Code:07_Depression

屑木 夢平

Code:07_Depression

 月に二回のリモートセッションと精神安定パッチのインストール。それがリサの拠り所だった。


 ホワイトクリスマスになるだろうという予報に反して、夕方から雨が降り始めた。フロントガラスを打つ雨音がひどく耳障りで、思わず眉をひそめる。濡れて質感を増したカラオケ店と風俗店のネオンが通行人の傘を下品な色に照らしていた。『安定パッチのダウンロード完了率50%』の文字が視界の中央に表示される。あと二分待てば、このクソみたいな世界はほんの少しだけマシになる。


「雨は嫌いか?」


 運転席の男が前を向いたまま語りかけてくる。悲しげな雰囲気を纏った男だ。青い機械眼は綺麗だが、痩せこけた頬と無精ひげのせいでひどくやつれて見える。今日初めて彼に会ったとき、冬の雨に凍える捨て犬みたいだ思った。確か組の連中からはトオルと呼ばれていた。


「嫌い。でも朝日よりはマシ」


 この雨音はアパートのドアをノックする音にそっくりだ。家賃二万三千円のボロ部屋のスチールドアを毎月十日に叩きに来る取り立て屋の男。しわがれた声。今月も利息ぶんだけか、という聞き飽きた台詞。来月はもっと頑張りますから。定型文とそれに添付される作り笑い。リサの胸元に送られる男の視線。吐き気がするような記憶が次々呼び起こされる。しかし、朝日はもっと辛い。カーテンの隙間からオレンジ色の光が差しこむと、また不幸な一日が始まるのだと憂鬱になる。


「朝日は健康にいいんだぜ。セロトニンの分泌が促進されて幸せになれる。おまえがいまインストールしてるやつなんかとは違う、天然物の幸せホルモンだ」


 トオルは大きなあくびをして、「まあ、もう関係ねえけどな」と付け加えた。精神安定パッチのおかげで落ち着きつつあった心が再びざわめきたつ。外で叫び声がした。クスリをくれよ! リサは居心地が悪くなって座席に座り直す。膝の上に置かれた手の震えが止まらない。


「経歴を調べさせて貰った。十五のときに母が男と蒸発。多額の借金を背負わされたおまえは風俗に送りこまれ、身体もあちこち改造させられて、挙げ句の果てに『ボトム』送り。理不尽を絵に描いたような半生だな。同情するよ」


 ボトム。その名前を聞いただけで背筋が凍りついた。もちろん行ったことはない。しかしどういう場所かくらいは、この街で身体を売っていれば嫌でも耳に入ってくる。借金で首が回らなくなって、普通の店で働いたのでは返済の見込みがないと判断された子たちが送られる場所。そこでは名前も人の尊厳すらも奪われ、生きた人形として弄ばれ、使い物にならなくなったら処分される。まさにこの世の底辺ボトム最悪ボトムが集まるところというわけだ。きっとリサはそこで何もかも失ったのち、最初からこの街に存在しなかったものとして処理されるだろう。


 十五のときに母が男と蒸発して、どうすればいいのかわからず泣いていたら借金取りが家にやって来た。いますぐ三千万円を返せと詰め寄られ、無理だと言ったら即風俗送りにされた。闇医者のもとで全身を機械化され、外見を大人っぽく仕上げて、十九歳の処女として最初の客を取らされた。手術代はもちろん借金に上乗せされ、三千万が三千五百万に膨れ上がった。


 そこから先は泥沼だ。借金を返すためにとにかく客を取らなければならないが、半端な身体やサービスでは利息ぶんすら稼げない。あの子よりも可愛くなるためにフェイスデザインを一新して、この子よりも気持ちよくなるためにアソコの具合を整形して。借金を返すために身体をいじっているのか、身体をいじるために借金をしているのか、そもそもなぜ身体をいじっているのか、もう何が何だかわからなくなっていく。ヤバいクスリにも手を出した。頭のなかの補助コンピューターの感覚リミッタを解除してくれるやつ。客と一緒にそれをインストールして、危うく二人揃って電脳破損テクノブレイクしかけたこともあった。


「もとの顔を覚えてないの」リサは言った。「それくらい自分の身体を改造して、クソババアの残した借金を返済しようと努力してきた。その結果がボトム送りだなんてね」


 新しい精神安定キットを取り出して、コードを読み取ろうとするのをトオルが制止した。


「やめておけ。連続で使うと、あとあと辛くなる」

「別にいいじゃない。どうせこれからもっと辛い目に遭うんだから」


 リサはキットを取り返そうとしたが、あっけなく取り上げられてしまう。トオルは車内照明を点け、キットの裏面に貼られたシールを見た。


「エラーコード07か。初めて見たな。いつからだ?」

「あなたには関係ない」

「じき名前も記憶も消されるんだ。最後に自分語りくらいしておけよ」


 まるで死刑が執行される前の囚人みたいだった。キットを見つめるトオルの横顔は相変わらず悲しげで、何を考えているのかわからない。ただ、不思議と悪い人間ではない気がする。この男もきっと、リサと同じく不幸に愛された人間に違いない。彼女の嗅覚がそう告げていた。


「五年前に初めてエラーコードが出てね。それからずっとよ。パッチを入れると気分が晴れるんだけど、やめたらまたすぐに落ちこむの」

「コード07の別名を知ってるか?」トオルはキットをリサに手渡した。「電子うつ病だよ。補助コンを脳に埋めこめば、うつ病なんてものはなくなると思われていた。脳にかかるストレス値を補助コンが調整してくれるからな。でも、結局この病気はなくならなかった。癌やインフルエンザは機械化技術でまっ先になくなったが、心までは機械化できない。コード07:ディプレッション。こいつはある意味、人間が人間である最後の理由ともいえる」


 雨脚が強くなってきた。リサは車内ディスプレイで時刻を確認する。そろそろ記憶を消去される時間だ。


「ねえ、あなたが私の記憶を消すんでしょう。どうやるの?」

「大した話じゃない。記憶を改ざんするウイルスを補助コンに流しこむだけだ」

「だったら幸せな記憶にしてね」

「幸せな人間はボトムになんか行かない。あんたはヤク中でゴミ屑ほどの貞操観念しか持たないアバズレになる」


 ほら、あそこにひときわデカい建物があるだろう。トオルは夜の街をひときわ彩る摩天楼を指さした。


「あれの最上階でいままさにクリスマスパーティが開かれている。おまえのクソババアが借金してた組の連中と、おまえがこれから送りこまれるボトムの連中みんなが集まっての乱痴気騒ぎだ。年がら年中悪事の限りを尽くしておいて、神様の誕生日をお祝いだなんてウケるよな」


 トオルは煙草を取り出して火を点けた。フロントガラスに『車内禁煙』の文字が表示されると、ヤクザのくせに禁煙車なんて寄越すんじゃねえよ、と舌打ちする。


「じゃあ、アバズレになった私もそこに連れて行かれるんだ」

「そうだ。今夜はおまえのデビュー戦。きっと主役級の扱いになる」


 トオルの声には同情めいた響きがあった。ああ、私は本当にどん底ボトムに落ちるのだとリサは思った。


「あなたも私のデビュー戦を観に行くの?」

「いいや。おれは雇われのクラッカーだ。組員じゃないからな」


 トオルは窓をあけて煙草の煙を吐き出した。やや沈黙があってから、少し昔話をしよう、と彼が続ける。


 トオルはリサと同じ母子家庭に育った。家は貧しかったが、貧しいなりの幸せを噛み締めながら親子二人で生きてきた。母は生活費とトオルの学費を稼ぐために地元のスーパーで働いていたが、彼が中学に上がると夜の繁華街で働くようになった。夜の仕事について母親はトオルに詳しく話さなかった。ただ、何となく察しはついていた。母は夜明け前に帰ってくると、先に眠っているトオルをそっと抱きしめてから自分も眠りにつく。微睡みのなかで感じたアルコールと香水と、その奥にある生々しい肉のにおいがいまも鼻にこびりついて消えない。当時、彼は反抗期に入りたてで、母親が夜の街で働くことへの嫌悪感がないわけではなかったが、ほかでもない自分のためなのだと思うと何も言えなかった。大人になったら立派な仕事に就いて、たくさん金を稼いで、母に楽な暮らしをさせてやるのだと心に決めていた。


 だが、トオルが十六になった年のクリスマスに事件は起こった。その日も仕事に出ていた母は、帰宅するなりトオルに馬乗りになって首を絞めかかったのだ。わけのわからない譫言を叫びながら息子を絞め殺そうとする母を、トオルは傍らにあったサンタクロースの置物で殴り殺した。


 のちに警察の捜査によって、母が電子ドラッグの常習者であることが判明した。トオルは正当防衛が認められて罪には問われなかったが、身寄りもないままこの薄汚れた街に放り出された。そのあとはどん底の日々だ。盗み、脅し、何でもやって、最終的にネットの知識を買われてヤクザお抱えのクラッカーになった。


「おふくろが使ってたのは粗悪品と呼ぶのも憚られるようなドラッグだった。そういうのに頼らなくちゃならないほど追い詰められてたんだろうな。おれは何ひとつ気づかなかったが」

「しかたないでしょ。まだ子どもだったんだから」

「かもな。だが、現実は大人だろうが子どもだろうが容赦しない。いつだって無慈悲なツラで無慈悲なことを言ってくる」


 トオルは金属製の左手で吸いさしの煙草を握りつぶした。


「おふくろをこの手で殺したとき、おれは人生において最も重要な教訓を得た。それは、この身にどんな不幸がふりかかろうとも、どれだけ心を病んだとしても、世界は決しておれたちに優しくしてくれないってことだ。人間ってのはいつだって夢を見る。辛いことがあると、次こそはいいことがあるはず。誰かが優しくしてくれるはずってな。だがそんなことはない。コード07は人が人である証しだ。だがそれが何だってんだ。診断書はおまえの名前でもなければ、人生における免罪符でもない。親が蒸発して借金を押しつけられても、うつ病になっても、大切な人が死んでしまっても、このクソみたいな世界はクソみたいに回り続ける。そういうやるせなさのなかで、おれはずっともがいてきた。おまえもそうだったはずだ」


 いままで前を向いていたトオルが、初めてリサのほうを向いた。悲しげな瞳に火が灯る瞬間を彼女は見た。


「本当にこのままでいいのか?」

「どういう意味?」

「このまま記憶を消されてボトム送りになっていいのかって訊いてんだ」

「そりゃあ、よくはないに決まってるでしょ。でも、どうしようもない」

「ひとつだけ方法がある」


 補助コンにファイルが送られてくる。百人を優に超える数のパーソナルリンクIDとパスワードが記載されたリストだった。


「パーティに参加してる連中のリストだ。そいつを上手く使えば、おまえは晴れて自由の身になれる」

「それってつまり……」

「あいつら全員の脳を焼き切るんだよ。正確には、処理しきれないほどの情報を一気に送りこんで、補助コンと脳を繋いでるインターフェースをオーバーヒートさせるんだ」

「そんなのできっこない」


 百数十人の命を一気に奪うだなんて、いくら何でも常軌を逸している。それにリサはクラッカーではない。仕組みも知らないまま補助コンを頭のなかに組みこんで、ネットで買い物をしたり、精神安定パッチの副作用を軽減する方法をせっせと検索したりしているただの素人だ。他人の脳を焼き切るなどという芸当ができるとも思えない。


「ルートはおれが繋いでやる。おまえはただ、ありったけの感情を注ぎこむだけでいい」

「感情を注ぎこむって、どうやって?」

「常に考え続けろ。おまえがいつも心の奥に隠しているもの、そいつを一気に発散させる感じだ。喜び、悲しみ、怒り、憎しみ、苦しみ、虚しさでもいい。とにかくおまえのすべてをあいつらにぶつけてみろ」トオルはリサとパーティの参加者の補助コンを接続した。「ずっと考えていた。世界がおれたちに優しくないなら、おれたちが世界に優しくする義理もないはずだってな。おれはこの世界に決して消えない傷跡を残したい。こんなゴミみたいな仕事に甘んじてる場合じゃないんだ」

「だから私を利用してあいつらを消そうっての」

「おれは使えるものはなんでも使う。だからおまえもおれを使え。残念ながらおれの心の中身ではあいつら全員を焼き殺すことができそうにない。だがコード07を発動しているおまえなら可能なはずだ。これはおれにとってもおまえにとってもまたとないチャンスなんだ。どうだ、やるか?」


 新鮮な響きだった。母が蒸発してからいままで、リサは一度たりとも選択の余地を与えられなかった。言われるがまま働かされ、身体をいじらされ、搾取され、そして使い捨てられようとしていた。だが、目の前の男は初めて選択する自由をくれた。少なくともそこに上下関係はなく、トオルは対等な相手としてリサに取引を持ちかけてきたのだ。あとは、リサが乗るか乗らないか、それだけだった。


「やるわ」リサはトオルの目を見て言った。「あいつら全員殺して、自由になってやる」

「取引成立だな。こっちはいつでもOKだ。好きなタイミングで始めていいぞ」


 リサは大きく息を吸った。これから大勢の人間を殺すのだと思うと震えが止まらなかった。いまは罪について考えてはいけない。むしろ、それだけの人間を殺せるほどの不幸に耐えてきた自分を誇るのだ。この心の奥底にある虚しさこそ、私が私である理由なのだと声を大にして叫ぶのだ。


 止めていた息をゆっくりと吐いて、リサは最初の言葉を選んだ。


                    〈了〉

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