終章

「……陛下、それでもう五杯目の甘酒ですよ」


 口のなかいっぱいに砂糖でも入っているかのように顔をしかめ、航が呆れ返った声で言った。


「いや、その、何か飲んでいないと落ち着かなくて……。かといって、お酒を飲むのは逃避しているみたいで、凪に申し訳が立たないような気がして……」


「でしたらお茶をお飲みになれば……」


 沙織の素直かつ真っ当な提案は、


「でも、あまりお茶を飲むとご不浄に行きたくなるわよ」


 水際にあっさりと却下されてしまった。


「二人とも緊張感がないなぁ……」


「それは、航さんがずっと召し上がっているお煎餅の音のせいですわ」


 料理長である航にも、水際は容赦がない。


「だって、おれは甘いものは得意じゃないし……」


「だからって、よりによってこんなときに、歯が欠けそうな堅焼き煎餅を召し上がることはないじゃありませんか」


「こんなときだからこそ、気をまぎらすためにいちばん好きなものが食べたいんだよ」


「でも、陛下だって、いちばん好きなお酒は飲んでいらっしゃらないのですよ?」


 二人の応酬に広海と沙織は微苦笑し、洋子と蒼太はにっこりする。そのとき、


「陛下!」


 髪と着物は灰色、帯は辛子からし色で着物には黒い斑点のある、眠鱶人ねむりぶかびとの少年が談話室に入ってきた。凪の手術を手伝っていた看護人の少年だ。心臓がひときわ大きく跳ねるのを覚えながら、広海はガタンと椅子を揺らして立ち上がった。


「ご安心ください、凪さんの手術は無事終わりましたよ」


 少年の笑顔とことばに、全身の力が抜けていく。へなへなと椅子に座りこもうとしたが、


「わっ!」


 椅子がやや後ろに移動していたせいで、危うく滑り落ちそうになった。


「行く末が不安というか何というか……。陛下は無傷で凪さんとの関係を深めていけるのかねぇ」


 航が額を押さえて言い、沙織と水際は示し合わせたようにうなずく。洋子と蒼太は笑みを深め、看護人の少年はこらえかねたように吹き出した。


     ***


「おはようございます……!」


 手術のあとも、凪の朝が厨房から始まることは変わっていなかった。むろんはじめの十日ほどは安静にさせてもらっていたし、させてもらっていたというよりはむしろさせられていたのだったが。


「おはよう!」


 航、沙織、水際をはじめ、厨房の鮫人たちが口々に挨拶を返してくれた。


「おはようございます。あっ、今日も凪さんに先を越されてしまいましたね」


 背中には、凪よりもやや大人びた女性の声。振り向いた先にいるのは、そばかすの似合う可愛らしい少女だ。もともと白かった肌はますます白く透きとおるようになり、髪は本来のものであろう濡羽色になっている。


 手術のあと大きく変わったことのひとつに、雪子もまた手術を受けて龍宮の一員となり、厨房の手伝いを始めたということがある。凪に負けず劣らず料理上手な雪子はたちまちなくてはならぬ存在となり、水際など「凪さんと雪子さんの二人で沙織三人分の戦力」と言っている。沙織は「ひどーい!」と唇をとがらせたが、水際は「沙織四人分の戦力だって言われなかっただけ良しとしなさい」と、悪びれもしなかった。


 朝食を作り終え、凪たちの朝食も後片づけも終わると、凪は今日も厨房を貸してもらった。――今日は、広海が再び海を案内してくれる日なのだ。


 米を炊き、ぶり大根、卵焼き、菠薐草ほうれんそうと人参の白和え、白菜の浅漬けを作り、熱いものは冷まして弁当箱に詰めた。後片づけをして風呂敷で弁当を包むと、一度部屋に戻って図書室で借りていた本を持ってくる。返却日は三日後だが、万一返し忘れてしまったら次に読みたい鮫人にも蒼太にも迷惑をかけるし、一日でも早く返せば次に読みたい鮫人が喜んでくれるかもしれない。


 図書室で本を返却し、明日以降に借りる本を書棚で物色していると、


「おはようございます、凪さん。来週は新しい本がたくさん入ってくるんですよ」


 本を抱えた蒼太が声をかけてきた。


「本当ですか?」


 凪が目を輝かせて指を組むと、


「はい。凪さんお気に入りの切花きりかさんの新作も、いまの凪さんの水準にぴったりな、鮫人語を学ぶための本もありますよ」


 蒼太もまた喜びを隠しきれない様子で、人差し指を立てて続けた。切花とは、主に怖くてふしぎな話を、繊細な絵と平易だが研ぎ澄まされた文章で描く、達磨鮫人だるまざめびとの絵本作家だ。凪はもう、五、六歳の子ども向けの本の鮫人語ならほとんど読めるようになっていたし、街で広海に贈られたあの本の影響か、そういう物語に惹かれるようになっていた。


「来週が待ち遠しいです。あっ、わたし、そろそろ……」


「知っていますよ。陛下と街に行かれるのでしょう。楽しんでいらっしゃってください」


 蒼太は人差し指以外の指も伸ばして手を振った。


 渡さんや沙織さんや水際さんだけじゃなくて、蒼太さんまでご存じだなんて……。


 凪は頬を染め、ややどもりながらも礼を言って図書室を出た。廊下ですれ違った洋子にも「楽しんできてくださいませね」と言われ、龍宮中の鮫人が知っているのではないかとさえ思う。


 二ノ城の入口で待っていると、数分後に広海が現れた。白藍色の着物にはなだ色の帯を締めており、白い髪を隠す頭巾も前回とは異なるものだ。凪は知る由もないことだが、これは広海が前回と同じ格好で凪に逢おうとしていると知った航がとんでもないと言って勧めた――というよりもほとんど強制したものである。


 青鮫人の兄弟が車を牽いてきて、


「再びのご指名、まことにありがとうございます」


 弟は律儀に礼を言い、


「いま掛かっている活動写真のなかでのいちばんのおすすめは、『真説怪魚屋敷』ですよ。怪奇ものと悲恋ものが奇跡的な融合を果たしていて、わずかな表情の動きで雄弁にお互いへの想いを語る主演二人の演技や、地味ながらも……いえ、地味だからこそじわじわと恐怖感を煽る演出も高く評価されているんです!」


 兄はうきうきと活動写真の話を始めた。


 よかった、お二人はちっとも変わっていない……。


 凪は何だかほっとした。実際にはふた月と経っていないのだが、あの事件とその後のさまざまな変化のために、あの日がずいぶん遠い、もやか何かで隔てられたところにあるもののように感じられていたのだ。


 もっともそういう述懐は口にせず、かといって無理をしたわけでもなく、


「はい、わたしもあれが観たいと思っていたんです……!」


 凪はごく自然に兄の話に乗った。


「じゃあ、今日の活動写真はそれに決まりだね」


「あっ、で、でも……『名もなき怪物』や『二重人格奇譚』や『鮫々博士』も話題を呼んでいますよ」


「こういうときも率直でいいんだよ、凪。それに、私も『真相妖魚屋敷』は気になっていたんだ」


 凪と広海の会話に、


「全部怪奇ものだ……」


「題名が間違ってる……」


 青鮫人の弟と兄のつぶやきが混じった。


 今日も広海が先に車に乗り、凪の手を取って引き上げてくれた。だが、青鮫人たちが車を牽きはじめても、龍宮の敷地を出て車が浮かび上がっても、広海はその手を離そうとしない。


「あ、あの……!」


 これでは、どきどきしすぎて景色を眺める余裕などない。だが、むろん離してほしいわけでもない。いつもは凪のどんな片言隻語へんげんせきごにも誠実に応えてくれる広海も、いまは素知らぬ顔で正面を向いている。――いや、いまだって応えてくれなかったわけではない。その手にこもる力は心持ち強くなったのだから。


 そうだ。手を握られるくらいのことには慣れなくてはいけない。だいたい、広海はそれ以上のことをしてくれた――凪を抱き上げてくれたことも抱き寄せてくれたこともあるではないか。


 だが、好きなひとに手を握られるという、ささやかだが紛れもない奇跡を、「くらいのこと」などと表現してよいのだろうか。慣れてしまったらそれはそれで淋しいのではないだろうか。


 ――贄として捧げられた薄幸の少女は、海と陸の誰よりも幸せな大鮫の恋人となり、恋が叶ったがゆえの葛藤に小さな胸を悩ませるのだった。


〈了〉

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鮫神と贄の乙女 ハル @noshark_nolife

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