第2話 権利と義務
「権利と義務」
という言葉を聞くと、皆、どう感じるだろうか?
「権利があって、義務がある」
「義務を尽くすから、権利を主張できる」
などと、いろいろな発想が生まれてくるに違いない。
だが、これが、
「大学生と、社会人」
という視点から見るようになると、少し違ってくるような気がする。
まず大学時代であるが、
「大学生には、ほぼ権利しかない」
といっていいかも知れない。
ただ、これは大学生の発想であって、まわりからは、そうは見てくれないだろう。
「大学生というのは、自由ではあるが、その自由は権利というわけではない」
ということである。
つまり、自由というのは、
「推していけられているわけではない」
ということで、
「勉強をしないといけない」
ということに変わりはないのだ。
勉強する時、自由にできるという発想で、勉強するというのは、ある意味、
「学生の本分であり、それを権利というのだ」
ということであろう。
しかし、大学の中にいると、たまに勘違いしている人で、勉強は義務教育の延長のような感覚で、子供の頃から、
「義務だ」
と思っている人がいるだろう。
確かに、国民の三大義務として、
「勤労、納税、教育」
とあるが、この場合の教育というのは、
「教育を受けさせる義務」
である。
つまり、国民の権利として、
「教育を受けるのは、権利である」
ということである。
ただ、今の世の中は、政府の教育問題に対する考えが、右往左往していることで、いろいろな意味での、
「格差」
を生んだりする、
今から50年くらい前というと、
「世界に通用する教育」
ということで、大学が整備され、次第に受験戦争などと言われるものが出てくる。
小学生から、中学受験、つまり、
「お受験」
と呼ばれるものが出てきて、そのうちに、高校生になった頃には、勉強についてこれない子供が増えてきた。
それが、いわゆる、
「校内暴力」
であったり、教師に対しての、
「お礼参り」
と呼ばれる暴力になって、社会問題化したのだ。
あの頃の教師というと、今の学校と違い、
「教師が生徒を平手打ち」
などというのは当たり前のことで、行き過ぎる体罰なども、平気で行われていた。
特に、運動部であれば、よくあることで、
「先輩が、後輩を聯来責任で、殴る」
というような、いわゆる、
「軍隊形式」
が当たり前の時代だったのだ。
それが、次第に非行というものに走り、退学されたりした生徒が、卒業式などを狙い、学校を襲ったり、学校内でも、暴力が増えて、
「ほとんどの窓ガラスが割られている」
という学校も、珍しくはなかったのだ。
そんな問題から、次第に、
「ゆとり教育」
というのが叫ばれるようになり、大人と同じように、
「週休二日制」
というものが生まれてきた。
しかし、そのわりに、学校内でお、生徒同士のトラブルから、
「苛め問題」
に発展し、それが、
「不登校」
というものになってきて、家では、
「引きこもり」
と呼ばれ、
「暗い部屋でゲームばかりをしている」
ということになるのだ。
だが、もっと昔でも、確か、不登校と同じような言葉で、
「登校拒否」
というのがあったと聞いたことがあった。
「何が違うんだろう?」
と聞いたことがあったが、正確に答えることができる人など、そう簡単にはいなかったのだ。
ただ、それが、
「ゆとり教育」
と、関係があるのかどうかというと関係性はないように思う。
実際に、苛めの問題は、ゆとり教育よりも、もっと前からあったような気がするからだった。
そんなゆとり教育も、どれくらいだろうか?
「学力の低下が著しい」
ということで、
「昔のカリキュラムに戻す」
というような話になってきている。
問題は、
「教師の質」
だったのだ。
そもそも、今の先生は、ずっとゆとり教育で毎年やってきた人ではないか?
しかも、新しく教師になる人たちは、その、
「ゆとり教育」
で育ってきたのだ。
そもそも、
「詰め込み教育」
というものが分からない。
そこへもってきて、最近では、
「今までの〇×形式や、三択性のような、マークシートではなく、考えさせる論文形式の問題なども取り入れられるようになった」
つまり、
「先生が、忙しくなってきた」
ということである。
企業が、労働基準法の定めてられている労働条件を守っていないような会社を、
「ブラック企業」
というが、実際に、今の教師という職業は、
「そのブラック企業の代表的な職種だ」
と言われている。
「毎日、平均10時間以上の勤務が当たり前だ」
というではないか、
警察と同じで、もし、生徒が問題を起こしたりすれば、夜中であっても、警察に行かなければならなかったりする。その後の対応も、警察から引き継がれると、学校で問題となるだろうから、その対応に追われることになる。
もちろん、普段の教師としての仕事も行いながらのことである。
しかも、
「問題を起こす生徒が複数いれば、どうなるか?」
それを考えれば、とても一人では賄いきれないのだろうが、だからと言って、他の先生や学校が助けてくれるわけでもない。
ストレスが溜まりまくって、その結果、
「病院通いとなり、精神疾患となって、学校を辞めなければいけなくなる」
という教師が、果たしてどれだけいることだろう。
もちろん、教師に限ったことではあないだろうが、どれだけたくさんの人が精神疾患になったかと考えれば、生徒だけではなく、教師も社会問題だということだ。
当然、そんなブラックな話が世間でいわれるようになると、
「教師になりたい」
などという人もいない。
そうなると、人手不足ということになり、
「残っている人員で、同じ数の生徒の面倒を見なければいけなくなる」
というものである。
昔だったら、子供のなりたい職業のベストテンくらいには、教師というものが普通に入っていたのだろうが、今では、なりたくない職業のダントツトップなのかも知れない。
いつ頃からそんな風になってしまったのかというと、
「やはり、苛めという問題が出てきてからではないだろうか?」
という意見もあれば、
「いやいや、校内暴力の時点で、もう教師になりてなんていない」
ともいえるかも知れない。
とにかく、
「相手がある仕事というものほど、難しいものはない」
ということである。
それが、営業の仕事で、対外的なものであっても、事務員などのように、内勤という仕事であっても、人に関わらない仕事というのは、ほぼほぼないといってもいいだろう。
そんな社会において、
「教育というのは、受けるのが権利だ」
ということを分かっている人がどれだけいるだろう。
そういう意味で、権利という言葉をいかに理解すればいいかということが問題になっているに違いない。
「権利と呼ばれるものには、絶えず、義務がその裏側には存在している」
という考え方がある。
それは、今の民主主義の前の、中世の考え方としてあった、
「封建制度」
に繋がってくるのではないだろうか?
封建制度というのは、
「御恩と奉公」
と呼ばれるものであり、
領主であったり、君主は、領民に対して、土地を保証し、その土地を脅かすものがあれば、矢面になって戦うのだが、その時、領民は、君主と自分たちの土地を守るために、兵を出して、戦闘員として奉公するというものである。
この場合の、
「御恩」
というものが、
「権利」
であり、
「奉公」
というものが、
「義務だ」
ということになるだろう。
つまりは、権利を行使しようとすると、義務が伴いのであり、義務を果たすと、権利を保障されたり、論功行賞によって、土地を与えられるという、
「褒美」
というものに、ありつけるということになるのである。
そんな権利と義務を最近は、いろいろな考え方をする人が出てきた。
「権利が、義務を凌駕する」
という考え方。
逆に、
「義務が権利を凌駕する」
という考え方である。
しかし、そのどちらにも言えることとして、その中間というのはないのだ。その考え方として、つまりは、
「権利に重点を置く人は、権利以外をすべて義務だ」
と考える人で、
「義務に重点を置く人は、義務以外をすべて権利だ」
と考えている。
つまりは、
「自分以外はすべて敵だ」
とでもいうような形で、四面楚歌に近いほどに追い詰められていると思っている人なのかも知れない。
しかし、ここ日本では、そこまでの発想があるわけでもない。
ある意味、諸外国でもそうなのかも知れない。そういう意味では、一部の新興宗教のような、
「カルト団体」
のような考え方なのかも知れないといえるだろう。
「中間がないということは、ある意味、遊びの部分がない」
ということで、中立がないことから、その二つが普通にけん制し合っている場合はいいのだが、
「衝突すると、大きな問題になる」
と考える。
しかし、実際には、そんな大きな問題となることはない。
確かに、その二つは相対するものであり、まるで、
「火に油」
という感覚なのかも知れないが、実際に、正反対という意味での、
「表裏の関係だ」
と言えるだろうか。
それぞれに、補う部分があり、どちらかに寄ったとしても、そこで競い合うことはあったとしても、戦争のような、大問題になるわけではない。ある意味、
「切磋琢磨」
という状況に近いのかも知れない。
だから、
「権利と義務」
は、
「水と油」
というものではなく、
「相関関係にあって、決して交わるものではないが、どちらが表に出てきていても、裏が表を妨げるということはない」
ということになるであろう。
「相乗効果」
という言葉があるが、権利と義務というものが交互に表に出てくることで、その扱い方が、理にかなっているのだとすれば、それこそ、相乗効果の表れなのかも知れない。
中には、教育のように、その立場が変わることで、
「権利にも義務にもなるものがある」
と言えるのではないか。
そういえば、あさみの会社では、野球ファンが多いという。
あさみもあまり野球を見るわけではないが、
「巨人と阪神」
くらいは知っている。
「今は、民放であまり野球をしなくなったし、地方に球団が増えたことで、いろいろなファンが多くなったが、昔は、結構な数の巨人ファンと、阪神ファンがほとんどだった時代があったんだ」
と、上司が言っていたことがあった。
その時言っていた言葉として、
「巨人ファンも阪神ファンも、数は多いけど、それ以外の人は、皆アンチ巨人だったり、アンチ阪神だったりするんだよ」
というではないか?
それだけに、完全に、
「敵か味方か?」
に別れてしまい、下手をすると、
「アンチもファンの一種ではないか?」
と言われるゆえんだったりする。
しかし、アンチは完全に、
「ファンではない」
と言い張るであろう。
しかし、やっていることはファンでしかなく、特に野球を知らない人から見れば、
「どっちでもいいんじゃないか?」
と言われるゆえんだったりする。
そんな野球を知らない人が、権利と義務ということを考えた時、
「どちらも、ある意味その世界での両巨頭だ」
という意味で、まるで、
「巨人と阪神のファンのようではないか?」
と考えた時、
「権利というものを中心に考えた時、権利以外のものは、すべて義務になる」
と思うのではないか、逆に、
「義務というものを中心に考えた時、権利以外のものは、すべて権利になる」
と言えるのではないかということだ。
もちろん、
「究極の選択」
のようなものではあるが、果たして、そうなのだろうか?
確かに、相対するものであることから、
「権利以外のものをすべて義務と言われてしまうと、権利でも義務でもないと思っている人がいれば、権利というものに対して、敵対する考えを持つかも知れない」
つまり、余計なことを言われたくないという考えがあるからであろう。
だが、
「権利と義務」
という考えは、
「巨人と阪神」
という考えとは違っている。
権利と義務では、明らかに感じる人が、どちらがいいかということは、ほぼほぼ決まっているからだ。
権利に対しての言葉としては、
「自由」
というものがあり、義務という言葉に対しては、
「束縛」
という言葉が当て嵌まる。
少なくとも、
「自由は好きだという人がいても、束縛がいいという人は、それこそ、SMの世界のMさんしかいないだろう」
というジョークになってしまう。
ただ、自由というものに対して、裏表があることに気づいていない人が、自由や権利の行使を強く訴えるのであろう。
自由というのは、強者、弱者が存在すれば、そこに格差が出るのは当たり前のことなのだ。
公平性を考えるなら、
「どちらかにハンデを与える」
という意味のことがあってもいいのではないだろうか?
しかし、それをすると、そもそも強者と弱者が出来上がったのも、
「強者が努力をして、弱者が努力さえしていれば、同じところに行けた」
というのが分かっていれば、果たして、ハンデを与えてもいいといえるのだろうか?
絶対の公平性を保とうとするならば、
「対戦相手のそれぞれを調べ上げ、いかに公平にするにはどうすればいいか?」
ということを、突き詰めなければいけない。
それが、お互いに果てしないことになるのであれば、どこで妥協をするかということにしかならないが、妥協など、そもそもできるのだろうか?
「ハンデを与える」
ということは、一見、公平性を保たせるという意味で正当性を感じさせるが、実は、これが曲者で、不公平なのかも知れない。
あさみは、そんなことを考えながら歩いていたのだが、その道はいつもの帰り道であり、もう何年も通ってきたところなので、考えごとなどをしていると、後から思い出した時、
「あれ? 私はいつもの道を歩いて帰ったんだっけ?」
と思うに違いないくらいに、マンネリ化してしまって、感覚がマヒしているといってもいいだろう。
いつものように、電車を降りてから、人に飲まれるように改札を抜ける。
数年前、つまり、通勤路の感覚が、毎日少しずつでも、そのわずかな変化に気づいていた頃であれば、人込みの中を一緒になって抜けるなどということはなかった。
「こんなに人がいるのに、煩わしい」
と感じていたはずなのに、今は、意識せずに通り抜けるのだ。
以前は、考えごとをしている時は、意識せずに、人込みの中に入ってしまって、気付いた時には遅く、
「しまった、紛れ込んでしまった」
と思うことだろう。
しかし、意識がある時は、
「人込みなんかに入ると、何を移されるか分からない」
と感じたのだ。
そもそも、あさみは、子供の頃からよく風邪をひいていて、医者からも、
「ウイルスには弱いようなので、あまり人込みには入らないようにしないといけないですよ」
と言われていた。
小学生、中学生くらいの頃はその言いつけをしっかりと守っていた。だが、高校生くらいになると、言いつけを守らなくなる。
伝染病に罹らなくなったからで、
「私は身体が強くなったのかしら?」
と思うようになった。
それとも、
「体質が大人になるにつれて、病気に罹りにくくなってきたのかしら?」
と思うようになったのだった。
だから、高校生になると、部活も、運動部でするようになり、医者も、
「運動をするのはいいことなので、いいと思います」
と賛成してくれた。
ただそれは、彼女が、
「子供の時のいいつけを、しっかりと守る」
ということを分かっていてのことだと思っていた。
しかし、実際には、いいつけを守るわけではなく、運動部に入部すると、そんな体質のことを言ったとしても、言い訳だと思われるので、何も言えない。だから、部活の間で気を付けるといっても、そうもいかない。
特に花粉の時期とか結構きつかった。
といっても、それは自分だけではなく、他の生徒も同じ条件ということで、それこそ先輩が大目に見てくれるはずなどないのであった。
そのせいで、高校2年生の頃までに、悪い方に体質が戻ってしまった。
医者からは、
「気を付けながらするものだと思っていた」
と言われるし、学校で先生からは、
「どうして、医者から注意を受けていたのなら、自分で気を付けないんだ?」
と言われ、
「何なら先生にいえばよかったのに」
という始末である。
まず最初の言葉を言われた時は、
「そんなの後からなら、何とでも言える」
と言いたかった。
そして、とどめの、
「先生にいえばよかった」
と言われた時は、
「何を言っているの? そんなことが言える環境でもなかったくせに。本当なら、先生がそれを作るのが当たり前なんじゃないの?」
と言いたかったのだ。
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