第三十九話 第二の告白

「ありがとう……」


 広海はやや目じりを下げて口角を上げたが、すぐにまた唇を引き結び、


「浜辺で沙織が……」


 静かに語り出した。


「狼人の世界にはいくつか掟があって、狼人が人間に殺されたら、狼人の王は敵討ちをしなければならないと言っていたのを覚えているかい?」


「は、はい……」


 予想もしていなかった話題に戸惑いながらも、凪はうなずいた。いくら非日常的な状況にあった――というよりも非常事態に近かったとはいえ、あんな印象深い話を忘れるはずがない。


「じゃあ、鮫人の世界にもいくつか掟があって、破ろうとしても体が勝手に動いてしまって従わずにはいられないという話も……?」


「はい……」


「そうか……」


 広海は少しだけ安堵したようだったが、すぐに、安堵してしまった自分を恥じるように眉を曇らせた。


「……鮫人の掟のひとつにね、人間が玉手箱を求めて海に入ってきたら、鮫の王はそのひとを殺さなければならない、というものがあるんだ。決して人間の手に玉手箱を渡さないために……。どんな善人でも、どんな善良な目的があったとしても……」


 凪の胸のなかで、無数の羽虫がいっせいに飛び立ったような気がした。羽虫たちは四方八方に飛び回って不吉な音を立てる。


「君のお父さん……ルイスさんは、玉手箱が何でも願いを叶えてくれる箱だという噂を耳にしたんだろう。十年前のある夜、ひとりで舟に乗り沖に漕ぎ出してきて、『大鮫様、どうか私に玉手箱とやらの力をお貸しください。悪いことには使いません。私はただ娘を、妻を、義父を、幸せにしたいだけなのです』と訴えたんだ……」


 鮫人の掟とルイスの言動。二つの事実が結びつき、新たな事実が浮かび上がる。できれば直視したくない残酷な事実が――。


「そう……自分の意思ではなかったとはいえ、、凪」


 広海のことばが、巨大な鉛の塊のように凪の胸にのしかかった。


「君にはいくらなじられても罵られても当然だ。ルイスさんが生きていたら、君は銛田家に引き取られることも、八年間もあんな目に遭わされ続けることもなかったかもしれないのだから……」


 凪はきつく目をつむってうなだれる。


 いまこそわかった。ようやくわかった。


 広海が初めて本を持ってきてくれたとき、「こんなことまでしていただくわけには……」という凪のことばに、なぜ「何を言うんだい。むしろこんなことでは……」と言いかけて口をつぐんだのか。


 龍宮案内の日、航が広海と凪の仲をからかうようなそぶりを見せたとき、なぜ広海がたしなめたのか。


 海案内の日、凪を部屋まで送り届けてくれたあと、なぜ広海が憂わしげな顔をしていたのか。


 ――広海はずっと、自分がルイスを殺してしまったことへの罪悪感を抱え、罪滅ぼしをしたいと思いながらも、罪ゆえに凪との距離を縮めることをためらっていたのだ。


「真帆も言っていたとおり、悪いことをするのは人間だけじゃない。反対に、雪子さんのように命懸けで君を助けようとしてくれる人間もいる。種族に関係なく、感情やいわゆる『知性』を持つ生き物のなかには、善人も悪人もいる。善人とされている者だってときには悪いことをするし、悪人とされている者だってときには良いことをする。そもそも、善悪を判断する絶対的な基準なんて存在しない。それでも私は、義彦や正彦が君にした仕打ちは絶対的な悪だと信じているし、自分がルイスさんを殺したことを正当化するつもりもないけれど……。そのことを踏まえたうえで、陸に戻るかここに残るか決めてほしいんだ」


 毅然とした広海の表情と口調は、常日頃のいささか頼りない姿とは別人のようで、このひとはたしかに鮫の王なのだと実感させるものだった。


 凪は今度はやわらかく目を閉じ、活動写真を観るように、脳裏に映像が浮かぶに任せた。


 夢のなかで凪を詰ったルイス。


 死の間際、悲しげに凪を見上げた武雄。


 銛田屋敷で、「必ず凪さんを逃がします」と宣言した雪子。


 一瞬で義彦を噛み殺した大鮫の姿の広海。


 つい先刻、武雄に凪を攫わせたことを心から詫び、悔いていた真帆。


 そして――「私にとって君よりも大切なものはないし、君を虐げる者ほど憎むべきものはないんだ。たとえ王として失格だとしても……」と告白してくれた広海。


 海も陸も、鮫人も狼人も人間も、本質や根本は同じなのだ。


 ずっと、いつかこの世で父さんに再会できるかもしれないっていう希望にすがって生きてきた。


 その希望はとっくの昔についえていたことがわかってしまった。


 でも……。


 いまのわたしはその希望にすがらなくても生きていける。ここに居場所があるから。仲間がいるから。何よりも……好きなひとがいるから。


 広海様が父さんの命を奪ったことに、全然わだかまりを感じないっていったら嘘になる。でも、広海様が恋しいっていう気持ちのほうが、わだかまりよりもずっとずっと大きい。それに、広海様だって父さんの命を奪いたくて奪ったわけじゃない。そのせいでどんなに悩み苦しんでくださったかもわかる。どんなに償いをしたいって思ってくださっていたかもわかる。


 だから……。


 凪はゆっくりとはしばみ色の目を開け、広海の漆黒の目と合わせた。


「――決めました。わたしは、ここに残ることを選びます。どうか手術を受けさせてください。何があっても何を知っても、この龍宮が、鮫人の皆さんが大好きですし……広海様をお慕いしていますから」


 言っているあいだは妙に肝が据わっていたのに、言い終えたとたんに猛烈な羞恥に襲われ、全身から火が出そうになった。たまらずうつむいてしまった凪を、


「凪……!」


 感極まった様子で広海が抱き寄せる。体温がさらに十度は急上昇したような気がした。


「あっ……す、すまない」


 広海はふいに――だがそっと凪を押し返してまっすぐに座らせ、真っ赤になって顔を背けた。凪も思わず反対方向に顔を背けてしまう。


 二人はたっぷり十秒はかちんこちんに固まっていたあと、全く同時に顔を見合わせた。まず広海が吹き出し、続いて凪も無性におかしく嬉しくなってくすくすと笑ったのだった。

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