線香花火
「終わった……!」
塵ひとつない床に寝転んだ駒子は、大の字になって目を閉じた。
廃屋寸前の小さな平屋の掃除をはじめて一週間。寝る間も惜しんで掃きまくり、磨きに磨きまくった。その甲斐あって居心地のいい空間に仕上がり、満足である。
居間と床の間、客間に台所という簡素な間取りで広くはないが、ささやかな縁側と中庭、井戸のある裏庭がある。さらに高い門塀に囲まれているため、外からの視線を気にしなくてもいい。
最高の環境なのだが、もったいないことに実は賀瀬の物置小屋である。
駒子がここを掃除することになったのは、こんないきさつからだ。
破天荒な結末となったお見合いの翌日、駒子は賀瀬に雇われるかたちとなった。
立派な洋館の邸宅で暮らす賀瀬は、駒子に一部屋を用意していたらしい。賀瀬の冒険に付き添うかたわら女中も兼ねるつもりでいた駒子は、居候という名の住み込みをありがたく了承した。
しかし、あろうことか賀瀬は「女中さんはもういるよ?」と言ったのだ。
もちろん、そんなことは駒子の想定内。いないほうがおかしい。
「わかっています。なので、ぜひともその方のお手伝いをさせていただきます」
「それはいけない。マサさんの仕事を奪うことになってしまうからね」
「え」
「マサさんに僕が叱られるから、君にはなにもしないでいてもらいたいな」
駒子は心底困ってしまった。
「じゃあ、私はいったいなにをすれば……?」
「僕の行くところに付き添ってもらうけれど?」
「そうですけど、常にというわけではないですよね?」
「それはそうだね」
「その合間に、女中さんのお手伝いなどをするつもりだったんですけど……」
「必要ないよ」
ええええ……どうしましょう。
買い物でも勉強でも、なんでもしたいことをすればいいと賀瀬は笑う。戸惑う駒子は頭を抱えそうになってしまった。貧乏性と呼ぶべきか、そんなふうに過ごしたことがないからだ。
正直、勉強は好ましい。金銭的に女学校を辞めてしまったので、なにかを学ぶことに憧れはある。とはいえそれはそれ、これはこれだ。
「女中でもないのに居候させていただくのは心苦しいです。お給金までいただいて好きなことをするだなんて、バチが当たってしまいます。それに――」
「それに?」
遅かれ早かれ、賀瀬宅にいる謎の眼鏡婦人は社交の噂話になるだろう。女中であれば名乗れるしそう振る舞えるのだが、違うとなれば難しい。
そもそも賀瀬は、自分をどのような立場として紹介するつもりなのだろうか?
そんな駒子の懸念を、賀瀬はさらりと受け流す。
「遠縁のいとこだと紹介するさ」
「似てませんよ?」
「そうかな。きりりとした涼し気な目など、なかなかどうして似ているかもしれない」
賀瀬が冗談めかして顔を近づける。それにも動じず、駒子は半眼になった。
「納得いきません」
賀瀬が楽しげに声を上げて笑う。そんな賀瀬が珍しいらしく、辻伊がびっくりしたように一瞬振り返った。
「遠縁だもの。多少似ていなくてもみんな納得するさ」
そうだろうか? 不安が増しそうになるものの、遠縁のいとことして振る舞うこともお給金に含まれているのであれば承諾せざるをえない。
賀瀬の延命を賭けた遊戯に付き合うと決めたのは、誰あろう自分である。これからたくさんの派手な交流の中に投げ込まれてしまうのだから、こんなことで怖気づいている場合ではないのだ。
そう頭ではわかっているのだが。
「ひとまず、私になにかお仕事をくださいませんか? このままでは落ち着きません」
「再来週には夜会があるから、君と赴くつもりでいるよ」
「わかりました。けれど、その前になんでもいいので私にできそうなお役目をください。それをこなしながら自分のしたいことを見つけます」
「僕の行き先に一緒に行ってくれること以外、なにもせずぼんやりしているだけでいいのに」
「そんなの、三日もしたら飽きてしまいます!」
切羽詰まったような駒子の必死の形相を見て、賀瀬は笑みを堪えた。「そうまで言うならしかたがない」としばし思案して提案したのが、自身の所有する物置小屋の掃除であった。
住宅街の奥にひっそりと建つそこに立ち寄るや、駒子はひと目で気に入った。
いったんここに住み込みながら掃除をしてもいいかと訊ねると、賀瀬はあまりに想定外な発言を面白がり、快く承諾してくれたのだった。
そんなやりとりから、一週間。
仕事のたてこんでいる賀瀬から離れ、駒子は毎夜のごとく居間に布団を敷いて眠った。目が覚めれば商店に買い物に行って手料理を食べ、掃除をしまくって銭湯に通い、また眠るという日々を過ごしていた。
いっそこのままここで暮らしたいくらいだが、さすがにそれは許されないだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、きれいに整った光景を見渡してみる。
物置小屋とはいってもたいして物はなかった。その代わり、どこもかしこも埃まみれでとにかく汚れていた。
乱雑に積み重なっていた数少ない賀瀬の物たちは、すべて茶箱や
入っていたのは塩でも砂糖でもなく、線香花火の束であった。
花火なんて、もう何年も見ていない。最後に見たのはいつだろう? ああ、思い出した。まだばあやが生きていたときに、一緒にこっそりとしたのが最後かもしれない。
マッチなら台所にある。一本くらいなら火をつけてみてもいいのではないか。
あとで賀瀬に打ち明けて、買い直したっていいのだ。
「……でも、なにか大事な思い出の花火かも知れない」
そんな大事なものが台所に放置されるだろうか? たぶんされない……などと悩んですでに数日。台所に立った駒子は線香花火の入った木箱を両手に持って、苦渋の面持ちになった。
どうしよう。線香花火が見たい。無性に見たい。
「……どこもかしこもきれいにしたんだもの。こんなにたくさんあるのだし、私へのご褒美に一本だけちょうだいしましょう」
ふふふ。なんだかとっても悪い人になった気分だ。
不良侯爵と知り合ったせいで、自分まで不良になっているのかもしれない。由々しき事態だが妙にワクワクもした。線香花火一本でこんな高揚感なのだから、ずいぶん安上がりな不良娘である。
空はもう暗くなりかけている。藍色の夕闇を、カラスの影が横切っていく。
駒子は木箱とマッチ、ろうそくと灰皿を縁側に置いた。それから水をはった小桶を持って中庭におり、ろうそくに火をつける。
木箱を開け、一本だけ拝借する。大事な一本なので、緊張気味にろうそくに寄せた。ところが、どうやら湿気っているらしい。一瞬火がついただけで消えてしまった。
「まさか、全部湿気ってる?」
試しにもう一本、指でつまんだ。火を付けるとやはり湿気っている。あと一本だけと持ったものも駄目で、駒子はがっくりとうなだれた――そのとき。
「駒子さん、どうしたの」
縁側に座って肩を落としている不良娘に、賀瀬が声をかけたのだった。駒子は驚き、飛び上がる。仕事がようやく落ち着いたので立ち寄ったとのことだ。線香花火に夢中すぎて、物音にも気配にもまったく気がつかなかった。
「しかしずいぶん見違えたね。すごくきれいだ。さすがだよ」
居間を見まわす賀瀬に、駒子はそろそろと開いている木箱を差し出した。
「……ありがとうございます。それでその……すみません、馨さん。台所でこれを見つけて我慢できず、三本だけ火をつけてしまいました」
線香花火の束を見た賀瀬は、すぐに思い当たったように「湿気ってなかったかい?」と笑った。
「はい。というか、湿気っていることご存知だったんですね」
「これを買ったのはずいぶん前だもの。よく見つけたね」
「台所にありました」
「そう?」
「ご自分で置いたのではないのですか」
「酔っていたから覚えていないな」
そう言って、賀瀬は木箱を受け取った。
「実はね、ここは僕の物置小屋だけど、秘密の隠れ家でもある」
「え?」
「もとは母方の叔母が暮らしていた家なんだ。叔母は贅沢を嫌い自由を愛した。生涯独身を貫いて、ある日突然荷物のすべてを処分して
少年時代、そんな叔母を好んでいた賀瀬は、いまでも心底疲れたときにだけ立ち寄るのだと話す。縁側に座り、ときには線香花火を眺めたり、たばこを一本だけ吸って邸宅に帰るのだそうだ。
誰も知らない秘密の隠れ家は、賀瀬の大事な癒やしの場なのだった。
「叔母は僕の憧れだった。おしゃれでかっこよくて、自由な人で物知りでね。こんなにきれいに掃除をしてくれて、叔母が暮らしていたころを思い出すよ。ありがとう、駒子さん」
「いえ……」
駒子はふと思う。
「そんな大切な場所、私に教えてくださってよかったんですか」
賀瀬は目を細め、もちろんと言って微笑む。
「君は、ちょっと叔母に似てる気がする」
「え」
「だから、そんなことは気にしなくていいよ」
木箱を持って、縁側へ行く。
「湿気っていないのがあるかもしれない。探しましょう、駒子さん」
そう言って縁側に腰を掛け、束から抜いて火をつけた。
世間を騒がす、社交界の不良侯爵。華やかな世界にいるはずの人が、湿気っているかもしれない線香花火に火をつける。
その姿が現実離れして見える。一瞬、これは夢なのではないだろうかと駒子はなぜか思う。
「これもだめらしい」
駒子を振り返る。
「どうしたの、駒子さん」
表向きの賀瀬ではない姿を、駒子は少しだけ垣間見た。
どんな立場や肩書きがあろうとも、賀瀬だってただの人間。いずれは命の尽きる人間なのだ。
「なんでもありません。探しましょう、馨さん」
賀瀬の隣に座り、駒子も花火に炎を灯す。やはり見事に湿気っている。
次から次へと、二人して線香花火をつまんだ。やがて最後の数本になったとき、賀瀬が言う。
「ここからは交互に選んで火をつけていこう。湿気っていない花火を見つけたほうが勝ちだ」
「いいですよ、わかりました」
「君が勝ったら、ここを君にあげるよ」
「えっ!」
賀瀬がニヤッとする。
「いや、勝たなくたって君にあげよう。ここで暮らしたいって顔、ずっとしていたからね」
「まさか!」
「いいや」
「本当にしてましたか?」
「やんわりとね」
賀瀬が笑う。
「僕にはそう見えたよ。でもいいさ。君が暮らしてくれるなら、きっと叔母も喜ぶ」
「私の考えが筒抜けのようで複雑ですが、嬉しいです。では……馨さんが勝ったらどうしましょう?」
「そうだな……変身してもらおうかな」
「変身?」
賀瀬は意味深な笑みを向けるだけで、口をつぐんでしまった。なにをどう変身すればいいのかわからないので、意地でも勝つしかないように思う。まあ、運まかせではあるのだが。
最後に二本が残る。先に駒子が選んで火を付けた。案の定、湿気っている。次に、賀瀬がろうそくに花火を近づける。ちりちりと炎が一瞬またたき、二人は息をのんで見守った――のだが。
「だめだね。いっそ全滅で気持ちがいい」
苦笑した賀瀬が桶に投げようとした矢先。
「待ってください、馨さん!」
まだ花火の先端にほんのりと赤みが残っているのを、駒子は見逃さなかった。
「う、動かないで! そのまま、そのままで動かないでください!」
賀瀬は花火を持ったまま、微動だにしない。と、やがてじりじりと弾けはじめ、ぱちん、と小さな花が散った。
「や、やった! 湿気っていないのがありました!」
賀瀬の手にする線香花火が、ぱちんぱちんと小さな火花を放つ。勝負も忘れて駒子は喜び、久しぶりの花火に手を叩く。動きを止めて息をも止める賀瀬の瞳もきらめいて、二人はたった一本だけ花を咲かせてくれた花火に見入った。
それは、ほんの一瞬で終わった。けれど、顔を見合わせた二人は転がりそうな勢いで笑った。
「残ってたわ、ありましたね!」
「ああ、あったね!」
「私、久しぶりに花火を見ました! ああ、よかった! 本当によかったです!」
「僕もだ。いますごく楽しい。本当に楽しいよ!」
笑い声が夜空にこだまする。こうなると、なんだか満月を見上げるだけでもう楽しい。
勝負は賀瀬の勝ちということで、駒子は謎の変身をするはめになった。それを差し引いたとしても、自分だけの小さなお城を手に入れることができたのだ。まるで、これまでの不運がいっきに手のひらを返して、駒子に向かってきているかのようではないか。
賀瀬はしばらく縁側にいて、ゆっくりとたばこを味わってから帰っていった。
賀瀬を見送ってから、花火の後始末をする。そのときにふと板張りの縁側の隙間に、月明かりにきらめく鱗をいくつか見つけた。
それは、賀瀬の不可思議な持病の痕跡――延命の証拠である。
「よかった。こんなことでも馨さんが楽しめて、本当によかった」
微笑んだ駒子はひとりごち、月を仰ぎ見る。
それにしても変身とはなにかしらと思いつつ、まあなんでもいいかと縁側を閉めた。
([線香花火]おしまい)
不良侯爵と私 羽倉せい @hanekura_s
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。不良侯爵と私の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます