アンコールブレンド・ダイアリー

和立 初月

第1話

「ありがとうございました」

 二人は深々と頭を下げて、元マスター……バリスタを見送った。

 彼は、一度だけ二人の方を振り向いて、にこやかに手を振りながら帰っていく。

「さて、と。それじゃ片づけてくるわね」

 時間的にも店内に客はおらず、もう2時間もすれば閉店という頃。

 ブランは一足先に店内へ戻り食器を片付けようと、クロスを手に取った。すると、先ほどまでバリスタが座っていた席に一通の茶封筒が置かれていた。

「これは……バリスタの忘れ物かしら?」

 封筒には何も書いておらず、口も糊付けせずに開いたまま。その様子に、外の掃除から戻って来たルヴァンも怪訝そうな表情でまじまじと見つめていた。

「見てみるか」

「でも……勝手に見るのは……」

「だからと言って、見なかったことにして処分するわけにもいかないだろう。何かあれば、私が責任を持つよ」

 ルヴァンはそう言って、ブランから茶封筒を受け取った。今もなお心配そうに見つめるブランを横目に見ながら、茶封筒の中身をテーブルの上に広げると、中には、一冊の分厚いノートと一枚の便箋が入っていた。

 セピア色のノートは、元々真っ白なノートが時代を重ねて年季を重ねたことを思わせるもので、表紙には、太字のマジックで、「喫茶バール」と書かれていた。そして、右下にそっと添えるように、とある日付が書かれていた。

「これは……バリスタの日記……か……?」

「ルヴァン! これ見て!」

 ブランが驚いた様子で手渡してきた、その便箋にはこう書かれていた。 

 今日はとても良い一時を過ごさせてもらった。改めて礼を言わせて欲しい。ありがとう。

 君達がこの店を継ぎたいと言った時、正直とても驚いた。私は元々この店を誰かに譲るつもりも、継いでもらう気も毛頭なかったからね。

 私にとってこの10年間、色んな事があった。何事もそうだが、最初から上手くいくことなんてない。

 この店をオープンした当時は、目の前のことで手一杯になって、とにかく失敗ばかりだった。「趣味で始めたから」という建前があれば、たとえ惰性で続けることになったとしても、それはそれで良い。そんな自暴自棄になったこともあった。

 ただ、ここで生まれた色々な出会いが、私を変えてくれた。この店に染み付いた思い出が、この店でお客さんが「美味しい」と口にしてくれるコーヒーの香りが、私の心を掴んで離してはくれなくなった。

 コーヒーにも、お客様にも真摯に向き合う。これを第一に考え始めた頃から、店は軌道に乗り始めた。不思議なものだねぇ。……いや、当然といえば当然か。

 勿論、もうこの店は君達のものだ。しかし、君達はまだ日が浅い。これからどんな困難が待ち受けているか、想像もできないだろう。最も、二人で力を合わせれば何でも乗り越えられると信じている。

 これは杞憂かも知れないが、まぁ元マスターとしてのお節介……置き土産とでも思ってくれ。

 私がこの店をオープンしてからの出来事を綴った日記だ。

 今後、問題や壁にぶち当たった時、この店の歴史が君達にとって、何かの助けになってくれるかも知れない。

 最後に。

 まるで今生の別れのような文章になってしまったが、また寄らせてもらうよ。

 その時はまた、美味しいコーヒーとケーキでおもてなししておくれ。



 あぁ、それと。特に思い入れのある出来事には付箋を付けておいたから、気になるなら読んでみると良い。それじゃ。


 二人は、そこまで読み終えて改めてノートを広げる。

 よく見ると、端にいくつかの付箋が貼ってある。ノートからギリギリはみ出すか否かのその長さは、どこか元マスターの遊び心を感じさせた。ただ一つの付箋を除いて。

「このピンクの付箋て……」

 ブランは、付箋のついたページを開かないまま、ルヴァンの顔を覗き込んだ。ルヴァンもどうやら同じ考えに至ったようで、二人して「あの元マスターめ……」と冗談交じりに恨み節を言いながら、そのハート型の付箋のページを開いた。

 そこにはページいっぱいに「ルヴァンさん、ブランさん。おめでとう!」とさらに大きなハートで囲って書かれていた。

「ねぇ、どうせなら他の付箋のページも見てみない?」

「そうだな……少し早いけど、今日は閉店しようか」

 そういって二人は、そそくさと閉店の準備を進め、淹れたてのコーヒーと手作りのケーキを手に、付箋のつけられたページをめくるのだった。




「今日も良い天気だ」

 マスターは、外の掃除を終え店内へ。カウンターの端に置いてある小さなテレビにニュース番組を映しながら、床やテーブルを拭きあげていく。

「それでは、次のニュースです。昨日発生した強盗事件ですが、犯人は現在も逃走中です。犯行現場付近の監視カメラには、目深にフードを被り逃走する姿が捉えられています。警察は捜査態勢を強化し、本日も付近の警戒を強めるとしています。犯人は武器を所持しているとの情報ももありますので、付近の住民の方は不要不急の外出は避け、身の安全を確保してください」

 掃除の手を止めないまま、耳だけはニュースから流れる情報に傾けていた。ここからはそれほど遠くない場所で、深夜に発生した強盗事件。犯人は一人で顔は隠しているものの、その姿は防犯カメラにはしっかりと捉えられていたらしい。

 犯人はどうやら土地勘のある人物らしく、地元の人間しか知りえないような細い道を次々に渡って捜査の目をかいくぐったとの報道もあった。

「これは穏やかではないねぇ……」

 拭き掃除を終えたマスターはそんな独り言をつぶやきながら、今日使う分のコーヒー豆を麻袋からボトルへと移していく。

 自分の目で厳選した、自慢のコーヒー豆は焙煎前だというのに、すでに芳醇な香りを放っていた。

「よし、それじゃ今日も開店だ」

 窓のレースカーテンを開け、玄関の看板を「OPEN」に掛け替えて。妻のお手製のエプロンをきゅっと締めなおして。今日はどんなお客様が来店するだろうと、期待に胸を躍らせていると。

 突然、ドアが破壊されんばかりの勢いで開け放たれ、若い男がずかずかと店内に入ってきた。今もなお揺れ続けるドアベルの音が、その力強さを体現しているかのようだった。

 マスターが肩を震わせて男の方を見やると、男はひどく憔悴した様子で、額から流れる汗を拭うこともせず。

「金を寄越せ!」と語気を荒げるのだった。

 マスターは驚きのあまり、声を出すことができなかった。声だけならば、どうにかなったのかもしれない。ただ、その手に強く握られたバールが、恐怖を感じさせるには十分すぎるほどの圧を放っていた。

「しょ、少々お待ちくださいね」

 マスターの背中を冷や汗が滑り落ちる。何とか一言絞り出してから、頭の中でぐるぐると思考を巡らせる。

 まさか、例の強盗が……。

 こんなに若い子だったとは……。

 営業を開始したばかりだ……レジのお金はそんなに潤沢にあるわけじゃない。

 とりあえず、刺激しないようにしなければ。

 男は、マスターに催促するような真似はせず、ただじっとマスターの出方を伺っていた。そしてわずかな間を置いて、マスターがカウンターから蟹歩きのように、レジへ向かっていくのに合わせて、視線とバールをスライドさせていく。が、しかし。

 マスターの取った行動に、男は二度目の言葉を発することになった。

「おい、お前! どこに行く気だ! 逃げたり、警察呼んだりするなら……」

「いえいえ、滅相もございませんよ」

 マスターは声を震わせながら、壁沿いに伝って店の外へと出ていく。男はその様子をじっと見つめていた。

「よいしょっと」

 そう言って、看板に何かしら細工をしたマスターが店の中へと戻ってきた。先ほどよりも落ち着いた雰囲気で。

「さ、あなたも手伝っていただけますか。後ろのカーテンを閉めていただければ結構ですので」

 男の鋭い眼差しにも凶器にも、もう慣れたといった体で窓のカーテンを閉めにかかるマスター。

 今度は男が驚く番だった。

「てめぇ、何をしてやがる!」

「何って……今日は貸し切り営業になりましたので、外からは見えない方が良いかと思いましてね。……その窓のカーテン、お任せしても良いですか? あなたの方が近い」

 男はバールをテーブルの上に置き、いわれるがままレースカーテンと一緒に茶色いカーテンを乱暴に引いて完全に部屋を外からシャットダウンした。

 上から吊るしたランタン風の灯りがぼんやりとあたりを明るく照らす。

 マスターは、もう男に臆することなくカウンターの向こう側に戻り、一番近いカウンター席に座るように促した。

「まずは、その荷物を降ろされてはいかがです。肩の荷が降りないことには、ゆっくりとくつろぐのは難しいですよ」

「てめぇ、あんまりふざけてると」

「分かっていますとも。お金なら差し上げます。ただ、その前に一杯飲んでいきませんか」

 マスターの優しげな口調と穏やかな顔に気圧され、表情は崩さないまま男は渋々ながら席に腰を下ろした。

「コーヒーに好みはありますか?」

「知らねぇよ」

「そうですか。では」

 ぶっきらぼうに答える男をよそに、マスターはいそいそとコーヒーを入れる準備を進めていく。

「いやぁ、夏真っ盛りですねぇ。こうも暑いと、一瞬で溶けてしまいそうになりますね」

「……」

「そういえば、イタリアのデザートでアフォガードというものがあるんですよ。冷たいアイスクリームに熱いエスプレッソをかけて食べるんですが、これがまた絶品なんですよ」

「……」

「イタリアといえば、このお店『喫茶バール』っていうんですがね、『バール』ってイタリア語で『喫茶店』って意味なんですよ」

「……」

 カウンター席の向こう側では、マスターが一方的に雑談をしながら楽しそうにコーヒーを淹れている。その様子が男には到底理解できず、だんだんと苛立ちを隠せなくなってきた頃。

「お待たせいたしました。アイスコーヒーになります。ミルクとシロップはお好みでどうぞ」

 流れるような所作で、男の前に音もなく差し出されたアイスコーヒー。

「何の真似だ」

 語気を荒げつつも、バールには手を伸ばさず。強い視線で、マスターを睨みつけながら男は問うた。

 しかし、当のマスターはその視線もさらりと受け流し、にこりと笑ってから定位置へと戻っていった。

「外は、暑かったでしょう。モーニングコーヒーにはちょうど良いすっきりした飲み口なんですよ。言わずもがな、自慢の一杯です。今、フレンチトーストを準備しますので、お待ちいただいている間に嗜んでいただければ。……コーヒーがお嫌いでしたら、ミルクや紅茶等もご準備できますが」

「……好きにしろよ」

 男はもう何かを言うことも諦めたのか、半ば呆れ顔でコーヒーに口をつけた。その様子をマスターは微笑ましく見守りながら、手際よくフレンチトーストを仕上げていく。

 バターと砂糖、ミルクの甘い香りがふわりと立ち上り、皿に載せられて男の前に運ばれてくる。

「どうぞ、フレンチトーストです。……あなたのような若い方には少々物足りないかもしれませんが……ご容赦ください」

 軽く焦げ目がついたフレンチトーストは、その芳醇な香りが男の食欲を刺激したのか、何も言わずに乱暴にフォークを突き立てた。

「焦らずに、ゆっくり食べてください。

 私ではあなたのお腹は満たせないかもしれませんが、あなたがこの店を出ていくまでに、心は満たして見せましょう」

 男から見えていたかどうか。マスターは軽くウインクをして再びカウンターの向こう側へと消えていった。



 しばらくして、呼び出しのブザー音を聞きつけて、マスターがちらりと顔をのぞかせた。

「ご注文は?」

「さっきのアイスコーヒーをくれ」

「喜んで」

 言葉少なに、口を開いた男の表情がほんのわずかに緩んでいるのを見逃さず、マスターは二杯目のコーヒーを差し出した。今ならば、ほんの少しだけ心を開いてくれるだろうか。そんなことを思いながら。

「ブラックがお好きなんですか?」

 一杯目を提供した際のミルクとシロップが残っていたことから、そう推測したマスターに男は顔を上げてようやくマスターの顔をまじまじと見つめ。

「別に。ブラックでも飲めるし、ミルクやシロップを入れても飲める。二杯目はそうやって飲もうと思っただけだ」

 ぶっきらぼうにそうつぶやいた。

「それは良かった。まだまだありますので、おかわりの際はお気軽にどうぞ」

「なぁ」

 余計な詮索はすまいと、そそくさと戻ろうとしたマスターを男は初めて引き留めた。

「お前……俺が怖くないのか?」

「はて……怖いとは?」

「俺は強盗犯だぞ。大金を盗んで逃げだして、ここに来た」

「ええ」

「呑気にコーヒーやら、フレンチトーストやら出しやがって。殺される、とか考えないのか?」

「そうですね……よっこらせ」

 マスターは、テーブル席から椅子を一つ持ってきて、一席分のスペースを空けて男と向き合った。

「怖くないといえば、嘘になりますね。バールで脅された時は正直、殺される覚悟をしていました。

 しかし、あなたは殺さなかった。私のような老いぼれなど、はっきり言って凶器などなくても首を絞めるだけでも殺せたでしょう。でも、しなかった。今もそうです。ここに来る前押し入った店もそうだった。

 それにね。あなたがこの店に入ってきた時、バールを持つ手は震えていた。そこに『人を殺す』という確固たる意志があったなら、手なんて震えないと思うんです。つまり、あなたは穏便にことを進めたいと思った。だから私も穏便にことを進めようと、あなたという『お客様』をもてなしている。

 強盗犯なら、即通報しているところですが、『お客様』なら私の自慢のコーヒーをお出ししないわけにはいきませんからね」

 諭すようなその口調に、男は己の心の内を見透かされたような気まずさからカップを持ち上げ、顔の半分を強引に隠した。その仕草はマスターにとってはとても微笑ましいものに思えたのか、何も言わず立ち上がりカウンターの向こう側へとゆっくり歩いていく。

「ここからは、私の推測……いや、妄想のようなものですが。あなた、コーヒーがお好きですね? 強盗なら、懲役刑は免れない。捕まってしまえば、行き着く先は刑務所だ。

 だから、せめて最後に。おいしいコーヒーを飲みたかった」

 カップに注がれる、コーヒーの音だけが満たす店内。そのわずかな音量を遮るように、そこから音を引き継ぐように、男のすすり泣く声が響き渡った。

「……奨学金の返済で困ってた。大学卒業してから、働いた職場がブラックですぐにやめちまった。それ以降は定職につけずに、バイトを掛け持ち。でも日々の生活で手一杯。アパートも安い所に引っ越したんだ。それでも、どうにもならない」

 マスターは男の腕に引っかからないように、やや離れた位置にカップをそっと置いた。そして、先ほどまで座っていた椅子を引き寄せて、震える肩を優しく抱きながら。

「それは、大変だったろう。それこそ、コーヒー一杯飲むのも我慢しなければいけなかったろうに」

 良かった。と、マスターはそう言葉を添えてポンポンと肩を叩く。そして、その言葉の意味が分からず、泣きはらした顔を上げ不思議そうにマスターを見つめる男に、こう続けた。

「普通の店なら、即通報していてもおかしくない。……ははっ、こう言うと私の店が普通じゃないみたいだが。初めにもいった通り、私の店に来た以上はお客様だ。私の自慢のコーヒーを飲んでくれて、そんなに泣くほど喜んでくれる。……思わず、もらい泣きしてしまいそうだ」

 マスターは、初めて男から目を反らし、エプロンのポケットから取り出したハンカチで涙を拭った。ほんの少しだけ赤みの増した目の周りが、男にはとても印象的に映るのだった。

「落ち着くまで、ここにいると良い。話なら、いくらでも聞こうじゃないか。その後は……分かるね?」

「……はい……」

 そう言って、男は大粒の涙を、コーヒーカップから溢れるほどの涙を流し続けるのだった。



 男は静かにカップを置いた。マスターはグラスを拭く手を止めてその様子を注視していた。

「そろそろ行く」

「そうですか」

 ショルダーバッグを担ぎ直し、バールを手繰り寄せ立ち上がった男は何も言わずに、店の出口へと歩いていく。

 マスターは微動だにせず。男の覚悟をその場から最後まで見届けるつもりのようだった。

 男はドアノブに手をかけ、一旦手を離し。

「お世話になりました」と深々とマスターに頭を下げた。

「あなたは大切なお客様ですよ。この店を出るまでは、ね。だからそんなことを言わないでください。お礼なら、私の淹れたコーヒーを美味しく飲んでくれただけで結構ですから」

 微笑みながらそう返すと、男ははっとして何かを思い出したようにポケットをまさぐり、二つ折りの財布を取り出した。

「すみません……すっかり失念していました。お代は……」

「それは、いただけません」

「どうして……」

「そうですね……それは、出世払い……ならぬ、出所払いということにしておきましょうか。……これは失礼。少々不謹慎でしたね」

 そう言って口をつぐんだマスターを見て、男の顔から笑みがこぼれた。

「あなたに出会えて本当に良かったです。……では」

 男は軽く手を挙げてマスターに会釈をし、改めてドアノブに手をかけた。すると、

「あぁ、そういえば」と。マスターはわざとらしく何かを思い出したように男に問いかけた。

「まだあなたのお名前を聞いていませんでしたね」

「……数時間~1日もすれば、テレビで大々的に報じられると思いますが」

「なるほど……それもそうですね。では、こうしましょう。あなたのペンネームを教えてください。あなたがこのお店に来た記念の置き土産ということで。あるいは、お代の代わりということで、どうでしょう?」

 にやりとするマスターの顔に男は思い切り吹き出し、ひとしきり笑った後。

「そうですね……私のペンネームは」

 それを聞いたマスターは、「ご来店ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」と男が店を出ていくまで深々と頭を下げるのだった。

 しばらくして、通常営業に戻す為閉められたカーテンを開け、店の外の看板も「開店」に掛け替えようとマスターは店の外へと出て行った。

 日差しがより一層強く照り付ける中、その看板は太陽光に当てられてキラキラと輝いているように見えた。

「ふむ……どうやら、彼は完全に心を開いてくれたようですね」 

 すでに『開店』に掛け替わっていた看板を満足げに眺めながら、マスターは店の中へと戻っていくのだった。



  ――数年後。

 今日もいつも通りの時間に開店し、マスターは自慢のコーヒーを客に振舞っていた。

 チェーン店や有名店に比べれば、客の入りは乏しい。場所も大通りに面してはおらず、路地を一本入ったところにポツンと佇む店構えだ。

 ただ、それでもマスターは満足だった。もとより、定年後の楽しみで始めた喫茶店である。多くの客に喜んでもらうより、一期一会をモきっかけに、長い付き合いを大事にしている。

 不意に、店の裏手……業者用の出入り口をノックする音が鳴り、マスターはそそくさと洗い物を済ませて小走りにかけていった。

「今開けますね……っと、おや。バール君」

「おはようございます。本日分の豆です」

 バールと呼ばれた若い男は、両手で抱えた麻袋をそのままに、軽く頭を下げた。

「……マスター。その呼び方、やっぱりやめませんか? どうにも慣れなくて……」

 マスターに指示された場所に麻袋を置きながら、バールはマスターの方を見やる。すると、マスターは悪戯っぽい笑顔を浮かべながら、その表情だけでダメだと言っていた。

「だめですよ。君が自分で言ったんですから。あの時のことは今でもよく覚えていますとも」

 一人うんうんと頷くマスターは、麻袋の紐を解き豆の状態をチェックし始めた。

「あなたのペンネームですから。今だから話しますが、私は当時そのペンネームを聞いて、あなたが自身の罪を背負う覚悟を感じました。そうですよね? それともここのコーヒーが美味しくて、あまりにも感動して感激して、この店の名前をそのままペンネームにしてくれたのでしょうか?」

 どうでしょう? とい言いながらマスターがバールの方を振り向くと、バールはどこかバツが悪そうな顔をして、わざとらしく人差し指で頬を掻いていた。

「その……前者で合ってますよ。ただ、俺はもう罪は償いましたから! 何なら今は、コーヒー豆背負ってますから!」

「ふむ……上手いことを言うじゃないか。これは一本取られたな」

「ここは『一杯飲まされたな。コーヒーだけに』というところでは?」

「はははっ。君は本当に変わったね。……いや、変わっていないのか。……おっと。そろそろ戻らなければ。それじゃ、今後とも御贔屓に」

「こちらこそ。また来ます」

 二人は熱い握手を交わして、それぞれの道を戻る。バールは近くの駐車場へ。マスターは店内へと。



 バックヤードと店内を隔てる暖簾をくぐると、ちょうど新規の客が来店したところだった。

 どこか憔悴しきっているように見えるその男性は、力なくドアを開けてドアベルの音が申し訳なさそうにカランと空しく鳴った。

「どうぞ、こちらへ」

 マスターは、いつもと変わらぬ笑顔で、カウンターの一番手前の席に座らせ、すっとメニュー表を差し出した。

「何か……軽食をください」

 メニュー表には手も触れず、小さくそうつぶやいた男性に、マスターが「では、ホットサンドなどいかがでしょう?」と柔らかい口調で告げると、「お願いします」と短くうなずいた。

「お待たせいたしました」

 男性の目の前にそっと差し出されたホットサンド。表面がカリッと焼きあげられ、立ち上る煙が香ばしい香りとともに立ち上る。男性は、一つを手に取り、わずかに震える手で口に運ぶ。

「……おいしい」

 ほんのわずかにほころんだ男性の顔を見て、マスターは安堵しながら淹れたてのコーヒーを続けて、差し出した。

「ツナとチーズのシンプルなホットサンドです。

 コーヒーはお任せ下さい! と胸を張れるのですが、料理に関しては、正直な所そこまで自信がないのですよ」

 そう言ってマスターは、カウンター脇に置いてある店のメニュー表を広げる。

 A4サイズ見開きのメニュー表には、その7割ほどが、コーヒーのメニューで埋まっており、商品名の下にこだわりのポイントや豆の産地、味の特徴がつらつらと書かれている。右端に写真とともに値段が書かれており、おすすめのメニューには湯気を模した吹き出しで「オススメ」と書かれていた。

 対して、軽食のメニューにはメニュー名と価格のみが表記されているのみで、ホットサンドやサンドイッチ、ベーコンエッグ、スクランブルエッグ、フレンチトーストなどシンプルな料理ばかりが並んでいた。

「もう少し凝ったメニューを、と開店当時は頑張ってみたのですが……。やはり、妻にはかないませんねぇ」

 マスターが訥々と語っていると、男性からわずかに声が漏れていた。小声で何かを伝えようとしていたらしい。

「……これは失礼。つい、話しすぎてしまいました」

「いえ……あの……私、コーヒーは注文していないのですが」

 どこか申し訳なさそうに、そう声を漏らす男性は、もしかするとマスターの話を聞きながら、不意に差し出されたコーヒーを無下にするのをためらったのかもしれない。

 マスターは「あぁ」とポンと手を打ってから。

「実は、今の時間帯は軽食を注文されたお客様には最初の一杯だけ、コーヒーをサービスしているんですよ」

 軽くウインクなどして見せながら、マスターは微笑むのだった。



「開店当初は、何もかもが手探りでした。定年退職後に始める趣味なんだから、そんなに気を張らなくても言いと、周りからさんざん言われましたよ。でも、どうせ店を開くなら、一人でも多くのお客様に楽しい時間を過ごしていただきたいと思いまして。

 大手のチェーン店や、有名な喫茶店ではできないような体験をしてほしい一心で、食材にこだわり試作を重ね、何度も何度も失敗しながらいくつかのメニューを完成させました。……当時はパスタやハンバーガーなんかも置いてました。

 ただ、ある時家に帰って妻の手料理を食べて、気づいたんですよ。

 その日の夕飯は店でも出している同じ料理だったのですが、『この味には到底敵わない。これ以上のものを作れなければ、店でお客様に満足できるものを提供できるわけがない』とね。

 そこから思い切って、凝った料理はメニューから外すことにしたんです。その分、コーヒーのメニューを充実させて、道具も拘って」

 懐かしいなぁ、とメニュー表をぱたんと閉じてマスターは天を仰いだ。

「……このホットサンド、おいしいです」

 ぽつりとつぶやいた男性に、我に返ったマスターは「それは、記念すべき第一号のメニューなので、創業以来残しているんですよ」とどこか誇らしげに言った。

 男性はついに最後の一口を口に入れ、カップに残った最後の一口も堪能してから、今度はしっかりとした足取りで、立ち上がった。

「マスター、ありがとうございました。色々と悩んでいたんですが、この店に来て、マスターの話を聞いていたら、少しだけ気が楽になりました」

「そうですか。素敵な時間を過ごせたのなら、何よりです」

 手際よく、レジを打ちお釣りを返す際、マスターは土産とばかりにそっと一言。

「今度来られるときは、あなたの話を聞かせてくださいね」

 と、添えるのだった。



 時間は午後3時。街も人も緩やかに流れる時間帯。勿論、喫茶バールはどんな時間帯であろうとも一度足を踏み入れれば、その緩慢な空気にたちまち脱力してしまうだろう。

 客の入りも少し落ち着いて、食器を下げたりテーブルをいつもより少しだけ丁寧に拭いたりして、ゆるく流れる時間に身を任せていた。そんな折。

 ドアベルが軽快な音を立てて、来訪者が来たことを知らせる。肩まで伸びるストレートな黒髪が印象的な女性が一人。

「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

「ありがとうございます」

 彼女は、カウンターの端から一つ開けた席へと座った。所作の一つ一つが、洗練されていて気品の高さを窺わせた。

「こちら、メニューになります」

「おすすめのコーヒーをいただけますか?」

 二人の言葉はほぼ同時だった。マスターはメニュー表をすぐに引っ込めて、「かしこまりました」とだけ言い残し、すぐさまコーヒーの準備に取り掛かった。

 彼女は、ショルダーバッグから文庫本を取り出すと栞が挟んであるページを開いて、黙々と読み始めた。

 その様子はまるで一枚の絵画のようで、他の数名の客からの視線までも釘付けにしていた。静かなジャズが流れる店内にあっても、ページをめくる音がとても綺麗な音色のように、店内に溶け込んでいた。

「お待たせいたしました。こちら、本日のブレンドコーヒーです。……素敵な栞ですね」

 マスターは、彼女の読書を邪魔しないようにとカウンターのテーブルに置かれた栞を避けようとして、白地にバラの押し花が施されたその仕様に目を奪われていた。彼女は、すぐさま本を閉じ栞と共に脇によけ。

「ありがとうございます。彼からもらった大切なものなんですよ。世界に一つだけの私の宝物です」

「そうですか……確か、バラの花言葉は……情熱でしたかね」

「ええ。とても素敵な彼だったんです。……ついこの間までは」

「……ついこの間までは、というと?」

 マスターは彼女の最後の言葉が引っ掛かり、つい続く言葉を返してしまった。

「すみません……でしゃばるような真似を」

「良いんです。……このコーヒー、美味しい。フルーティーな香りがします」

 彼女は、マスターのばつ悪そうな顔を見て、コーヒーの賛辞に変えて気にしていない旨を伝えるとともに、話題を切り替えた。

「コーヒーってもっと、こう……コーヒー然とした香りしかないものだと思ってました」

「豆の種類や産地は色々ありますからね。私もまだまだ勉強中ではありますが、最後の一口まで味わっていただけますと幸いです。どうぞ、ゆっくりと読書を楽しみながら、そのお供にしてやってください」

 それでは、とそそくさとカウンターの向こう側へと消えていこうとするマスターを彼女の声が引き留めた。マスターにぎりぎり聞こえるかどうか、というほどの小声だった為、踵を返し彼女の元へ確認しに行くと。

「あの……もしよければ、うちの店のケーキ食べてみませんか?」



「これは……美味しいです。表面はこんがりと焼けていて、その下の生地は滑らかに。レモンの酸味がアクセントになって、下のクッキー生地のサクサクとした食感も癖になる。素晴らしい一品ですね」

 他の客がすべて帰った後、彼女とマスターだけの店内で。マスターは彼女のチーズケーキに舌鼓を打っていた。

「素敵な言葉をありがとうございます。私、この店でパティシエ兼店長をしておりまして。よかったら今度、買いに来てください」

 店の名前と、自身の名前がプリントされた名刺を恭しく受け取ったマスターは、代わりにこの店の名刺を手渡した。

「では、私からも。あくまでも個人の趣味でやっているものでして。営業日が限られておりますので、こちらを参考にしてご来店いただければ幸いです」

「ご丁寧にありがとうございます……あ、そろそろお暇しますね」

 彼女は袖を捲って、時間を確認すると手早く帰り支度を始めた。

「店の雰囲気がとても素敵で、つい長居してしまいました」

「いえいえ。こちらこそ、本を読みながらゆっくり過ごされるところを邪魔してしまったようで申し訳ないです」

「それはまた今度。今度は、それを理由にしてお邪魔させていただきます」

 ドアノブに手をかける前に彼女は振り返り。深く一礼して、店を出ていくのだった。

 カウンターに残された、バラの栞を残して。



「いらっしゃいませ……おや、あなたは」

 マスターが入り口を見やると、先日覇気のない顔で入店した男性の姿があった。今日は、以前とは打って変わって、しわ一つないジャケットにチノパンというカジュアルフォーマルな出で立ちにふさわしく、顔に英気がみなぎっているようだった。

「先日はどうも……」

「私は何もしていませんよ。……ささ、お好きな席へどうぞ」

 男性は軽く会釈を返してから以前と同じ、カウンターの一番端の席へ。腰かけたのとほぼ同じタイミングで「後ろから失礼します」とそっと差し出されるメニュー表を受け取りながら、「あ、マスター」と、思い出したように、バッグの中から紙袋を取り出した。

「この前のお礼です」

 ずいっと押し出すように渡されたその紙袋を見て、マスターは一瞬だけ迷ってから。

「ご丁寧にどうも。実は、私もここのお菓子やケーキ、大好きなんです」

 と一言返し、店の奥へと消えていった。マスターはすぐに店内へと戻ってくると、男性の注文を受け付け、自慢のコーヒーの準備に取り掛かった。

 こぽこぽと音を立てるサイフォンの中で、コーヒーが仕上がっていく。ふわりと舞い上がる芳醇な香りが、心を落ち着かせ、同時に心を満たしていく。

 男性はそんなマスターの所作をつぶさに観察していた。マスターはその視線に気づきながら、手際よくコーヒーを仕上げて、男性のもとへ。

「お待たせいたしました。……コーヒーはお好きなのですか?」

「えぇ。元々はそんなに好きな方ではなかったんですが、同棲している彼女の影響で」

 そう言うと、コーヒーを一口。軽く口の中で揺らしてから嚥下し、余韻を楽しんで。そっとカップを置いてから深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出してから。意を決したように。

「話せば、長くなります」

「聞きましょう。幸い、もうすぐ閉店ですから」

 男性の覚悟をまっすぐに受け止める決意をしたマスターは、そそくさと店の看板を掛け替えに行くのだった。



「彼女とは共通の友人の紹介で知り合いました。元々引っ込み事案な私ですが、彼女とは初顔合わせから話が弾み、友人を交えて3人で食事をしたというのに、紹介してくれた友人を完全に蚊帳の外にしてしまうほどでした。そしてそのまま、交際に発展するまではそう時間はかかりませんでした。

 彼女はスイーツ店の店長をしているんですが、サラリーマンの私とは休日が合わないことが多く、貴重な休みが重なると決まってデートに出かけていました。私はカメラが趣味で風景を撮るのが好きで絶景スポットを見つけては、二人で撮影に。

 彼女が花好きということもあり、花畑や自然公園に出向く機会が自然と増えました。咲き乱れる花々を見ては、『綺麗』『可愛い』と子供のようにはしゃぐ彼女を私はファインダー越しに眺めて、最高の一枚を記録として、記憶として残す。至福の時間を過ごしていました。

 そうして仲を深めているうち、私から彼女に『いっそのこと同棲してみるのはどうか』という話を持ち掛けたんです。休みが中々合わず、その貴重な休みも遠出ばかりだったので、少しでも彼女の負担を減らしてあげたい……というのは建前で、実のところ彼女とは結婚も視野に入れています。私の本心を彼女が知っていたかは分かりませんが、彼女はあっさりと首を縦に振りました。お互いの両親のもとへ挨拶も済ませ、同棲を始めた頃。彼女が重苦しい胸の内を告白してきました。

 彼女が今、店長として働いている店を辞めて、他の店に移るという話を聞きました。彼女の先輩の店でパティシエの欠員が出たらしく、先輩からの頼みでうちに来てくれないか、と。最初は断ったそうなんです。自分には今の店があるから、と。しかし、今働いている店の経営状況が芳しくなく、本社から店を畳む旨を通告されたそうです。一方的な通告に、抗議するも空しく。本社の決定は覆らないまま、閉店が決定しました。

 どうすれば良いか、と私にアドバイスを求められた時。私は『ちょうど良い機会だし、せっかく先輩から声を掛けてもらっているのだから、そちらの店に移れば良い』と無神経にも言ってしまったのです。

 すると彼女は『あなたに私の何が分かるの! あの店には、将来有望な子が何人もいるの! 自分の店を持ちたい子だっているし、ここよりももっと良い店で働きたい子だっている。その子達の夢はどうなるの? 本当は今の店を続けたい! 先輩から声を掛けてもらったのも恩を感じてる。だけど……あの子達を置いて私だけ抜け駆けするような真似……』と、激昂して泣いていました。

 それ以降は、話し合いにならず毎日顔を合わせても、会話は減っていく一方で。お互いに話題にもしないようにと気遣っているから余計にこじれてしまいまして……」

「それで、あの日大喧嘩して、後悔を引きずったままうちの店に来た、と」

「はい……」

 男性は、すっかり冷めきったコーヒーに口をつける。熱さは引いても、豆の香りや味わいは少しも引いておらず、今の男性にとってはむしろ、より深くその味わいを感じるのだった。

「彼女さん、後輩の皆さんから大変慕われているんですね。とても良い人間関係を築いていらっしゃるようだ」

 マスターはうんうんと、頷いて続く言葉を探していた。カウンターに並ぶ豆のボトルをしばらく眺めてそのまま視線を男性の方へと落とす。カップの持ち手を優しくつまむその手はわずかに震えていた。

「彼女さんには、結婚後も変わらずパティシエを続けて欲しいと思っているんですね」

「それは、勿論。たとえ、結婚したとしても彼女が望む限りパティシエを続けてくれることが私にとっての夢でもありますから」

「……いいですねぇ。彼女さんは幸せ者だ。こんな素敵な男性に深く愛してもらえているなんて」

「そこまで持ち上げてもらわなくても……」

「私に言わせれば、今回のことは些細なボタンの掛け違いでしかないですよ。私も長いこと妻と連れ添ってきましたが、こんなこと何十回もありましたよ。……私だって、この店をオープンする時はそれなりに揉めたんですから」

 悪戯っぽくペロッと舌を出して笑うマスターに男性から少しだけ笑みがこぼれた。その様子にマスターは安堵のためいきを男性に悟られないようにちいさくついて、席を立った。

「カフェオレでも淹れましょうか。……少し甘めに仕上げますよ」



「さっきも言ったように、別に私は彼女の夢を壊したいわけじゃないんです。できる限り応援もしたい。ただ、それだけなんです。……それが『結婚』によって阻まれるのなら、いっそ」

「それは違いますよ」

「え……」

「あなたの気持ちは彼女にも十分に伝わっているはずです。もし、そうでなければ同棲して数日と持たないでしょう。原因はおそらく、そのあたりにあるのでしょうね」

「と、言いますと……」

「彼女が目をかけている後輩の子達は系列の店に移れるんですよね?」

「その辺りのフォローは約束されているらしいです。期日までに、退職するか、他店舗に移るか回答するようにと」

「だからあなたは、何も心配は要らないと思った」

「ええ……皆一様に、受け皿が用意されているのなら、大丈夫だろうと。仮に退職する場合でも期日まではそれなりに時間がありますし」

 マスターの問いかけに、とくに疑問も持たず、つらつらと自論を述べた男性は甘いカフェオレを一気に流し込んだ。そして、そのカップがソーサーに置かれるのを待って、マスターはぴしゃりと言い放った。

「それですよ! あなたが彼女に対して愛が深いように、彼女も後輩達に対して愛が深いのです。自分が目をかけて大切に育ててきた後輩が自分の手を離れていく寂しさがあなたに理解できますか?

 いつかは自分の手を離れて、独立する日が来るでしょう。そうでなくとも、彼女の右腕となってあらゆることを任せられる人材になるかもしれない。でも、それはその店で彼女とともに最後まで切磋琢磨できる環境があってこそなんですよ。他の店舗に移ろうが、他の店に就職しようが、その店がなくなってしまったら彼女の本来の夢は断たれてしまうんですよ。彼女の夢はパティシエを続けていくことかも知れない。

 でもそれは通過点なんですよ。彼女の最終的な夢は『自分の育てた後輩達が立派に成長して、巣立っていく様をこの目で見届ける』ことです。だからこそ、あなたにそれを理解してもらえなかったことが悔しくて、本気で怒ったのではないでしょうか」

「……」

 まっすぐに見据えるその瞳には、紛れもない怒りと真剣な思いが込められていた。男性はしばらく何も言えず、マスターから目をそらすこともできず、その言葉を自分の中でひたすら反芻していた。



 翌日。開店後間もなく店を訪れた客をマスターはいつも通りの笑顔で快く出迎えた。

「ローズさん、いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな席へ」

「ローズ……さん?」

 きょとんとする女性……ローズと呼ばれたその女性は、その呼び名にどこか落ち着かないといった風で、カウンターの左から二番目の席に腰掛けた。

「唐突に失礼しました。……前回来店していただいたときに、こちらをお忘れになっていましたので。お名前も分かりませんでしたので、この綺麗なバラにかけて『ローズさん』とお呼びしました。気分を害されたのでしたら、申し訳ありません」

 そう言って、マスターメニューの上にバラの栞を載せてローズの前に差し出した。ローズは驚いた様子で、手に取った栞を愛おしそうに両手で包み込んだ。

「ありがとうございます! ずっと探していたんです。あの日帰ったら本から栞がなくなっていて。こちらに電話をかけようと思ったんですが、お店から緊急の連絡があって、その対応に追われているうちについ忘れてしまっていて……。

 あ、名前……ローズでも大丈夫です。ちょっと気恥ずかしいですが……」

「では、他のお客様が来店されるまで、ということにしておきましょう。どうか、今後とも御贔屓に。

 それにしても、とても大切にされているのですね。無事に渡せてよかった。……おっと、今日はゆっくりとコーヒーと読書を楽しんでもらう約束でしたね。いやぁ、年寄りってのはどうしてこう物覚えが悪いのか……」

「いえいえ。とんでもないです。今日のおすすめコーヒー、ください。それとホットサンドを」

「……」

 ローズの注文を聞いて、マスターはしばらくの間無言で、ほんの少しだけ顔がにやけていた。ローズが怪訝そうに、

「どうかされました?」と尋ねるとハッと我に返ったように「おほん。かしこまりました」とわざとらしく咳払いをしてカウンターの向こう側へと消えていくのだった。



「お待たせいたしました……これはまた……」

 注文の品をトレーに載せたマスターがローズの元へ運んでくると、ローズは大きい冊子をテーブルの上に広げて、じっくりと眺めている最中だった。

 ローズが視線を落とす先、マスターが目を奪われた先にあったのは、色とりどりのバラの花。絨毯のように咲き誇る一面のバラ庭園が様々なアングルから撮影され、中には厳選したであろう一輪のバラのアップの写真も掲載されている。

「……すごいですよね、これ。彼と一緒に行ったバラ庭園で撮影した写真なんです。彼、写真が趣味でドライブがてらいろんな場所のバラを撮ったりして。私がバラを好きなのを知ってからは、こっそり私が楽しんでいる姿をバラと一緒に撮ったりしているんですよ」

 そう楽しそうに話すローズは、「どうぞ」とマスターの方へアルバムを差し向けた。

 マスターは少しだけためらい、店内を見渡して他に客が誰もいないことを確認すると「では、少しだけ失礼します」と、アルバムを手に取ると、ローズの逆隣の席に腰かけてアルバムを捲り始めた。

 そのままカウンターの端の席に座れば良いものを、わざわざ逆隣の席に座った意図が読めずローズが再び困惑していると、それを察したのか、マスターはアルバムからローズへと目線を移し、「そこは特等席ですから。私が座るわけにはいきませんよ」とウインクをしてさらにローズを困惑させるのだった。

「はぁ……」と腑に落ちない一言を吐いて気持ちを切り替えて、ローズは目の前のコーヒーとホットサンドに口をつけた。

 しばらくして。

「ありがとうございました。とても素敵なものを見せていただいて、心が洗われるような心地でした」

「いえ、マスターにそう言っていただけると、私も嬉しいです。きっと彼も喜ぶと思います」

 後半は、だんだんと力なくつぶやくように吐いたその言葉をマスターはひょいと拾い上げる。決して、ローズの心だけは、思い出だけは壊さぬようにと。

「きっと、素敵な彼氏さんなんでしょうね」

「正直、私にはもったいないくらいの素敵な人です。ただ、今ちょっと彼と揉めてまして……少し前から拗らせてしまってて……同棲中なので、顔を合わせることも多いのですが……ギクシャクしているというか」

「差支えない範囲でお話を伺っても良いですか? アドバイスといえるほど高尚なものは出来かねますが、話を聞くくらいでしたらできるかと思います。……明日には忘れているかもしれませんので、ついうっかり余計なことを話してしまっても大丈夫ですよ」

 おどけて茶目っ気たっぷりにそう付け加えると、ローズの顔がほころんで。

「ありがとうございます。……実は、今勤めている店を畳むことになったんです。それで今後のこと彼に相談したのですが……揉める形になってしまって……」

「同棲しているからなおのこと気まずいと」

「ええ……彼も私のことを思ってのことだとは思っているんですが……」

 ローズはそこまで話し終えてから、コーヒーを一口。その表情は、とりあえず吐き出すものはすべて吐き出したという風に見て取れた。

「意見を擦り合わせる……なんてのは、結婚生活や同棲をしていれば、決して避けられない問題ではあるでしょうね。双方の妥協案を探って、落とし所を見つけろだなんて言いますが。そんなことが簡単にできるなら、誰も悩んだりなんかしません。

 私だって妻と連れ添って長いですが、むしろ意見を擦り合わせすぎて、お互いが擦り減ってしまうことの方が多いですよ。私と妻は長い夫婦生活の中でその大切さを見出しました。だからこそ、私は妻の反対を押し切ってまで、このお店をオープンしたのです。

 意見を擦り合わせて落とし所を見つけても良いですが、その摩擦で擦り減ったものを拾ってくれる人は誰もいません。時間と神経を擦り減らしながら、落とし所を落とすくらいなら。むしろ、多少は我がままになっても良いとは思いますよ。……あくまでも私の自論ですがね」

 マスターの言葉を真摯に受け止め、何度も頷きながら話を聞いていたローズは、突然すっと立ち上がり。

「マスター、ありがとうございます。もう一度、彼とちゃんと話し合ってみます。……ちょっぴり我がままに」

「そうですか。……説教くさい話で締めるのは少し心苦しいですが……」

「いえいえ。今日のコーヒーも最高に美味しかったです。また来ますね、マスター」

 レジで代金をトレーの上に載せると、マスターがお釣りと一緒に一言返してきた。

「ところで……アルバムの写真の右下に小さく書かれた番号は……何か意味でもあるんですか?」

「えっ……?」

「……失礼しました。お気になさらず。一刻も早く、彼と仲直りできる日を祈っておりますよ」



「マスター、今日のおすすめコーヒーください!」

 マスターのいらっしゃいませの一言をかき消すほどの大声で来店し、男性はいつものカウンターの端の席に着席した。

「あぁ、フールさん。改めて、いらっしゃいませ。かしこまりました。少々お待ちを」

 マスターはカウンター越しに声だけで返し、手早くコーヒー豆をセットしていく。

「あの、マスター……フールって何です?」

 放物線を描いて、飛んでいくフールの声をキャッチしたマスターは、サイフォンに火を入れながら返答を投げ返した。

「このお店では、常連のお客さんはペンネームで呼ぶことになっていましてね。その昔……あぁ、この話はまた別に機会にでも。私があなたに抱いたイメージがフールだったものですから。……あぁ、どうか意味は調べないでください。今はスマートフォンでなんでも手軽に調べらる時代ですからね。調べるのは、コーヒー豆の種類や、焙煎の深さ程度に留めておいてくださいね」

 心配せずとも、否定的な意味ではありませんのでご安心を。と、付け加えそそくさとコーヒーを運んでくるマスター。いつにもまして、顔がにやついているのが気になってフールは事の真相を暴きにかかった。

「マスターがそう言うなら、特に気にしませんが……。何か良いことでもあったんですか……?」

「……質問に質問で返すのはとても失礼ですが、それを承知の上でお聞きします。彼女さんとは、仲直りできたようですね」

「え!? なぜそれを……」

 マスターに見抜かれ、途端に真っ赤になる顔を隠すように、コーヒーを半分ほど飲み干してから、それでもまだカップは顔から離さずに沈黙していると。

「だって顔に書いてありますからね。……そして、それだけじゃないですね」

「……」

「まさかウチのような、定年後のじじいがやっている寂れた喫茶店を貸し切りにしてくれだなんて、電話をいただいた時は驚きましたよ。バール君以来の衝撃でしたよ」

「バール君て……その人に頭でも打たれたんですか……?」

「まぁ確かに頭を打たれたに等しいくらいの衝撃的な出会いでしたねlぇ。でも、今ではこの店『バール』と懇意にさせてもらってます」

「やはり、電話を掛けたのは間違いだったようです……」

「まぁまぁ。あなたも、そんな冗談を言えるくらいにこのお店を気に入ってくれたようで私は嬉しいですよ」

「話を戻しますね……。最終的に彼女とは和解しました。彼女の考え方を最大限尊重して、この件に関しては私は口を挟まないことにしました」

「なるほど……丸く収まったのであれば、何よりです」

「そして……私は、今日ここで彼女にプロポーズをしようと思います」

 その決意を聞いても、マスターは微動だにしなかった。表情一つ変えず、ただその言葉を受け止めた。まるで、その言葉が発せられるのが最初から分かっていたかのように。

「なんでもお見通しなんですね」

「いえいえ。決してそういうわけでは。私は占い師でも超能力者でもありません。男の覚悟を決めた顔を見れば、何を言いたいかぐらいの察しがつく程度ですよ」

「謙遜しているようで、自慢のように聞こえるんですが……」

「それは見解の相違です。大丈夫、あなたもこれから年を重ねれば、自然と身につくスキルですから。……それで、彼女さんはいつ頃こちらに来られるのですか?」

「約束の時間まで、もうすぐ……あ」

 フールが不意にドアへ目を向けると、ローズがちょうどドアノブに手をかけるところだった。

「マスター、とりあえずコーヒー」

 居酒屋の一杯目のようなノリとテンションで、店内に入ってきたローズは、そこに居合わせたフールを見て、目を丸くして驚いた。

「ローズさん、いらっしゃい。ささ、取り合えず席へどうぞ」

 状況が全くの見込めないまま、いつもの席……フールの隣の席に腰かけたローズは目を瞬かせながら、耳打ちした。

「一体どういうこと……偶然?」

「偶然じゃないよ、『偶然のような必然』だよ」

「?」

 ますます困惑するローズをよそに、出来上がったコーヒーをとりあえず、一口。フールはローズから視線を外し、コートの中を何やらごそごそとまさぐっていた。

 そして、ラミネート加工が施された短冊のようなものと、シンプルなオフホワイトの小箱をローズの前にそっと差し出した。

「俺と結婚してください」

 短い一言とともに、小箱を開けるとそこにはきらりと光る指輪が収められていた。

 突然の出来事にローズは狼狽えながら、とりあえずコーヒーをこぼさないようにカップを脇によけてから。

「え? え?」

 と未だに現状に理解が追い付いていないようだった。

「どういうこと……? え? ……プロポーズ?」

「付き合ってからしばらくして、同棲を始めて。大きな喧嘩の一つもなく、すごく平和な毎日だった。それは勿論、楽しい日々で。

 でも。心のどこかで不安があった。もしかすると、俺の言動に目を瞑っているだけなんじゃないかって。ただただ、我慢を強いているんじゃないかって。

 この前の一件で分かったんだ。俺は君のことを何一つ理解できていなかった。一番大事なものを見落としていた。二人で積み重ねてきた時間があるように、君にも店の皆と作り上げてきた歴史がある。それを否定するなんて、二人の時間を否定することに等しいんだって。その、俺の欠けた部分を埋めてくれたのが、君だ。これからの人生、君と歩いていきたいんだ。

 よろしくお願いします!」

 熱のこもった言葉に、ローズの目に涙が溜まっていく。言葉を返そうにも、溢れる涙をぬぐうのが精一杯でようやく一言だけ絞りだせたその言葉は。

「よろしくお願いします」



「おめでとうございます」

 二人が無事に結ばれた報告を受け、マスターは少しだけ遠慮気味に店の奥から顔を出した。

「いやぁ、実におめでたいですね。あ、そうだ。ケーキを準備しないと」

「マスター、例のやつ。お願いします」

「ええ、わかっていますとも」

 フールの呼びかけに、マスターはいつもの悪戯っぽい笑みを浮かべながら冷蔵庫からケーキを取り出した。そのケーキは。

「え……ちょっと待って……」

 ようやく泣き止んだローズの目から再び涙が溢れる。箱のデザインに店のロゴが印刷されているだけで、何かを察したのかローズはそれだけで泣き崩れた。

「本当に、皆から愛されているんだね」

 フールが箱からケーキを取り出すと、真っ白な生クリームでデコレーションされたケーキの上にちょこんと載っているチョコプレートに

「ご結婚おめでとうございます!」の文字と共に、ローズの店の従業員一同の名前が描かれていた。

「こんなの……卑怯……」

「皆さんの思いが詰まったケーキです。勿論、食べられますよね」

 マスターがそっと後押しするような一言に、無言でうなずくローズだった。



「美味しかった……」

 天を見上げながら、ローズは後味をかみしめるように目を閉じていた。

「まだまだ荒い部分はあるけれど、これなら少しは安心できそう」

 その言葉にフールとマスターは目を合わせ、ほっと胸をなでおろした。

「……あ、ちなみにもう何もないよね?」

「え?」

「サプライズ的な何かよ」

 目線をフールへと移したローズは、半ば問い詰めるような口調でフールに迫った。フールは言おうか言うまいか、しばらく逡巡してから。

「さっき指輪と一緒に渡した栞……」

「これが?」

「バラの栞なんだけど、8色のバラの花びらを使って一つのバラにしてあるんだ」

 そういえば、と。ローズはバッグから栞を取り出して、改めて栞を検分した。

 その指に光る指輪がフールにはとても誇らしげに見え、そんなことを言うのは無粋だと、心の中に留めながら。

「赤いバラは『告白』。

 ダークレッドのスプレーバラは『至福の喜び』。

 赤いスプレーバラは『愛情』。

 ダークピンクのバラは『愛を誓います』。

 オレンジのバラは『あなたの魅力に目を奪われる』。

 イエローのバラは『愛』。

 パープルのバラは『私はあなたにふさわしい』。

 ブラウンのバラは『すべてを捧げます』。

 以上8種類のバラの花言葉で一つのバラを作ったんだ。そして、バラの花言葉はその本数によっても意味が変わるんだ。アルバム持ってきてるよね?」

「ええ……」

 ローズがアルバムを取り出して適当なページを広げて、フールに渡す。何か思い当たる節があるのか、いつもの栞と一緒に。

「今まで取ってきた写真。まぁ、必ずしも一枚に一輪ではないけど。写真の下に割り振られた数字……撮影した順番にナンバリングしたこの写真は、そのままバラの本数の花言葉と対応しているんだ」

 そういわれて、ローズは先日のマスターとの会話を思い出す。そういえば、マスターに言われるまで全く気付かなかった写真の右下に書かれた数字の意味。特に気にも留めていなかったその数字はここにきて、大輪の花を咲かせることになったのだった。

「ちなみに、このアルバムの写真の一枚目は、『2』なんだ。なぜかって? 初めてプレゼントしたバラの栞……そうこれ、この下。これが『1』。ちなみに、一本の花言葉は『一目ぼれ』『あなたしかいない』。だから」

 フールが続きをいうが早いか、ローズはさっき貰った8つの花びらからなる一輪のバラの右下を確認した。

 そこには『108』と書かれていた。

「その栞が108本目。108目のバラの花言葉は『結婚してください』」

 ローズは、もう何度目かわからないほどの号泣で、フールはその体を優しく抱き留めるのだった。



「私が口を挟んで良かったのか。今でも悩みますけどねぇ。でも、フールさんとローズさんは栞を挟むことによって完成されたわけですし。……いや、本を読み終わるまで栞は挟み続けるもの。あなたたちの人生は栞を挟んだ場所から、まだまだ続いていくんですよ」

 誰もいない店内で、ノートをゆっくりと閉じたマスターはその表面を愛おしそうにさすっていた。

 店での様々な出来事や事件を綴ってきたノート。年季の入ったその色が歴史を物語っていた。

「この店もあと……」

 続く言葉は、ドアベルの音によってかき消された。マスターはレジ下の収納スペースにノートをしまい、客を迎え入れた。

「いらっしゃいませ、お好きな席にどうぞ」

「では、こちらに」

 溌溂とした声が印象的な若い男性だ。

「こちら、メニューになります。お決まりの頃お伺いしますね」

 ほどなくして、男性から声がかかる。

「コーヒーと、サンドウィッチを」

「かしこまりました」

 マスターと男性だけの店内。腕によりをかけて、じっくり丁寧に仕上げられていくコーヒーの音と香りが満たす店内。

 男性は、スマートフォンを取り出してニュースサイトを流し読みしていた。

「お待たせいたしました。……お客様、ご来店は初めてですよね?」

「ええ。こちらのお店、実は以前から気になっていたんです。やっと来れました」

「あまり目立たない場所にありますしね。是非、自慢のコーヒーを時間の許す限り味わっていただければ」

「ありがとうございます。……美味しいです。深いコクとキレがとても良い」

「それは良かったです。でしたら……」

 マスターは何かを言いかけて、続く言葉は言い淀んだ。

「どうかされましたか?」

 男性の問いかけに、マスターは先ほどつぶやこうとして男性にかき消された一言を改めて。

「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。

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アンコールブレンド・ダイアリー 和立 初月 @dolce2411

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