まどろみの方舟

若月 はるか

まどろみの方舟 一


 公共交通機関を乗り継いでも最寄りのバス停から車で数十分、さらにそのバス停までの便も日に片手に数えるほどとなれば、日帰りなど望めるべくもなく、加えて周辺に宿泊できる施設もない。荷物の性質も考えれば、多少の無理は承知して自ら車を駆った。

 夜明け前に事務所を出発し、高速道路を乗り継ぎ、一般道からやがてひとまずは公道であろうと認識できるセンターラインのない道へと変わり――トンネルのような植林地を抜け、タイヤがアスファルトから白く焼けるコンクリートを踏み始めたことに気付く頃、ぎりぎりふたつ前の元号生まれの身としても伝聞や映像でしか知らない風景が広がっていた。

 大都会とは言わないが比較的都会で生まれ育った越山こしやまのさほど豊かでない語彙をして言わしめるなら、『村』の風景だった。

 昨今、「村」という行政区が存続しつづけるには何某かの大きな財源を持ち合わせている場合がほとんどで、歌にあるような牧歌的でノスタルジックな風景を持ち合わせていることはもはやなく――行政区分としてのここ一体も、戦前既に隣接していた村々と合併して「町」の一部となっており、さらに平成の大合併でより大きな「町」の片隅となっていた。

 それでも、おそらくはそれ以前の集落としてのまとまりを保ったまま時代を経たのだろうことは、想像でなくとも今、目にしている風景が物語っていたし――越山が、これから訪ねる家にいるはずの男がかつて、そう語ってもいた。

 山間に完結した集落として――そういう意味でなら、確かに『村』と呼んで間違いではなかっただろう。



「ここ…で、いいのか……?」

 年末も近い季節がら閑散とした田畑の間に点在する低い生垣に囲まれた茅葺屋根は、過半数に生活の気配を覚えられなかったが――見通しは良くても狭い舗装もあいまいな道のこと、速度を落として運転するうちに、ちらちらと付いてまわる視線を感じた。

 確かに、これほど不便な場所であれば、若い世帯は仕事やこどもの学校の利便を考慮して出て行ってしまうだろうことは想像に難くはないし――ならば逆に、来客も珍しいことだろう……少々背中のむずむずする思いを我慢して辿り着いた集落の奥にあたる山際、道路わきの空き地に車を置けば、自ずと見上げる形になる石段と石垣、さらにその上の瓦を葺いた塀と屋根の載った立派な門に、覚えず意味のない疑問符がもれる。


『家を継ぐわけでない次男なので……』


 気恥ずかしそうな口ぶりから、それなりにのお家なのだろうと思ったことはあったが、これは俗に上流階級とか呼ばわられる富裕層の方ではなく――古くから続くお家柄とかなんとか、伝統と格式のある方のであったらしい。

 電話口の彼が、当初、越山の来訪に乗り気でなさそうだったのは、交通の便以外にこのあたりにも理由があったのかもしれない。最後には、本当に来てもらえるなら嬉しい……静かな中に温かみと幾ばくかの安堵の伺える声で、了解してくれたと感じたのだが――車を降りると同時、身の竦むのは襟足から滑り込んできた冷気のせいだけだと思いたい。


 先輩にもう一度、会う――会って、話をする。


 アプリ画面のメッセージや電話越しの声だけが、彼との繋がりの終わりになるのは嫌だった。

 腹の底に力を込めて、顔をあげる。

 開け放たれたままの門を額縁に――和装と思しき優美な人影が現れた。



 先輩こと神条かみじょうゆかりは、越山が中学生のころ少しばかり学区内で流行っていたからというきっかけで通わされた絵画教室の特待生の筆頭だった。三年違いであったので、同時期に同じ学校に通ったことはなかったが、彼の絵筆は、当時すでに一部のプロからも将来を熱く望まれており――むしろ、彼の評判がその地域における流行りを呼んでいたのだと、後に越山は理解した。

 越山のような手習いの学生は風景や人物の描き方を教えられながら美術の授業より少し本格的な水彩画を描かされていたが、紫のレベルは素人が手本にしようとしても鑑賞するのが精いっぱいと感じるほどの高みにあり――絵で喰っていければ…と多少なり野望を抱いていた上級クラスの幾人かは、現実を突きつけられて筆を折ったとも噂されていた。

 その点において、越山には――己が描くことへの執着はなかった。

 もちろん、絵を観ることについてもおそらく一般的な中学生程度の関心しか持ち合わせていなかったはずだったが――にもかかわらず、越山は紫の肉筆を初めて目の前にした日、時間を忘れて絵の前で呆けるほどのショックを受けた。

 魅了された。

 この絵は、もっと世に知られるべきだと思ったし――ならば、自分がその担い手になりたいと熱望した。

 そこからは、両親どころか自分自身が驚くほどの熱意でもって貪欲に教養を身に着け、自らの画廊を持つまでには未だ至ってはいないが、信頼のおけるオーナーのもと画商としての実績を重ね、七年前ついに紫の絵の仲介担当となり、五年前からは定期的な個展の企画担当を請け負うに至っていた。

 個人的にも親しく……とは、自分の思い込みかもしれないと時おり襟を正しつつ――飲食をともにしながら仕事以外の話をする機会もたびたび、なにかの折りに件の絵画教室の話題が及んだところ、単に学区のみならずまさに同窓生であるとわかり、戯れに「先輩」と呼んでみれば、学生時代に呼ばれた経験がなかったそうで……はにかんだ様子がなにやら可愛らしく身近なように思われて――以来、たびたびふざけて呼びかけるうちにすっかり定着してしまっていた。

 紫の絵画は、主には日本画に分類されるが緻密さと大胆な省略、温もりと冷たさ、優しさと厳しさを併せ持ち、鑑賞の技法を超えて見かける機会があれば絵画鑑賞に馴染みのない者にもなにがしかで目にする機会があれば好印象を残し、そういう意味では大衆的であり幅広い層に受け入れられ、しかしながら一方で、一筆一筆に滲み出る気迫と情念と呼んでも差し支えない激情に魅入られた根深い収集家を少なからず産んでいた。

 今はまだ、知る人ぞ知る…の域を出ないが、過去から今をして高みを目指しつつある筆がやがてさらに肉を増し研ぎ澄まされていけば、将来、芸術史に名を残すことができるのではあるまいか……未来に期待を抱き、越山の仕事にも一層に熱の入る――そんな、矢先のこと。

 梅雨の開ける頃、個展の打ち合わせが完了し各々荷物をまとめて解散しようとしていた時だった。打ち合わせ中に幾度となく着信があったらしく、取り急ぎメールやメッセージアプリをチェックしていた紫の顔が、透明になってしまうのではと思われるほど急速に青ざめた。

「すみません。夜には一度、連絡を入れますので」

 お先に失礼します……珍しく煩雑に手荷物を掴んで部屋を出て行く紫には、問い質す暇もなかった。


『兄が、倒れました。生家に帰らなくてはなりません。

 一週間ほど音信不通になるかもしれません。

 また、ご連絡いたします。』


 言葉通り、夜にメッセージが届いた。

 そして、一週間後――。


『そちらには、もう戻れなくなりました。

 厚かましいですが、アトリエの始末をお願いできますでしょうか。

 個展については、お任せいたします。

 アトリエ内の所有物、およびそちらにお預けしております絵につきまして、全ての権利を放棄いたしますので、諸々の費用と補償に充てていただけたらと思います。

 これまで、お世話いただいておきながら、たいへんなご迷惑をおかけいたします。

申し訳ございません。』


 即座に電話をしたが、電源が落とされているらしく――予定していた個展が無事終了するまでのさらに二週間、繋がらないままだった。

 ほぼ諦めの境地でアトリエの片付けに向かったもの、使いやすいように整えられた状態の絵筆や絵の具はもちろん、生活していた二階の日用品から几帳面につけられていた出納簿、預金通帳に印鑑まで、そっくりそのまま残されているようであれば、さすがにそのあたりは換金どころか処分さえできるはずもない。

 描きかけの絵こそないものの、額装され布で覆われて部屋の隅に整理された絵――その陰に隠されるようにしまわれていた、一枚の絵まで置き去りにされているようでは。

 それは、自然風景や動植物を題材とすることの主な紫には珍しい、美人画だった。たまたま、事故のような偶然からそれを見てしまった越山に、十代の頃に自分の楽しみのために描いてみたのだと、ばつ悪げに苦笑しながら説明した。若い頃の技量を振り返り恥じらっていると採れなくもなかったが――お気に入りの木陰を作る幹だろうか? 主役を引き立てるために省略された武骨な影にもたれかかり、身を委ねるかの如くゆったりと目を閉じる赤い着物姿の美少女を描いた筆致に、越山は淡く青い……それでいて、もの悲しい想いを見てとった。思春期の感情の生々しさはなく――おそらく、ごく幼い頃の届かぬ初恋の思い出を描いたのではなかろうかと。

 この絵こそ、決して売ることも捨てることも――そして、誰かに譲ることも……越山自身が持っていることも許されるものではないだろう、と感じた。

 そもそも、個展は作者の在廊のないことは無念ではあったが成功したのだし、画廊で預かっている絵も少なくはなく――アトリエの退去に必要な費用など余裕で賄えよう。

 電話が通じないならば…と、あの頃にはまだ住所録としての機能が存在していた中学校の卒業アルバムを入手したのだが――『生家』という言い回しに、どことなく違和感を覚えたも道理……彼は、中学入学時から父方の祖母の家で暮らしていたのらしく、またその祖母もすでに他界してしまっていた。

 最終的に、ダメもとで――公私それぞれのメールアドレス、モバイルのショートメールに、メッセージアプリ、画廊側で広報を引き受けてしまったために作ってもらったにもかかわらずほとんど活用されなかったSNSのダイレクトメッセージ、知っている限りの情報と手段で、連絡を取りたいと訴えかけた。通知画面で確認できる程度の簡潔さで。

 一度目に反応はなかったが、そのくらいは想定内――翌々日にもう一度、今度は卑怯は承知で「例の絵を世に出すのは気が咎める」と書き添えた。

 そうしてようやく、ショートメールとメッセージアプリの履歴に「既読」の文字が点灯した。



 門をくぐると――予想を上回って重厚な和家屋が待ち構えていた。覆いかぶさるような瓦葺きの母屋は、軒の深い二階建てのようだったが、高さよりも幅と奥行きを優に思わせた。母屋の東、手前南側に大きく伸びるのは、渡り廊下で繋がれた離れの類だろう。さらに、母屋の影になり全貌は伺いきれないが、西側にのぞく背の高い建物は白く塗られた壁の様子からすると蔵であると思われた。

「お邪魔いたします」

 出迎えてくれた女性に導かれ、玄関の敷居を越す。

 紫が話をよく通していたらしく、こちらが名乗るより先に言い当てて歓迎の会釈をした彼女は、神条みどり――紫の妹だと自己紹介した。なるほど、言われてみれば男女の別はあれ、黒目がちで伏し目がちな目元やもの問いたげに結ばれた唇の端がよく似ている。癖のない真っ直ぐで柔らかそうな黒髪などは、背中まである長さ以外はまるで同じ艶を湛えてもいて――紫が男性としては線の細いほうであったことと相まって、襟足で飾り気なくまとめた髪を肩から胸元に向けて流した背中を見ていると、少年時代の彼を見る思いがしたりなどもした。もっとも、越山は中学時代に紫の絵と出会ったと言って、実際の彼自身を遠目にも目にしたことはなかったが。

 越山の周囲にはなかなかいない、常から和服を着慣れている様子の伺える碧の立ち居振る舞いは、ゆったりと落ち着いていて――それでいて、ずいぶんと若そうだ…と見遣るうちに思い出した。ひとまわりほど年の離れた妹がいる……と聞いたことが、確かにあった。

「通いで家事を手伝ってくださる近所の方がいらっしゃるのですけど、年越しが近づいておりますので、皆さん、お家の方を優先していただいております。わたしひとりでは、お掃除も行き届かないありさまで……お恥ずかしいことですが、ご容赦ください」

 艶の乏しいなりに歳月に磨かれた廊下を奥へと促され、おそらく建物の北側にあたると思われる肩ほどまで板壁が塞ぐ上部にすりガラスが並ぶ、じんわりと暗い回廊を西へと曲がる。突き当り左に登り口の見える階段をあがり、天井の低い二階の板場を同じだけ折り返すと、西の壁に埋まるように厳し厳めし気な黒塗りの扉が一枚現れた。

 先を行く碧が、扉の脇の壁に飛び出したL字型の螺子釘――そこにかけられた古めかしい金属に手を伸ばす。

「我が家は、家族以外の出入りが多いので……こういう、形式的なものが外せなくて……」

 がちゃり…手元で重々しい音を立てるのは、想像たくましゅうするまでもなく扉の鍵――都会で育った感覚で、戸締り位するだろう……碧の言い訳めいた物言いをつい違う方向に訝りそうになって、確かにこの状況はおかしいのだと思い直す。

 今しがた階段を上って二階にあがってきたところなのだ――こんなところの扉を外から誰が訪れるというのか? そもそも、窓ではなく扉であるところから奇妙だと思わねばなるまい。

「どうぞ、こちらへ――」

 しかしながら、ひとまず後者については開かれた扉の向こうに、あっさり答えが現れた。

 扉の幅そのままの狭い廊下――おそらくは、外から見た建物の位置関係を思い起こせば、あの母屋の影に見え隠れしていた白壁の蔵への渡り廊下……といったものではなかろうか。

 南側の壁の天井近くに細く明り取りの窓が開いているので、日のある今の時間であればどうにか歩く分には支障はないが、人工的な明かりの設備は付いていない。ほんの十メートルほどのことなので、そこまで対価を割く必要もないのかもしれないが。

 突き当りには、やはり古色の濃い引き戸が立ちふさがっていた。

 ふたたび、扉の脇へと手を掲げた碧は、今度はそこに下がっていた太い組みひもを一度ひいてから、手にしたままだった同じ鍵を物慣れた手さぐりで引き戸の鍵穴に差し込んだ。

「兄が、待っております。一時間ほどで、お声をかけに参ります」

 それは、彼女自身は中には入らないという意味であろう。引き戸を少しばかり開いて越山に場所を譲った碧は、それでも――ならばと自ら引き戸に手をかける越山の腕に触れるか否かの手を伸ばし、そんな自身の行動に驚いた様子で手を退くと深々と腰を折りやって頭を下げた。

「あの……兄は、越山さまを頼りに思っているようです。兄をよろしくお願いいたします」



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