百日紅の夏

瑞葉

第1話

 二〇〇三年の夏のこと。わたしは就職氷河期のさなかで、おまけに大学四年生。就職先もまだ決まっていなかった。

「行ってくればいいんじゃない? 意外と美男子かもよ」

 一流商社に内定した友達なんかに、メールで相談しなければよかった。あの子はわざわざ携帯電話に電話してきて、ふふんと笑ってた。

(見合いもいいんじゃない? あなたみたいな二流、三流にはお似合いの「進路」かもよ)なんて思われてそう。

 太陽は地球をそのうち征服するかもしれない。長野の夏は涼しいと聞いていたのに、今日は暑すぎる。東京と変わらないじゃない。

 薄い生地の紺色のカーディガンを脱ぐことにした。これで、腕のむっちりと出た「タンクトップ一枚」になってしまう。

 これから「婿候補」に会う娘の格好じゃないよね。

 はああ。深いため息。

 この辺りは、何十年か前に建てられた別荘が数多い。みんな、こげ茶色の屋根に白い壁。そして、おばあちゃんのうちも似たようなものだ。緑色の屋根に、チョコレート色の壁。あの懐かしい家が見えるまで、もう少しなんだけれど。急な斜面をここから登らないとならない。

 さあ。と涼しい風が吹く。見上げると、大きなクスノキがわたしを見守っていた。クスノキの周りにはしめ縄。

 この辺りはやっぱり、東京とは違う。

 大事にされてる木なんだね。

 手をそっと合わせてお辞儀する。その後、前に進もうと、しょっていたリュックを持ち直す。ご神木があるのは森への曲がり角このあたりの森に生えているのは針葉樹が中心。ウラジロモミ、モミ、アカマツやハイマツ、ヒメマツハダ。そして、カラマツ。

 わたしは小学校の時、この辺りの山が大好きだった。きっと、今のご神木のあたりも通ってる。年齢が幼かったから気づかなかっただけ。自然に親しみたいと思い、中高一貫の私立校で、中学の時から六年間、生物部に入った。そこではビオトープというものを学校の中庭につくっていた。都会の生き物の中継点として、池や自然を設計してく感じ。学校は松戸にあったので、松戸あたりの里山や田んぼもたくさん見学に行った。農家さんからかわいがられたりした。

 ビオトープに興味のない生徒にとっては、高校の中庭はよく思われてなかったみたい。蚊の中継点、とか、藻が浮かんでる池がキモイとか、生物部員はザリガニをビーカーでゆでて食べてるらしい、なんてうわさにまでなってたんだ。そんなことは、つい最近知った。一月にあった「高校の同窓会」で聴かされた。赤面するくらい恥ずかしかった。

 わたしは自然が好き。でも、不思議なくらい、その気持ちは企業の面接でも届かなかった。企業の考える「自然」とわたしの考える「自然」や「森」にずれがあった。

 靴擦れのする足。今日はスニーカーだから、まだ痛くない。夏の初めに買った可愛い白いサンダルは、足首の傷がうずいて履けなかった。一応、今日って、見合いみたいなもんなのにね。「婿候補に会う」っていう。ね。大事な日。

 でも。木や自然の力って不思議だね。

 元気が湧いてくるよ。こんなわたしでも、まだ頑張れるって。

「ちゃんと就職するぞー」

 思いきり、声を張り上げた。周りに誰もいないと思ったから。

 くすくすと笑う声が横からした。一瞬、木の精霊かと思ってしまう。ええ? こんな近くに人、いたの? 聞かれたんですか。

「いい叫びっぷりさ」

 笑っているけれど、わたしを好ましい、と思ってるのが伝わる。企業の面接官みたいに「嫌な感じ」のする言い方じゃなかった。

 色が浅黒くて、髪の毛が茶色く日焼けしている。(染めたのではなく、太陽の光で色素が抜けたって感じがする)

 すみれ色のシャツが涼しげ。首元には金色の鎖のアクセサリー。「T」って形の金色のロゴを通している。

 身なりやアクセサリーこそお洒落だけれど、この人には、遊んでるような派手さはまるでなかった。落ち着いた目をしていた。それで、わたしは妙に安心する。

 この人は二十代半ば、というところだろう。

「カナだってすぐにわかったさ。迎えにきた」

 カナ、という呼び方にすごく聞き覚えがあり、まじまじと顔を見てしまう。見覚えがある? あるといえばある。

 わたしは富永(とみなが)花苗(かなえ)という。「かなえ」ちゃんと呼ばれるのには慣れていたけれど、カナと略した人、これまでの人生でいた?

「ともや、くん」

小さな声で言ったら、ドンピシャリだったのか。その人は嬉しそうに笑う。名刺入れをジーンズのポケットから出してくれた。慣れた手つきで名刺入れから名刺を一枚出す。

「頂戴いたします」

 なんて、丁寧に、就職課で教わった通りにうやうやしくいただく。これはいつもの就活で身についた癖だった。

「槙本(まきもと)倫也(ともや)」という名前。

「思い出しました。小学生の時に」

 わたしはまっすぐにこの人を見た。

 ともやくん、改めて槙本倫也さんは、もともと、わたしを迎えに、こっちまで下りて来てくれたらしい。わたしのリュックを受け取って、軽々と片手で担ぐ。急こう配の坂をさくさくと登ってく。行き先がおばあちゃんの家とわかっているので、わたしは足並みをそろえるのをあきらめた。

 倫也さんは確か、向かいの家の子だったっけな。わたしより二歳年上だった。

 坂くらいゆっくり歩かないと。靴擦れがまた痛み始めていた。「森林保全研究所 主任」という、さっきもらった名刺の肩書を見る。そっけない名刺と言っていい。ゴシック体で自分の名前と、その研究所、あと、緑色のツリーをおそらく表しているのだろう、殺風景なロゴ。これまで面接してもらった企業の中では、「工務店」とか「工場」の名刺に比較的似ていた。

 おばあちゃんのうちに着くと、一面、ピンクの花盛り。地面にもピンクのじゅうたん。

 百日紅。

「サルがすべるから『さるすべり』。でも。よく登ってた」

 ふふふと笑いながら独り言を言うと、

「いいや。カナは登っとらんかった。登ってるオラを見てただけさ」

 返事がある。どこか誇らしげに倫也さんが言って、わたしの隣にいつの間にか並んでいる。

「荷物、玄関に置いといたさ。今、世織(せおり)さんがそうめんをゆでる支度してる」

「本当? あら、手伝わないと」

 わたしは百日紅の思い出から早々と抜け出し、玄関を通って台所に行く。十年以上前に来たきりなのに、この家のことはよくわかってた。

「おかえり。倫也さんに早速、会ったんだってね」

 おばあちゃんはにこりともせずに言う。でも、本当は誰よりも温かい人なのがわかるから、わたしはちっともこわくない。

「僕もお手伝いしますよ」

 倫也さんがさらりと言うと、自ら持参していたのかピンクのエプロンをつけている。うそ? 男の人が料理するんだ。

 おばあちゃんの伴侶だったおじいちゃんだって、わたしのお父さんだって、「男子、厨房に入らず」の人なのに。

 ぼうっと見ているうちに、倫也さんはショウガの皮を手際よく剥いて、おろし器であっという間にすりおろしてしまった。次に、長ネギをいい音で刻んでいく。はやい。料理の仕事をしてると言われても、信じちゃう。

 なにかやること、ある?

 高校の家庭科の成績もそんなにパッとしなかったわたし。ざるをとりあえず洗おうと流しをノロノロ。その間に、おばあちゃんが麺をゆでて、わたしが洗ったざるを奪いとり、ざっとお湯と麺をあける。もわっとした湯気にわたしは眉をしかめる。

「ほら、洗う」

 おばあちゃんにしゃんと言われて、ようやく、やることができた。麺を冷水でバサバサ洗った。ぬめりがとれたら、氷水を張った桶に入れて、なぜか薄切りりんごをその上に散らす。

(りんご?)

 わたしが見ているのに気づいたのか、「オラが持ってきたさ」と、散らした『犯人』の倫也さんが笑った。


「花苗は、もう少しちゃんと料理、手伝いせんとねえ」

 おばあちゃんはむっすり。さっきまでの仏頂面と似ているようで違う。これはほんとに機嫌が悪い時。

「確かに、こんなじゃ、結婚なんて無理ですよねー」

 おばあちゃん相手に敬語になるわたし。いや、こんな言い方、「婿候補」の前でする時点で、だらしない子ちゃんでしょ。焦って何か言おうとするんだけれど。

「ふたりとも、『りんご』も、そうめんと一緒に食わんとさ」

 倫也さんが絶妙なセリフをかぶせて、おばあちゃんとわたしは同時にぷふっと吹き出した。

「えー。だってね」

「りんごはいらんさ。いくら倫也さんが料理うまくても、それは余計さ」

 二人に言われて、勝てる見込みがないと判断したのか。倫也さんは薄切りりんごをもくもくとたくさん食べていた。


 食後に、今度はちゃんとウサギの形に、わたしがりんごを切る。不器用ながらも、これはできる。

 ウサギの背中が、少しごつごつしてるけどね。

 爪楊枝で刺して食べてると、倫也さんも手を伸ばしてくれた。

「どうして、『婿候補』なんですか」

 気になってたことを今なら聞ける。

「どうしても、小さい時に会った子に会いたくてさ。中学生の頃から、世織さんのところに、それが目的で夏中、入り浸ってたさ。『神樹さま』にも毎朝祈ってた」

「『神樹さま』って、あの、しめ縄のされた木のことですか?」

「そうさ。このあたりの神様さ」

 倫也さんはそれ以上は教えてくれなかった。

「その……すごく現実的かもしれませんが」

 わたしはもじもじして言う。

「倫也さんのお仕事の話、教えてください。わたしも企業の面接会とかいろいろ行ってるけど、全滅だから」

「氷河期だから、しゃーない。ならさ」

 倫也さんは嬉しそうに笑っていた。

「明日、良かったらオラの車に少し乗らん? 空色の車なんさ。少し遠出したら、おしゃれなカフェに行ける。そこで話するさ」

 誘われて、心が浮き立った。

 庭の百日紅がうなずいてるように感じた。うん、こんなのもいいよね。


 その日の夜、わたしは夢を見た。あの「神樹さま」のそばに、裸足と白いワンピースのような姿でわたしは立ってる。かたわらには倫也さんがいる。 木の精霊みたいなローブを着ているのだった。

 

 目が覚めると、もう八時半。うそ。今日は空色の軽自動車に乗せてもらって、倫也さんおすすめのカフェに行くのに。

「おばあちゃん、わたしのご飯なにかある?」

「まあまあ。食パンをトーストすればいいさね」

 おばあちゃんがのんびりと言うので、「早く早くー。食パンどこ?」とわたしは焦ってる。 

 早くしないと、迎えの車が来てしまう。

 でも、心の奥底では、さっき見た夢を反芻してる。なんか、いろんな人が出てきたような。そして、三々九度の盃を、倫也さんと飲んだような。まあ、夢なんだけどね。

 最後の盃だけ、飲めなかった。(未来の盃だから、今は飲めないんさ) 倫也さんは夢の中でそう言って、儚い感じで笑ってた。その悲しそうな表情が印象的だった。

 目が覚めたのに、まだその表情、おぼえてる。なんか、胸が締めつけられるみたいな気持ちになる。


 山の中を運転するのって大変だ。沢が流れているすぐ脇を、倫也さんは慣れたハンドルさばきですいすい通っていく。途中、何度も崖道だって通った。

 これ、わたしが通ったら事故起こすなあ。

「はあー」

 ため息をつくと、倫也さんが車内のラジオを止めてくれた。

「疲れた?」

 優しく聞かれて、「正直、車酔いがして」と答える。

「そばに森林公園があるから、そこの駐車場で休むか。トイレもある」

 倫也さんは優しい。お言葉に甘えることにした。

 森林公園は、針葉樹が生い茂る森。うちの田舎の家よりも更に鬱蒼としてる。

 こんな森に対峙すると、「人間なんてちっぽけなんだな」とわたしは実感せざるを得ない。

 トイレから出て、少しだけ、周辺を散策する。大気の状態がいい。

 今の東京は、大気汚染が激しい。そんな東京を変えたくて、面接で熱意をぶつけて、玉砕して。

 封印していた。とても悔しい気持ち。

「そんなに酔ったの?」

 声に振り返ると、倫也さんが心配そうにこちらを見てる。アイスティーのペットボトルを渡された。

口をつけて飲むと、視界がすうっと晴れたように思う。そう、天気がとてもいい。

 標高の高い山。森林「公園」って名前はついてるけれど、わたしたちが遊んだり気軽に立ち入る場所じゃない。

 御神木よりももっと、神様に近い場所だな。

「気分治ったら、車に戻るさ」

 倫也さんはわたしの肩をポンとたたく。わたしも車に戻ることにした。

 森の中のカフェは、それから二十分くらい車で行ったところにあった。洒落た木造のおうち。ハンバーグを左手に持った大きなテディベアが出迎えてくれた。

 ドリンクのメニューも豊富。「カシスソーダ」、「梅ソーダ」、「青リンゴソーダ」。

「どれにしよう」

「森のハンバーグ」定食を頼むとは事前に決めてあったため、ドリンクやデザートでたっぷり悩む。

「黒蜜とハチミツのドリンクにする」

 ようやく決めると、倫也さんが店員さんに注文してくれた。

 よく考えたら、人生初のデートだ。

 何、話そう。

「あの照明、綺麗ですね」

 トンチンカンなことを言っても困るので、無難に、店の内装を褒める。女子どうしの集まりとかでよく使う手。

「カナ、さ」

 倫也さんは困ったように笑うと、わたしのおでこに触れる。

「気を使わなくていい。敬語もやめてもらっていい。幼馴染なんだし。オラはずっと、カナに会いたかったさ。小さい時は、東京から来たお姫様だと思ってた」

「お姫様?」

 笑い飛ばそうとしたけれど、できない。

 さっきの弱気を、この人になら伝えてもいいかな?

「でも、平成の今は、お姫様って職業はない。専業主婦の割合だって、年々少なくなってる。わたし、中学生の時から、自然に関する仕事をしたいって思って、地球のこと、誰よりも考えてましたよ。それなのに、進路を決める今の段階で、周りより足踏みしてる。わたしの言葉、ちゃんと、企業に届いてない。こんなで、わたしは、『なにか』になんてなれますか?」

 ああ。少し涙まで出てきた。

 倫也さんは真っ直ぐにわたしを見てくれてる。

「オラはカナに、『何者か』になってほしいさ。広い社会を知ってほしい。でも、その未来って、カナ自身の頑張りが決めることなんじゃないか?」

 思ったよりもうんと厳しい言葉。

「はい」

 とわたしはハンカチで涙を拭いた。

「カナ。ドリンク来たさー。機嫌なおせ」

 倫也さんが言ったとおり、「青リンゴソーダ」と、わたしの頼んだ「黒蜜とハチミツのドリンク」が運ばれてきた。

 すぐに、ハンバーグ定食も運ばれてくる。

「鉄板、熱そう!」

 お腹が空いて空いてたまらなかったことに気がつく。朝、寝坊して食パン一枚しか食べなかったんだものね。

 牛肉と豚肉、中に入ったチーズと紫蘇。

 全て完璧な、とても大きなハンバーグ。

「オラもゆっくり、カナといろいろ話したい。東京帰っても、いつでも連絡くれさ」

 倫也さんが笑って、わたしたちは二人の写真を使い捨てカメラで、店員さんに撮ってもらう。


 一週間、長野には滞在した。その間、倫也さんはあと三回くらい家に訪ねてきて、ふたりで近場に出かけたり、おばあちゃんの家でそうめんを食べたりした。

 一夏。わたしの「婿候補」との夏が過ぎていった。

 わたしはその間、倫也さんにいろいろ教えてもらった。今は、「紹介予定派遣」という選択肢もある。けれど、派遣の仕事で使い捨てられたりすることもある。いい企業と悪い企業の見定め方。

「家庭的、とか、アットホーム、は要注意さ」

「えー。信じそうになります」

わたしが大きな声を出すと、

「まあ、オラのいる会社もそうさ。家庭的でアットホーム。だから、カナには入るのをすすめないんさ」

 倫也さんは、ハハハ、と乾いた声で笑った。少し、仕事の疲れがにじみ出てる雰囲気の笑みだった。

 そうか。社会に出るって、涙も流せないくらいのなにか。

「また来年も、来ますね」

 倫也さんに言う。倫也さんも、とても自然な笑顔。


 夏を満喫していた分、秋からは、怒涛の就活をしながら、卒論を書いていた。メールなんてする暇がなかった。そして、十二月、わたしは一つの会社の内定を得た。

 そこがいい会社とは正直、感じなかった。雰囲気が暗そう、という印象。けれど、ようやく得た内定。

 倫也さんにメールを送る。ようやく、送る。

「内定しました」

 メールがすぐに返ってくる。

「カナ、ほんとおめでとう、オラも嬉しいさ。会えたらいいな。来年、来られる?」

 喜びが伝わってくる文面だった。温かい。携帯電話をぎゅっと握りしめると、無機質な機械から、ぬくもりが伝わるみたいだった。

 でも、来年の夏休み頃、百日紅が咲く頃、わたしはどうしてるだろう?

「来年の夏になったら、行けそうか連絡します」

 あえてそっけなく送信した。これから、卒論の追い込みだ。提出まで、あと二週間しかない。夜を徹しないと間に合わない。

 わたしは来年四月から、「何者か」になる試練に赴くんだ。よくわからない会社に入って、やっていけるのかな。

 きっと、戦いになると思う。

 戦いを乗り越えて、倫也さんと来年の夏に会えるか。

 それはまだ、わからない。





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百日紅の夏 瑞葉 @mizuha1208mizu_iro

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