よくあること

双町マチノスケ

怪談:よくあること

 ふと目をやると、何でもないような所に地蔵が立っている。








 田舎では、よくあることですよね。その辺の道端、田んぼの傍、森の入り口。この村だってそうです。ここのやつは、けっこうな数が並んでたりしますけど。そういった地蔵たちは皆なんとなく不気味だったり、神秘的だったり、優しげだったり。いかにも何かありそうな雰囲気こそあれど実際は気がついた時にはそこに立っていて……いつからあるのかも、なぜあるのかも分からないようなモノがほとんどだというのも、よくある話です。ただ、ひとつだけ確かなことがあるとすれば「その場所にどれほど意味や繋がりが見出せなかったとしても、なんの理由もなく地蔵が立つことはない」ということです。

 地蔵。お地蔵様、お地蔵さん……色々な呼び名がありますが、正式名称は地蔵菩薩じぞうぼさつ。本来は仏教の信仰対象であり、地獄の責苦から人々を救済する代受苦の存在とされています。特に生まれて間もなく亡くなった子供の魂を沈めるためのものは「水子地蔵」と呼ばれたりもしますね。ただ日本においては「気軽に参拝できる身近な偶像」としての側面も持っており、仏教の教義を外れ神道や地域独自の信仰を結びついた結果、お寺以外の場所でも数多く祀られることとなりました。そういう地蔵は基本的に「道祖神」としての意味合いが強いですが、もっと違う意味をもっている場合もあります。








 ……道端に立っている地蔵を拝んではいけないっていう話、よくあるじゃないですか。




 あれは迷信ではないんですが、少し語弊がある言い方なんですよね。別に道端に立っている地蔵の全てが、拝んではいけない存在というわけではないんです。その土地の守り神、いわゆる道祖神として立てられた地蔵であれば問題ありません。しかし、死者の供養のために立てられた地蔵などを安易に拝むのは良くないこととされています。「そういう地蔵には供養されている魂のみならず成仏しきれない魂や悪霊もよりついてしまうため、むやみに拝むとそれらに憑かれてしまう」という理由のほかに「そもそも供養されているのが流産などで亡くなった子供だったりすると、悪意なく生きている人間に吸い寄せられてしまう」という理由もあります。

 つまり地蔵そのものは、手放しに良いとも悪いとも言い切れない存在なんです。地蔵は立てられた由来によって「拝んでもいいもの」と「拝んではいけないもの」に分けることができて、なぜ立てられたのか分からない地蔵を安易に拝むべきではない……そして道端に立っている地蔵には、そういう由来不明のものが多いという話です。重要なのは「その地蔵が道端に立っているかどうか」ではなく、「その地蔵がなぜそこにあって、何を祀ったり供養したりしているかが分かっているかどうか」です。そこに地蔵が立っているからと言って、祀られているのが神様や安らかな魂とは限らないんです。悪霊や生まれることすらできずに不完全なまま、命を吸い取る存在に成り果てたものだっているんです。もしかしたら本来は地蔵に祀るべきではないものを、無理矢理に封じ込めている可能性だってあるんです。




 ……拝んではいけないものは、本当に拝んではいけないんです。




 そもそも地蔵に限らず、何かが祀られているものを拝むということは、そこに祀られているものがどのような存在であれ、その「何か」と関わりを持ってしまうということなんです。私たちは、ご利益とかご加護といった良い結果をもたらしたものは「神様」や「仏様」など、呪いや祟りといった悪い結果をもたらしたものは「妖怪」や「悪霊」などと呼び分けているにすぎません。かみみたまあやかしも、その本質は「私たちの理解が及ばぬ異質な存在」という、ただ一点において同一です。だから拝むという行為自体、本当は気安くしてはいけないんです。ましてや何が祀られているかも分からないようなものを拝むというのは「罰当たり」という言葉では到底片付けることのできない、一般的な認識よりも遥かに危険なことなんです。

 なぜこんな話を長々としたのかというと、最初にお話しした通りここには由来不明の地蔵が何体も並んでいて、それを見に何年か前から村の外の人が時々来るようになったのですが……考えなしに拝んでしまう人が、よくいらっしゃるんです。そして、そういう人たちに今お話ししたような内容を言っても聞く耳を持ってくださらないというのも、よくあることでして。もちろん、由来が分からない以上は「良い存在」である可能性もあるということですが……








 ここのは、絶対に違います。






 私は、ここに並んでいる地蔵は何が祀られているか分からないから拝んではいけないということを来る人たちに呼びかけ、「拝まないでください」と書いた看板まで立ててるんです。なのに拝んでしまう人は、みんな吸い寄せられるように拝んでしまうんです。看板なんか、全く見えていないかのように。そして、そういう方に話を聞くと「拝まなければいけないと思った」とか「気がついたら拝んでいた」といったことを、よく仰るんです。これだけならば、不気味なだけで終わっていたかもしれません。拝んでしまった人たちも、その時点では何事もなく帰っていかれるのですが……

















 よく、戻ってくるんです。




 朝や昼間の明るい時間帯に来て拝んでいった人たちが、早ければその日のうちの、遅くても何日かしたあとの夜に戻ってくるんです。明らかに、精神に異常をきたした様子で……戻ってきた時は音で分かります。日本語のようでどこか違う、よく分からない唄のような念仏のようなものを唱えながら歩いてきますから。声を張り上げている感じは一切ないのに、家の中にいてもハッキリと聞こえるほどの不自然に大きい音量なんです。田舎の静かな夜に、その音が不気味に響き渡ります。このことが分かってからは、ほとんどの家は戸を固く閉ざし窓を閉め切っています。私の家は窓から地蔵の場所が見える位置にあるので、戻ってきた夜は少しだけカーテンをあけて様子を伺うんです。








 戻ってきた人たちと一緒に、変なものをよく目にします。




 見えないこともあるんですが、大抵は見えます。並んでる地蔵の中から、何かが出てきてるんです。あまり距離が近くないのではっきりとは分からないのですが、手足が異常に長い、黒い人のような何かでした。私はそれを見て「あぁ、また連れていかれちゃうんだな」って、カーテンを閉めるんです。助けないのか、とお思いでしょうか。あの地蔵がどのようなものなのか、私たち自身も分からないから助けようがないのです。それにあの地蔵は、私たちには無害です。それはひとえに「関わっていない」からだと思うんです。どうにかすれば助けられるのかもしれませんが、下手に干渉したら……関わりを持ってしまったら、今度は私たちの身が危ないんです。だから、こうするしかないんです。

 そのあとは嫌な音が、よく聞こえてきます。何かの鳴き声のような音、肉が裂けるような音。ぐちゃぐちゃと噛んでいるような音、何かをすすっているような音、何かを……絞り出しているような音。そんな生理的嫌悪感を感じるような気持ち悪い音が、一晩中聞こえてきます。当たり前ですが、とても眠れたものではありません。正直に言って、どうにかしたいです。あの連れていかれてしまう人たちも、助けてあげたいです。でも、どうすることもできないんです。分からないから。分からなくて、怖いから。


「あれ」に対して私たちが出来るのは、ひたすらに目を背け続けること。

 ただ、それだけなんです。




 そして、何事もなかったかのように次の日がやってくるんです。




 その日の朝は、村人の全員が目に大きなクマを作っています。皆げっそりとしています。皆、憂鬱な気持ちで満たされています。体調が悪くなって倒れてしまう者も、よく出てきます。みんな心の奥底では、おかしいって分かってるんです。いつの間にか何かが住み着いていたみたいに、村の誰も「あれ」の由来を知らないことも。そもそも「あれ」が、地蔵の皮を被った何かだということも。それでも「よくあるね」「最近多いね」って、お互いを慰め合うんです。人間は「分からない」ということが一番怖い生き物です。何かにつけて説明できるもの、納得できるものを求める人間は、無理矢理にでもそれらを生み出すものなのです。








 そして……拝んだ人が戻ってきた時、中から何かが出てきていたあの地蔵たちも、何てことないような佇まいで並んでいます。普通の地蔵となんら変わらない、穏やかな表情で。






 でも、ちょっと変わっています。


















 数が増えてるんです。








 よく……あるんです。

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