵に襲われる直前の小動物のような瞳を見つめ返しながら、わたしはそう言った。

 違う。

 羨ましい、のではなかった。

 恨めしい、だ。

 今だって、腹の中ではお互い何を考えているか分かったものではない。

 いや、そんなことを考えているのはやっぱりわたしだけなのかもしれない。

 幼稚園の時の事とか小学生の時の事とか中学生の時の事とかを、覚えているのがわたしだけであるように、こんな風に性格の悪いことを考えているのもまた、きっとわたしだけなのだ。

 一方通行なのだ。

「そんなことよりさ」

 と、いい加減こんな話は終わらせようと思い、わたしはそんな風に切り出してまた歩き出した。

「茜はこの大会が終わったらどうするの」

「え?」

 地区予選はもう一週間後に迫っている。さすがに予選敗退はないだろうが地区大会で金賞、あるいは全国大会で金賞をとったとしても、わたしたちはそれで引退だ。

「大学とか」

 そのあとはもう否応なしに、進学するか就職するかを選ばなければならない。

 夏希の言葉に茜は合点がいったようにあぁ、と言った。

「音大の推薦来てるんだよね」

 だから多分音大行くと思う、と当たり前のように言った。

「そう、なんだ」

 怖くて、今まで聞けていなかった問いに対する彼女の返答にどうだろう、わたしは自然な相槌ができていただろうか。

 しかし同時にまぁ、そうだよね、と納得する。

 音大の推薦。

 当たり前だが、わたしには来ていない。

 わたしは結局茜に追いつくことはできなかった。

 これも、当たり前。

 一生懸命その背中を追いかけても、彼女はそれと同じ、いやそれ以上の速度でわたしから離れて行っているのだから。

 例えば同じだけの期間、同じ楽器、同じ曲を演奏していたとしても、わたしが茜と追いつくことはきっとないだろうという予感がある。

 「夏希はどうするの?」

 「……え」

 今度は自分がそう聞かれて答えに窮する。

 自分で聞いておいて、自分が聞かれた時の返答を考えていなかった。

 「……わたしも、音大はいろうかなって、思ってる」

 思わずそう言うと茜はパッと表情を綻ばせた。

 「え、ほんと!? どこ?」

 どこ、と聞かれても言えるわけがない。なにせ今の今まで音大に行こうなんて考えたこともなかったから、この世にどれだけの数の音大があって、自分が行くとしたらどこならいけるのか、まったく分からないのだから。

「どこかは、まだ決めてない」

「そうなんだぁ。すごい練習頑張ってたもんね。夏希が吹奏楽好きになってくれて、うれしいな」

 わたしの歩みが遅くなったのか彼女の歩みが早まったのか、いつの間にかわたしを追い越して数歩先を歩いていた茜が今度はわたしの事を振り返る。

「同じところ、行けるといいね」

 そんな屈託のない笑顔を向けられて、ずるいな、とわたしは思う。

 ずるい。

 こんな笑顔を見せられたらきっと誰だって堕ちてしまうに違いない。

 小柄で童顔でありながら、出るとこ出ているスタイルの良さが、ずるい。

 明るくて、いつも元気で、誰とでも仲良くなれてしまう人懐っこさが、ずるい。

 世の中の悪意をまったく知らない様な、無垢な笑顔が、ずるい。

 緩やかなカーブを描いた上向きのまつげがずるい。

 すらりと伸びた手足がずるい。

 綺麗な並行二重がずるい。

 ずるいよ、そんなの。

 だけどわたしがそれを口に出すことはない。

 口に出してしまえば、それでわたしたちの関係はあっさり終わるのだろうけど、こんな関係さっさと終わってしまえという気持ちと、もう少しこのままでいいというわたしの弱さ、どっちつかずのわたしは今日も終わりを先延ばしにする。

「うん」

 と答えると茜はふふっと笑ってから嬉しそうにこんなことを言ってきた。

「わたしたち、いつも一緒にいるのに、大学まで同じところに行ったら流石にユウト君に『お前ら仲良すぎ』とか呆れられちゃうかもね」

 ほらね。

 だからわたしだけなのだ、こんな重たい気持ちを腹に抱えているのは。

「……そうだね」

 そう言ったわたしの返事は、茜に届いただろうか。

 もしかしたら騒々しく鳴き喚く蝉の声に搔き消されて聞こえなかったかもしれない。

 それでもいいと思った。

 空を見る。遠くに入道雲が見える。

 茜の家まではもうすぐだった。その僅かな距離をわたし達は、

 否、わたしは噛みしめて歩く。

 わたしたちは仲の良い友達。

 それがいつまで続くだろうかと、ぼんやりと考えながら。

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