終わりに「希望もなく、絶望もなく」
何度も引用して飽き飽きしているかもしれませんが、村上春樹『職業としての小説家』(新潮社)には次のように書かれています。
『小説家というのは、芸術家である前に、自由人であるべきです。好きなことを、好きなときに、好きなようにやること、それが僕にとっての自由人の定義です』(p.154)
『アイザック・ディネーセンは「私は希望もなく、絶望もなく、毎日ちょっとずつ書きます」と言っています』(p.155)
小説を書いている時、あなたは高陽してますか? 絶望していますか? 陰鬱としていますか? ドキドキしていますか?
どのような感情を抱いていても、あなたが『自由』である限り、それはあなたにとって良い営みかと思います。
私はアイザック・ディネーセンの言う、「希望もなく、絶望もなく、毎日ちょっとずつ書きます」という言葉がしっくりときます。
私はうつ病に悩まされているため、毎日、自分のコンディションや精神状態に翻弄されています。だからこそ、希望や絶望を無視して、ただ書きたいものをちょっとずつ書くようにしています。
それは、小説の形を取っていなくとも、エッセイやプロット、あるいは読書のまとめという形で表出します。
創作論というと、何か正しさがあって、それに従うべきという風に捉えがちですが、そうではないと思います。世間一般で論じられている創作論は、売れるため、読者を喜ばせるため、あくまでも創作物を商売するためのものであり、創作者自身を自由にしたり、幸福にしたりするためのものではないというのが、私の持論です。
(もちろん、売れること読まれることが何よりも大事な人にとって、創作論は大いに役に立つはずです)
何故なら、小説を書く上での原動力は、何かを書きたい、何かを表現したい、何を伝えたいという、人間個人の欲望の発露から来ていると考えるからです。
評価されたい、読んでもらいたい、感想が欲しいといった感情は二次的な産物であり、その前に自由な心持ちで創作したいという感情があるはずです。
その自由な心持ちこそが、想像力・発想力の源となり、新しい創作物を生む可能性なり得るのだと思います。
それを上手く人に伝えるための技巧が、創作論であり、創作論が本質ではないと私は考えています。
技巧はたくさんの小説を読んだり、創作論の本を読んだり、知識を蓄えるための学術書を読むことで培えるものです。
しかし、自由な心持ちを忘れてしまえば、それも意味を成さなくなります。
私は、それを忘れずに創作に打ち込みたいと思います。
ここまで書いてきた様々な創作に対する思考は、創作の励みとするエッセンスと捉えてもらえればと思います。そのエッセンスが、誰かの創作物をよりよいものにするのであれば、これを書いた意味もあるというものです。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
叶うことなら、誰かの創作意欲をかき立て、創作技巧を高めるものになれば幸いです。同時に、誰かの縛られた創作に対する心を解き放つきっかけになれば、私は幸せです。
バナナの皮で滑ったことはあるか? 中今透 @tooru_nakaima
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