まどろみの方舟 二


 酷く静かだった。

 随分ぐっすりと寝たような感触があったが、隣近所の朝の支度の音もまだ聞こえないようだし、車や電車の音も聞こえてこない。

 何時だろう?……枕元にあるはずのモバイルに手を伸ばした越山は、彷徨う手のひらの覚えた自室のヘッドボードの天板と異なる感触と、ヒヤリと腕を撫でた冷気とに驚いて、一息に覚醒を促された。

 目を開ければ、馴染みのない黒々とした木造の天井板とそこからぶら下がる丸い蛍光灯と四角いシェード。畳敷きの部屋に、重たい真綿の布団をかけて横たわっていた。


 そうだった……。


 結局、ゆかりの実家に泊まったのだと思い出す。

 渡り廊下の突き当りの引き戸の向こうは、窓は小さいが照明器具は充分に備えられた十畳ほどの部屋になっていて――文机と画材の並んだ棚を背に、質の良さそうな和服を纏った紫が端座していた。

 もともと細かった身体は、さらに痩せただろうか? 着物の襟元に覗く少し伸び始めた髪のこぼれる首筋が、そわそわと不安を煽るほどに心許ない。

 丁寧に手をついて不義理を詫びた紫は、先だって倒れた兄が数日後に他界し、跡を継がねばならなくなったのだと告げた。

「それでも、絵は描くでしょう?」

 件の絵を手渡せば、微かな安堵の表情を浮かべさえした紫は、しかし――。

「そうだね」

 その淡い笑みのままに、そろりと答えと視線を逸らした。逸らされた視線の反対側の棚に並んだ道具たちは、彼の性格通り丁寧に整理され並べられていたが、しばらく使用された気配はなく――再び頭をもたげる、心細さにも似た動揺。

 うまい接ぎ穂を見つけられないまま、アトリエの始末の詳細や画廊で預かっている絵の明細などの事務的な相談と報告で間を繋いでいるうちに、一時間はすぐであったらしい――りん…壁際のどこかで鳴ったのは、引き戸の外の組み紐が引かれたのだろう。

「あの、すみません……ご老人方が」

 困惑気な顔をのぞかせた碧の背後、渡り廊下の母屋側に少なからぬ人の騒めきが聞こえた。

「越山くん、長旅で疲れているとは思うのですが――少しだけ、相手をしてやってもらえませんか?」

 見ての通りの集落なので、ご老人方には刺激が少なくて……眉尻を下げる紫に頼まれるまでもなく、渡り廊下の根元に陣取られているのであれば逃げられるわけもない。ほんのご機嫌伺い程度で辞そうとの目論見も甘かった。いつの間にやら、階下の座敷にテーブルと座布団を整えられていて――上座に押し込められ、手製の煮物だの漬物だの、本来のこの家の住人である碧や、あのまま部屋を出てこなかった紫を差し置いて、二十数名の老齢男女の接待を受けさせられ――断り切れなかった結果、アルコールを口にしてしまったがために、ホテルを予約していた近隣都市まで戻ることもできなくなり、神条家の離れに宿を借りるはめに陥ったのだった。これについては、ホテル代は少々もったいない話ではあったもの――おかげで、帰る前に少なくとももう一度は、紫と顔を合わせることができようと思えば、怪我の功名と言えるだろうか。

 体温に温まった布団の中で、つらつらと昨日の出来事を思い浮かべる。


 座敷牢――だよなぁ……。


 そして、指摘するにできないままでいる――紫の現状を改めて不審に思う。

 格子に遮られているわけでも、手足に枷を嵌められているわけでもなく、彼自身――積極的にそこを出ようとする素振りを見せることはなかったが、ふたつの扉の鍵は、どちらも外側にしか鍵穴はなかった。

 亡くなった兄の跡を継いで……と紫は言い、あの時、渡り廊下の母屋側で越山を迎え階下に引っ張って行った老人たちも何の疑問も持っていないように思われた。もちろん、紫があの蔵にいることを知っているうえで、だ。

 むしろ、越山をやたら歓待しながらしきりと繰り返し繰り返し、紫が家に戻ったことを引き合いに出しては、喜んでいた。

 随分遅くまで騒いだ老人たちは、それが田舎の流儀なのか……越山は比較する田舎を知らないに等しいので判断できなかったが。遠慮する碧をまたもそっちのけで勝手知ったるとばかり洗い物まで片付けて引き揚げていった。

 彼らの陽気さに、なにやら浮足立つに似た空虚な気配を覚えたのは……はたして気のせいだろうか?


「婿さん、起きとりんさるかね?」


 この辺りの家屋には、木造の雨戸はないのだという――冬至を過ぎたばかりの頃のことと思えば、出勤日でないとはいえ少し寝坊気味だったかもしれない、屋外に面したガラス戸を通して差し込む光が、既に部屋の障子を白ませている。その間にある縁側を兼ねた廊下に引きずるような静かな足音と共に淡く人影が侵入し、次いで昨日、耳にしたかもしれない老婆の声が問いかけた。


 婿さん……ねぇ……。


 昨夜もしきりとそう呼ばれたようにも思う。

 酒もまわった席の年寄りのたわごとと聞き流していたのだが、どうしたものか……?

「皆さんがお酒を差し上げ過ぎるからですよ。こちらまでいらっしゃるのにも長旅でしたでしょうし、寝かせておいて差し上げてくださいな」

 思案する間に、ぱたぱたとスリッパ履きと思しき足音と――困惑を隠しきれない碧の声。

「個人的なお客様ですから、本当にお気遣いなく……。年の瀬ですし、お家のことをなさってください」

 なだめすかすような調子で遠ざかってゆくふたり分の足音は、そのうちぐるりと回って勝手口から門の方へと流れて行くようだ。

 改めて時間を確認すれば、実際そろそろ他人の家で寝ているには気まずい刻限にさしかかりつつあり、布団を出れば身の竦むような寒さに耐えて借り物の寝間着を脱ぐと、手早く身支度を整える。

 そろり…障子を開けて外の様子を窺えば、ちょうど老婆を門扉の向こうへ送り出すことに成功したところであったらしい――踵を返す碧と遠目ながらガラス越しに目が合った。

 ぺこりと頭を下げて、小走りに屋内へと取って返す碧は、やはり平時からの習慣なのだろう今日も着物姿だ。

 先ほどと同じ経路を逆にたどって離れへと近づく気配に、慌てて起き抜けたままの乱れた布団をまとめ――隅によせているところで、おはようございます……立てずにいた障子から、碧が顔をのぞかせた。

「朝ごはん、召しあがられますでしょう? 茶の間で恐縮ですが、そちらがこの家で一番暖かいので、どうぞ」

「ありがとうございます。あの……すみません。年末の忙しい時期に……」

 促される背に従いながら、今さらのように恐縮する。自立してからこちら、別段、年末年始に帰省するようなこともなければ、街中のひとり暮らしの気安さで失念していたが――こういう地域では各家庭、正月や節分と言った年間の節目の習慣が生きているのではあるまいか。

「いいんですよ。紫兄さんが、この時期なら…と、お伝えしたのでしょう? 我が家は、神様をお迎えする習わしのない家ですので、新年を迎える準備は、特に何も……」

 なるほど……言われてみれば、越山の実家にしても両親祖父母とて――世間並みに…と、大掃除をし、お節料理の準備をしていたくらいで、『年神様をお迎えする』などという仰々しい意識は持ち合わせてはいなかったわけで、家々によってそれこそ、そんなものなのかもしれない。

「いただきます」

 少しばかり安堵しながら――勧められるままに炬燵に足を入れ、よそわれた朝食に手を合わせる。

 失礼しますね……お茶を注いでくれた碧も自分の湯のみを持って、斜め隣で膝を温める。

「こちらこそ、ごめんなさい。老人たちが変なことを言って」

 近年では何ら珍しいことではないとはいえ、戦前戦中生まればかりが固まった集落では、三十路を目前にしながら未婚の碧は心配の種であるらしく。

「わたし達の父が、家を出ていた方の伯父と親友だったものですから――紫兄さんのお友達と聞いて早合点してしまって……」

 一度思い込んでしまうと、皆さん頑固で……眉尻を下げる表情は、やはり紫とよく似ている。

あおい兄さんは、まったく不意のことでしたし……神条の家は、女が家に残って婿を取るものと決めてかかってらっしゃるから、不安なのでしょうけど……」

「あれ? そうなんですか……?」

 いけない、つい愚痴が……肩を竦めて口元を覆う碧の声と、思わず箸を止めて発した疑問符が被る。

「先輩からは、お兄さんの後を継いだのだ……と、聞きましたけど」

 ほんの暫し正面から合わさった視線――すぐに逸らされ、思案気にきょろきょろと彷徨ったそれは、しかし、何をか心に決めたかのように戻ってきた。

「紫兄さんが、どこまでお話するつもりでいるかはわかりませんが――越山さまも……異様なものと、感じられましたでしょう? 紫兄さんは、確かに蒼兄さんの役目を継いで……蔵に居ります」



 碧の話は、現代を生きる越山にとっては、まるで了解しがたいものだった。

 否。話の内容自体の理解はできた。

 何代前からのことなのか、碧は知らないと不明を恥じたが――代々、神条家は長男が『御伽役』と呼ばれ蔵に籠ることでこの集落を厄災から護り、姉妹は皆、婿を取って次代の御伽役となる男子と家を絶やさぬための娘を産むことが役目と、集落に認知されているというのだ。

「それ、人道的にヤバくないですか? 人権侵害甚だしいじゃないですか!」

 覚えず高くなる声に、碧が肩を縮込める。

「すみません。あなたが悪いわけではないのに……」

「いえ……」

 謝罪には――およばないと小さく首が降られた。

「わたしが独り身でいようというのは、消極的すぎる抵抗なのかもしれません。父や蒼兄さんは……何か考えていたようでした。紫兄さんもなにか思うところがあって、あなたを呼んだのだと思います」

 ご無理は言えませんが……言い淀む、続く言葉は察せられたし――口にするのを躊躇った気持ちもわからなくもなかった。



 少し頭を冷やしてきます……その後、無言のまま食事を終え――手を合わせてから、断りを入れて敷地内へと散歩に出た。

 薄曇りの冬空は白く、吐く息も白い。

 昼間は開放されていると思しき門から見下ろす集落は、無人になり傷みの隠せなくなってきた家屋も含めて、ほんの見渡せるくらいしかない。昨夜の老人たちのこぼした言葉の端々を補ってみようとするに、老いた親が亡くなったのを機に、もっと便利の良い街中へ出て行ってしまった世帯もあれば、進学や就職で集落を離れ、その先で所帯を持った子供に呼ばれて出て行ってしまった家もあるらしい。進学を志す者には、先代――紫や碧の父が、いくばくかの資金を提供したとかで、崇めるように褒め称える一方で、挙句帰郷しない者たちに憤る声もあった。

 碧の口振りからすれば、老人たちが彼女の結婚を気にするのは、なにも跡取りのことを考えるばかりではないのだろう。彼らにとっての常識的な価値観による、思いやりが含まれているのかもしれず、ゆえに碧はいっそこの地に添い遂げるつもりなのかもしれない。

 近くで見ればさすがにひびや剥がれの見える塀に沿って庭を巡る。東側は離れの建物で確認できないが、南西の端には角があって北に方向を変える塀は、その先で山の傾斜まで続くようだ。


 ヴヴヴヴヴ……ヴヴヴヴヴ……。


 その隅に辿り着く手前――うわっ……瞬間驚いて声が漏れていたのは、いつものように尻のポケットに入れていたモバイルが震えたせい。

 慌てて取り出すと、メールとアプリ経由のメッセージの着信通知が件数を折りたたまれるほどに届いていた。思い起こせば、昨夜も風呂を借りて離れに落ち着いたところで、一日分のメールやメッセージに気付いたのだった。自分から発信する用事がなかったので意識していなかったが、なるほど電波状態が良くないのだろう。

 もしかしたら、紫に連絡の取れなかったうちのいくらかは、これが原因だったのだろうか?


「なんだかなぁ……」


 ひどく物理的な日常に引き戻される思いがして、ついもれた苦笑と同時に覚える軽い脱力感。

 そうだ。一部の地域における、なにがしかの信仰や験担ぎのような風習があったとしても……さすがにこのご時世、人間ひとり閉じ込めておいておけば防ぐことのできる厄災などあり得るだろうか?

 顔をあげる――そこからなら母屋に遮られることなく観察できる西の蔵は、一階部分にあたる外壁をぐるりとなまこに固められ、換気口のような格子がいくつか見られはしたものの、ひとの出入りできる扉や窓の存在は確認できなかった。

 けれども――。


 コツン……。


 突き固められた地面が、硬質なものを受け止める音。

 振り向けば、一本の絵筆が落ちていた。



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