穴と僕
真花
穴と僕
夜には胸が震える。
1Kのアパート、家財はベッドとテレビとタンスくらいしかない。この部屋に越して五年が経つ。桜の精が開け放った窓から流れ込んで来ている。満腹で、風呂にももう入った。後は寝るだけだ。……まだ時間がある。
僕はベッドの上。
いつもならテレビで誤魔化すか、漫画で埋めるか、音楽でお茶を濁すかをして、やり過ごす。だが今日に限っては観たい番組も、読みたい漫画も、聴きたい音楽もない。座って、胸の音を聞く。
我慢比べのようだ。
一つ一つの呼吸に振動が混じっている。窓の向こうには月が見える。三十分は座ったままで耐えた。
――ダメだ。意味がない。
僕は今日を終わらせることに決めた。
窓を閉める。
スマホでアダルトサイトを開いて、お気に入りの動画を検索する。女の子がかわいくて、いい声を上げながらオナニーをする動画だ。ここのところそればかり使っている。
しかし、動画は削除されていた。
「マジか」
企てへの敗北を宣言するように、仰向けにバタンとベッドに倒れる。視界の端に違和感があり、目を凝らす。
壁に、穴があった。
起き上がって近付いてみると、薬指の太さくらいの穴が開いている。僕は自然にそこに目を寄せた――
ベッドがあって、その上に女性が座っている。視線の感じからしたら、テレビを観ているようだ。これは、お隣さん? いや、それしかあり得ない。女性はパジャマを着ているが、薄手で、うっすらと乳房の形が見える。音は聞こえない。女性が立った。目で追える。視野から外れた。きっとトイレだ。
僕の鼓動は煩いくらいに跳ねている。いつの間にか局部がギンギンに硬くなっている。
戻って来た。女性は元の場所に座る。座って黙ってテレビを観ている。それだけなのに、僕は僕のは、堪らなくなっている。右手を動かしたらすぐに果てた。これまでに感じたことのない深さの快感に、声が漏れそうになるのをぐっと堪える。そのまま女性を見ていたかったが、女性は電気を消して寝てしまった。
自分の部屋に意識を戻す。
「えらいものを見た」
僕は犬のようにはあはあ言っている。この穴はきっと向こうからは見えにくい場所にあるのだ。だがこっちの光が漏れないようにした方がいい。
適当なものが見付からなかったので、コミックを一冊ガムテープで貼り付けた。
これが今日だけの興奮なのか、それとも僕にとって最も性的な穴を見付けたのかは明日にならなくては分からない。程よい眠気が来て、僕は寝る準備をしてベッドに入る。
だが、興奮が眠気に拮抗する。穴の向こう側の、女性が座っている絵が脳裏から拭えない。どうしようか。……二回は多いか。僕は残像を楽しむことに決めた。眠気がすぐに押し勝った。
女性のライフスタイルはきっと、早寝早起きだ。だから、なるべく早く帰らなくてはならない。僕は仕事をばっちりと終わらせ、さっさと食事を済ませてアパートに急いだ。シャワーを浴びて、準備万端で、コミックの蓋を開ける。
穴の中の光景は昨日と同じだった。すぐに僕の獣が僕を染める。勃起する。
女性はテレビを観ている。昨日と同じパジャマ。僕も昨日と同じことをしたいが、してしまったら終わってしまうので我慢する。息が荒くなる。変わらない景色に、どうしてこんなに反応出来るのだろう。自嘲する暇はない。僕は太陽が照り続けることに全力であるのと同じように、女性を見続けた。そして女性がトイレに行って戻って来たのを合図に、右手をかいた。昨日と同じなら、この後寝る筈だ。
予測通り、女性は電気を消した。僕は快楽の向こう側にいて、コミックで蓋をする。
これが毎日のことになった。
土日は昼間はどうも見る気になれなくて、夜になってから見た。
コミックではない、ダンボールの蓋を作った。
十日目。
「ミカちゃん、今日も元気かな」
女性に名前を付けた。本名は苗字も知らない。
蓋を取って見ると、ミカはいなかった。いや、ベッドの上に横になっている。
股の辺りを触っている。
声は聞こえない。
だが、間違いない。
――こんなことって。
僕の興奮はミカのそれを一気に追い抜いて、寸前のところに構える。僕はミカと一緒がよかった。きっと見ていればそれは分かる。
ミカが艶かしく動いてから、小さく痙攣する。僕はそれに合わせた。ミカはその後しばらく動かず、やがてゆっくり立ち上がった。僕はまるでミカと一つになったような感覚に、肉体的なもの以上の喜びを感じた。
その日を境に、ミカが普通にしていても、僕はミカと繋がっている感覚で射精をするようになった。それを繰り返す度に、ミカが自分に近付いて来ているように感じた。
――ミカちゃんは僕のものだ。
そう思うようになるのに時間はかからなかった。だって、僕のものなのだから。
サツキが咲き、蝉が鳴き、紅葉が色付き始めても、毎日、穴と僕でいた。
今日もミカに会うために、穴に向き合う。
ミカ以外の人間がいた。男だ。
――僕のミカちゃんに何をするつもりだ?
僕の局部は静まり返っていた。怒りが体を焦がしていた。あいつはミカちゃんの男なのか。違うのか。違ってくれ。思っても、届かない。二人は服を脱ぎ、体を重ね始めた。
大事な人が汚される、だが僕は何も出来ない。胸が張り裂けそうになり、涙が流れた。それなのに、二人のセックスが熱を帯びるにつれて僕の局部は激しく反応する。僕にはどうしようも出来ない。穴から目を逸らすことも涙を止めることも局部を収めることも出来ない。
僕は泣きながら、右手を動かしてしまった。
その快感は鈍い金属のような味がした。
「ミカちゃん」
二人も済んで、離れる。僕は急にいたたまれなくなって、穴を塞いだ。
僕は多重に敗北した。体はしばらくしたら元に戻ったが、涙は止まらなかった。
ミカは次の日からまたいつもの夜を過ごすようになり、従って僕もミカを見た。負けた感覚は胸の端に残っていて、だが興奮はいつでもあって、自分が何者なのか考えた。
――世界で一番ミカちゃんを愛している者だ。
一ヶ月後に、男がまた来た。
二人のやり取りを見ていたら、男がミカを殴った。一発、二発。やばい。僕のミカちゃんが!
僕はすぐに服を整えて、玄関を潜り、ミカの部屋のドアを強くノックする。中からする暴力の気配が、ふ、と止み、ドアが開く。男だ。
「何ですか?」
「暴力の音がしました。警察を呼びます」
「そんなことしてないですよ」
見ていたとは言えない。
「聞こえていました。後ろに女の人がいるでしょう? ちょっと出して下さい」
男は顔を引き攣らせる。
「女は出せない。なあ、警察は困るよ。俺はもう帰るから、お互いに何も知らなかった、そうだろう?」
「もう来ないなら、いいですよ」
「ああ、もう来ないよ。元々そのつもりだ」
男は部屋の中に戻り、上着を着たら、へっ、と言って出て行った。僕は奥にいるミカを呼ぼうとして、本名を知らないことに一瞬お手玉してから、声を出す。
「お姉さん。大丈夫ですか?」
「ありがとうございます」
ミカはよろよろと玄関まで歩いて来る。顔は殴られていないようだ。僕は上から下までミカをスキャンするように見て、外着の姿を見るのは初めてだった。
「戻って来ますかね?」
「それはないと思います。別れ話でしたから。別れるなら金をよこせって。断ったら殴られました。別れて正解ですね。さっきの、『警察呼ぶ』は、強烈な楔になったと思います」
ミカは強気に笑う。
「それならよかったです」
「でも、よく聞こえましたね」
僕は弱気に笑う。
「耳がいいんですよ。それに壁が薄いですから」
「確かに薄いですね。……助けて頂いたお礼に、何か晩御飯ご馳走しますよ」
「え? いいんですか? お邪魔します」
「いやいや、流石に初対面の男性を部屋には上げません。その辺でどうですか?」
「ああ、そう言うことですか。じゃあ、ちょっと上着を取って来ます」
僕は部屋にパッと戻って、サッと準備をしてミカの所に戻る。
「私、白木玲子(しらきれいこ)と言います」
ミカではなかった。
「僕は玉井良(たまいりょう)です」
「じゃあ、玉井さん、行きましょう」
アパートの階段をカンカンと音をさせて降りて、肌寒い、横並びになって歩く。白木が僕の顔を見る。
「何か好きなものとかありますか?」
「何でも食べます」
「じゃあ、イタリアンにしましょう」
僕は白木に返事をしながら、僕は君の乳房の形も知っているのだ、と胸の中で呟いた。その呟きが白木に聞こえることはないし、聞こえてはいけない。だが、僕は実は生活を見ているのだと言うことを自分の中にしっかりと立てておきたかった。目の前にいるのは白木だが、ミカでもあると重ねたかった。
イタリアンに着き、パスタをそれぞれ注文した。
「玉井さんは、もうあのアパート長いんですか?」
「五年はいますね」
「お仕事と近いとか?」
「そうですね。三十分くらいですね」
「私もそんな感じです。朝が早いから夜寝るのが早いんですよ」
――知っている。
「そうなんですね。大変ですね」
「声って、そんなに漏れますか?」
――声じゃない情報で掴んでいる。
「いや、そうでもないですよ。今日は流石に聞こえましたけど」
「よかった」
目の前に白木ことミカがいる。想定される自分の体の現象が全くない。すなわち、勃起しない。いつも穴から見るとすぐに勃つのに、生のミカを目の前にして無反応だ。もちろん、反応したらヤバい状況なのは分かっている。だが、反応しないのもヤバい状況だ。
取り止めのない会話をしながらパスタを食べて、では、と言って別れるまで無反応は続いた。僕は、部屋に戻ったらすぐに穴を見た。
そこにはさっき別れたばかりのミカがいた。
僕の局所が即反応する。痛いぐらいに硬くなる。
ミカは洗面に行った後、風呂場に向かった。しばらくは帰って来ないだろう。僕はその隙に自分もシャワーを浴びる。全部が済んでから穴を見ると、ミカはまだいない。僕の局所は硬いままだ。
ミカが戻って来た。パジャマを着ている。テレビを観始めた。
僕の興奮が最高潮に達して、右手が自然と動く。熱いものを放出する。
僕は穴に蓋をしたら、ベッドに横になる。……ミカに出会ってから、胸の震えがない。だが、それは白木ではない。
――白木さんじゃダメなんだ。ミカちゃんじゃないとダメなんだ。僕が愛しているのは白木さんじゃなくて、ミカちゃん。穴の向こうにいる、ミカちゃん。
(了)
穴と僕 真花 @kawapsyc
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