初ステージはリンゴ箱
野森ちえこ
原点と目標
記憶には残っていなかったが、証拠写真が残っている。ついでに動画も残っている。
二歳七か月。せまいリンゴ箱の上、おもちゃのマイクをにぎりしめて、おしりフリフリ、ノリノリである。
スマホのなかで当時人気だったアニメの主題歌を熱唱している幼い自分を見て、結希はすこし笑った。
結希が女優を目指す直接のきっかけとなったのは中学生のときに観た舞台だった。しかし、もしかしたら本人が自覚するよりずっとまえから、その心はステージに向かっていたのかもしれない。
だからというわけでもないが、自分の現在地や目的地がわからなくなったとき、結希はいつからかこのリンゴ箱のステージを見るようになっていた。
動画の再生がおわると、しんと静寂が落ちる。あがっていた口角がぎこちなくさがった。
防音がしっかりしているこのマンションの部屋は、どこからも物音ひとつ聞こえてこない。
いつまでたっても結希はこの静寂に慣れることができなかった。
まるで『ここはおまえの居場所じゃない』といわれているような気がして落ちつかないのだ。
スマホをにぎりしめたまま、ごろんとソファーに寝転がる。
女優としては順調だ。映画にドラマに舞台。ほんとうに怖いくらい、順調すぎるほど順調にステップアップしている。
しかしプライベートでは、まるでそれと反比例するかのように災難がつづいていた。
まず、高校生のころからつきあっていた彼に新しい彼女ができた。
ありていにいえば、恋人にフラれた。
彼が仕事や家のことで弱っていたとき、ほとんどそばにいられなかった結希には彼を責めることなどできるはずもなく。
謝る彼をひきとめることもできず、ただおとなしく身をひくしかなかった。
父親が事故にあったのは、その翌日だった。
失恋に落ちこんでいるひまもなかった。
さいわい命に別状はなかったけれど、打ち身と骨折で半月ほど入院。ようやく退院したかと思ったら、今度は母親にガンがみつかった。
来月、手術をひかえている。
毎日分刻みのスケジュールで、まる一日のオフなんて、もう半年以上とれていない。
今の結希は、家族や大切な人になにかあってもそばについていることさえできないのだ。
それを承知でえらんだ道ではあるけれど、ときどきやりきれない気持ちになる。
指も耳も目もさみしくて、結希は無意識のうちにかつて所属していた小劇団のSNSをひらいていた。
最新の投稿には劇場まえ広場で笑っているメンバーたちの写真。結希も何度も足を運んだいつもの劇場だ。
じわりとにじんでいく視界に、結希はいきおいよく
——ああ、やだな。ダメだ。弱ってる。
こぼれ落ちるため息と共にぐりぐりとおでこを膝に押しあてた。
やめたいのか。
戻りたいのか。
そう問われたなら、答えはノーだ。
もっとおおきな舞台で。
もっと広い世界で。
いろんな人と、たくさんの人と、表現をとおして触れあいたい。
誰かの夢を、誰かのしあわせを、全力で応援できる表現者でいたい。
友だちも、かつての仲間たちも、別れた彼氏だって、みんなが結希の背中を押し応援してくれた。
最初は反対していた両親も、今では誰よりも応援してくれている。
だけど結希は超人ではないし天才でもない、ただの人間だから、疲れて弱ってしまうことだってある。
だから。
結希はふたたびスマホを手にとると、迷わずある番号を呼びだした。
二十四時を過ぎているというのにワンコールでつながる。
『はい』
「ごめん、ミキさん。おなかすいた」
『そろそろくると思ってました』
そういった声は笑っている。さっき別れたばかりのマネージャーである。
『二十分待ってください』
優等生気質がしみついている結希は、むかしから人にたよるのが苦手だった。
この、生き馬の目を抜くような世界ではなおさらだ。
そうして積みかさなっていく疲労とストレスに押しつぶされそうになっていたとき、人にたよることの大切さを教えてくれたのが、マネージャーである
グチりなさい。甘えなさい。弱音上等。ただし、こぼす相手は厳選しなさい。
助けてといいにくいなら合言葉をきめましょうと、SOSコールは『おなかすいた』にきまった。たいした理由はない。強いていうならノリである。
三城がマネージャーでなければ、結希はとっくにつぶれていたかもしれない。
ちなみに言葉どおりの意味のときは、おなかペコペコとか、ごはんたべたい、というようになった。
今はまだ、結希がたよれる相手は三城しかいない。しかしその三城には芸能界で長く生きていきたいなら、信用のおける友だちを業界内に三人つくれといわれている。
この世界には、外の人間に話せないことが多々あるから。
そしてたよれる相手がひとりしかいないと、そのひとりが身動きとれない場合そこで詰んでしまうから。
友だち三人。結希にとってはなかなかの難題である。ひとり、なんとなくフィーリングがあう女優と、今度ごはんに行こうと約束はしているけれど。
三城を待つあいだ、もう一度リンゴ箱のステージ動画を再生する。
公式の記録にはけっして残らない。だけどやはり結希にとっての初ステージはこのリンゴ箱なのだと思う。
おしりフリフリ、ノリノリの二歳七か月。
歌いたいから歌う。踊りたいから踊る。
シンプルなエネルギーが爆発している。
表現者として必要な、すべてのものがここに凝縮されているような気がする。
——大丈夫。大丈夫。
お父さんのリハビリは順調だというし、お母さんの手術も絶対うまくいく。
大丈夫。
女優で、娘で、ひとりの人間で。すべての自分を大切にしたいと思うのは贅沢なのかもしれない。
それでも結希はあきらめたくないと思う。仕事も家族も自分も、みんな大切だから欲張りでいたいと思う。
心細いと泣きつける人がもうすぐきてくれる。
大丈夫。絶対、大丈夫。
負けてたまるか。
リンゴ箱の上で熱唱している幼い自分を見て、結希はまたすこし笑って、それからすこし泣いた。
(了)
初ステージはリンゴ箱 野森ちえこ @nono_chie
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