まどろみの方舟 三(完)


「足下、滑らないように気を付けて……」

 時代劇などで知識はあったが、龕灯がんどうと言う照明器具が実際に機能するのを初めて見た――妙な感慨さえ覚えながら、細い紫の背について暗がりの中を進む。

 拾った筆には、紫がスケッチに使う薄手の和紙が結わえられていて――部屋に呼ばれた越山は、二着の二重廻しを用意していた紫に、蔵の階下へと誘われた。

 近代において幽閉状態とはいえ衛生的な生活を営むために機能しているらしい一階の――また、その下へと続く階段。

「兄さんのだけど、君とサイズは似てると思う」

 床下から漂ってくる冷気に身を震わせると、二重廻しの一方を貸してくれた紫は、ありがたく着込んでいる間に、どこからか一足の靴まで取り出してみせた。

「碧が……あいつの知っていることを話してしまったと、言ってきました。なら、ぼくの話もしなければ、君は納得してくれないと思うので……」

 よく見れば、床板の一部に四角く縁どられている個所があり――床下収納の蓋のようだと思ったが道理、屈み込んだ紫の手でそれはあっけなく取り除かれる。

「いや。納得してもらえなくても――ぼくが、誰かに知っていてもらいたいから、聞いて欲しい」

 その後は、君は君のいいようにしてくれていいから……火の灯された古めかしい龕灯の照らし出したのは、さらに地下へと延びる石の階段。

 可否を問う視線には――彼や碧に請われたからでなく、この家が求められた暮らしにそれらしい理由があるのなら知りたい……その己の欲求に抗えないのだと、頷いた。


 階段は、程なく、切り出した石を組み合わせた造りから、岩壁から削り出したような様相の数段を経て、比較的起伏のない通路を思わせる空間へと突き当たった。

 階段を下ってきた感触からすれば、南北に延びているだろうか? 天井はさほど高くはないが、成人男子の平均的な身長を自負する越山をして、屈まなければならない程度ではない。幅の方はさすがにふたり並んで歩くには窮屈かと思われるが、龕灯の照らす狭い範囲の光景をして閉塞感を感じるほどには狭くない。ところどころ、おそらく大きなでっぱりを削り取ったらしい痕跡は見られたが、おおよそ天然の空洞であるようだった。

 ひんやりと冷たい空気は――龕灯の火をちろちろと跳ね返す壁面がじっとりと湿り気を帯び濡れてさえいるうえに、さすがにどこかが外部に通じているのだろう、わずかながら常に空気が流れているせいとみられる。

「裏山の上の方に、縦穴と言うか……古い亀裂があったそうです。ぼくには、今もそのままかはわかりませんが、この分だとおそらく埋まってるようなことはないんでしょうね」

 何度か通ったことがあるらしく、紫の歩みに迷いはない。

 道々に、紫は兄と共に、自分たちの父と親友だったという伯父とは別の伯父――つまりは、彼らの母のふたりいる兄のうち長兄にあたる伯父から聞いたという、昔話を語った。


 昔々、この小さいながら稲の良く育つ集落をなにがしかの褒美に偉い人から与えられた大きな商家があり、さらにその家長は息子のひとりにこの土地を任せたという。

 息子は、取り立てて勤勉というわけでもなかったが才はあり、ほどほどに働いたので、集落は農村としてはまずまず潤った。

 息子は、見た目の方もまずまずであったので、大きな取引に自ら出かけた際に、さる大棚の末娘に一目惚れされ、末娘を可愛がる大棚の旦那に請われて、末娘を妻に迎えることとなったのだが、実は息子には、長く昵懇にしている女がいた。女と示し合わせての――末娘の持参金を当て込んだ、見せかけの結婚だった。

 程なく、末娘に女の存在のばれた息子は、地の底まであると言われている山の裂け目に末娘を突き落とし、新たに女と所帯を持った。


「ひどいな」

「うん。酷い話」

 覚えずこぼした感想に、紫は首肯して話を続ける。


 それから一年ほど過ぎる頃――集落では疫病で一時には半分以上の住人が亡くなり、流行りの落ち着いた頃には、集落の真ん中に掘られた井戸が枯れた。

 そこで、改めて井戸を掘るべく、水見が呼ばれ――指示通り息子の家の庭にほど近い裏山の裾を掘ったところ――。


「勢いあまって振るった道具が、思わぬ大穴に繋がる口を開けてしまった」

 そこが、ここなのだと紫の告げるのは、ふたりの辿り着いた――声の反響具合からすれば、これまでより天井の高く幅も奥行きもある、比較的大きなほら

 そこで続きを言い淀んだ紫は、無意識に見えぬ天井を見上げていた越山を身体ごと振り返った。

「あの……心の準備をしてください。お見せするには、ちょっと心苦しいことになっていますので……」

 あの美しい姿をお見せできたら良かったのですけど……いつものように眉尻を下げて恐縮してみせた紫は、いいですか……もう一度、念を押してから龕灯の明かりを正面へと投げかる。

「――……!」

 どくん!…声は出なかったが、鼓動が跳ねあがると同時に背筋を悪寒が駆け上がった。


 ごつごつとした岩肌にしだれかかるように――それは、あった。


 もとは赤かったのだろう、色あせた襦袢と思しき単衣。

 墨を流したように岩肌を這う長い黒髪。


 その姿は、越山が届けた――あの美人画を思い起こさせはしたもの……。


 絵の中では、白く瑞々しかった顔も手も足先も――黒茶け朽ちた何かによって、骨の形を浮き彫りにされてしまっていた。

「ぼくが初めて目にした時はまだ、遠目には生きているかのようでした」

 おそらく、屍蝋と呼ばれる永久死体かそれに近いものであったのだろう――低温湿潤な環境下において稀に起こる蝋化現象であれば、元は水中にあったのかもしれず、また、その状態を維持する環境が、この洞に整っていたのかもしれない。

「当時のひとは、驚いたでしょうね――ずいぶん前に死んだ娘が、生前と変わらぬ姿で横たわっているのですから」

 そこで商人の息子の所業は明るみになり、疫病も井戸枯れも娘の祟りとされて――商人の息子は、恨みを抱く娘への贄にされ、しばらくは集落に平穏が戻ったかに思われた。

「けれど、間もなく……また、病が蔓延したそうです」

 再び、娘の状態を確認に来た人々は、すっかり白骨化してしまった商人の息子を見つけ――また新たに贄を差し出しても朽ちてしまえば災いが繰り返されるのでは…と、思案に暮れた末、洞の入り口に庵を建て、商人の息子とその女の長男をそこに押し込めて、『御伽役』として生涯をささげさせることにした。

「それ以来、他の地域で疫病が流行っても戦があっても、集落は平穏無事……だったそうです。ですので、そうして……ずっと」

 その商人の息子の末が、神条家であるのだと――紫は、常のように眉尻を下げて困ったように微笑んだ。

「昨日のご老人方は、こんな由来は知りません」

 ただ、彼らはごく幼い頃に戦争を経験している。当時、既に庵は自宅の蔵を改装した物へと変わっていたが――大人達から、蔵のひとのおかげで集落に爆弾は落ちないと慰められ、蔵のひとのおかげで戦争はこの集落に及ばなかったと……強く記憶してしまっていた。

「あの方々より少し年嵩だった祖母は、戦後、長じるにつけ強く疑問を感じるようになったそうです」

 特に、紫たちの大伯父が早くに亡くなり、成人前の祖母の長子が蔵に入ることになるにつけ、その思いは高まり――また、兄を奪われたもうひとりの伯父や紫たちの母は、いっそ集落を終わらせてしまおうと心を決めたという。家を継ぐ必要のない次男として知恵を求めて集落を出た伯父は、進んだ学び舎で博識で視野の広い友を得て、友は家に残った妹の夫となった。

「父が、若い世代に進学を奨励したひとつには、集落の解散が目的でもあったのです」

 もちろん、次代を担う者たちの見識を広めさせるためでもあった――世の事象を知り、あり得そうな現象を組み合わせて行けば、蝋化する死体も表面からは知覚できない地中の地割れによる地下水の流出でそれが移動するだろうことも、充分な浄水設備のない小さな集落では何らかで汚染された水から感染症が広がる可能性も、想像に難いことではない。

「事実、おそらく……何度かの地震が、ここの環境をわずかに変えてしまって――彼女は、ついに朽ちてしまった」

 目を伏せ、痩せてしまった首を振る――それでも彼の目に映る娘は、今も変わらぬ姿を保っているのだろう……という気がした。

 ふぅ…そして、それが語ることの全てだったのだろう、細くため息をついて――紫は、改めて越山に向き直ると、お願いがあるのです……わずかの身長差を見上げ、目を合わせて告げた。

「碧を連れて行ってください」





 彼女の意思もあろうので、妻としてと言う意味ではない……と、笑って続けられて、越山もつい苦笑したものの――紫はどうするのか?……問えば、このまま集落に残ると、不思議と諦めの気配のない口調で返された。

「ここの方々には、心安らかに暮らしていただきたいですし」

 謂れを明かして理を解けばいいのではないかとも訴えたが――幼い頃、嘘をつくと地獄で閻魔様に舌を抜かれる…と教えられて育った者が、白い嘘であれ幾ばくかの罪悪感を覚えないでいられないように、思い込みを説き伏せられさえすれば……と言うものでもないのらしい。

「それに――」

 自嘲気味の笑みは、あの絵を見てしまった時のそれに似ていた。

「ぼくは、彼女が崩れて失われてしまう日まで――傍にいたいのです」

 それ以上、異を唱えることはできなかった。

 ただ、碧がいなくなってしまっては、やはり集落の老人方が心配するのではなかろうか?……疑問は、しかし――大晦日の夜なら、この集落の者たちは外出しないし外を覗くこともしない……風習を利用して出て行く越山と碧を玄関で見送るため、あっさりと蔵から出てきた紫の姿で示された。

 碧の着物を纏い、薄く化粧をした紫は、髪の長さを除いて、充分すぎるほどよく似ていた。





 その後――碧は、しばらく越山の勤める画廊で雑用のアルバイトをした後、さすがの目の良さをオーナーに気に入られ、正式に勤務することになった。また、趣味で細々と続けていたという陶芸で、生活に密着した食器を作って画廊の隅に置かせてもらったところ、徐々に愛好者を増やしつつあるところでもある。

 あれから、紫とはまた連絡が取れなくなった。

 彼の使っていたモバイルは――ここでは不要なので、解約しました……と別れ際に、越山の手に押し付けられた。


「じゃぁ、また……」


 別れの言葉は、『さようなら』ではなかった。

 ならば、また会う日が来るだろう。





 そして、集落の終焉は、きっと穏やかなのだろう。




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まどろみの方舟 若月 はるか @haruka_510

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