飛び降りの心境

森本 晃次

第1話 権利と義務

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年10月時点のものです。


 世の中には、

「権利と義務」

 というものが存在している。

 それぞれに、単独で発生している場合もあれば、それぞれが、一人の人間の中に共存しているということも多い。

 むしろ、そっちの方が多いのではないだろうか?

 ただ、日本のような民主主義の国だからあることであり、国民という発想でいけば、義務しかない国は、独裁政治の国でしかないだろうし、権利しかないなどという、

「お花畑のような国」

 が存在するとは思えない。

 しかし、さらには、

「そのどちらも発生しない」

 という国は皆無に近いのではないだろうか?

 義務がなければ、国民以外が労働をし、国民を漏れなく食わしているということになる。

 いくら奴隷制度のようなものがあったとしても、奴隷だって食べなければいけないのだし、奴隷でないとすれば、ロボットのような、それこそ近未来のものでなければあり得ないのである。

 しかし、ロボットという発想は、今の人間の考えられる知能では、その開発は、

「無理なのだ」

 と言えるのではないだろうか。

 ロボット開発をするには、

「人間と同等か、それ以上の知能を持っていないとできることではない」

 と言われる。

 なぜかというと、ロボットには、人間のように、

「その場その場での判断を、狂い泣く、遅れることなくできなければいけない」

 しかし、ロボットにはそれは不可能だと言われる。

 なぜかというと、例えば人間がロボットに何か命令をしたとする。すると、ロボットはそれを聴いて、

「どうすればいいか?」

 ということを考える。

 もちろん、最初はそこまでの人工知能は持っていなかったかも知れない。なぜなら、

「人間のいうことだけを聴くようにしておけばいい」

 と思うだろう。

 しかし、ロボットに代替わりさせるということは、少なくとも人間よりも優れていないといけないことになる。だが、ロボットというのは、人間が造り上げるものなのだから、

「人間より、高度なわけはない」

 と言えるだろう。

 しかし、人間にできることなら人間にさせればいいということであり、ロボットの強みは、

「疲れたり、年を取ったりはしない」

 ということで、なぜなら、ロボットであれば、最新式のものを次々作っていいというものだからである。

 しかし、少しでも人間より性能が劣るのであれば、活用は難しい。

「人間だって、使い捨てすればいい」

 と考えてしまうと、まだ人件費の方が安いとなると、人間を使うことになるだろう。

 それだけ、人間というのは、ロボットと同等に考えられるかということで、本当に人間の労働力や、能力は必要がなく。

「ロボットだけがいればいいではないか?」

 ということを、人間以外のロボットが考え始めたとすれば。

「人間を奴隷にしようか。鬱陶しい人間なんかいらない」

 のどちらかになるだろう。

 そんな発想から、今国家では、ロボット開発庁というものが、発足しようとしていた。しかし、これをいきなり発足させてしまうと、国民から何を言われるか分からない。ただでさえ、

「失業率が高い」

 と言われているからだ。

 だが、これも、政府からいえば、言い分はある。

「職につこうと思えばいくらでもあるのであって、国民が、安くてきつい仕事を嫌がってやらないから、そこを外人に撮られているだけだ」

 という話をするのだが、国民とすれば、

「外人を優遇して、企業に対して、外人の雇用を一人あたり、いくらというような補助金を出したりするから、外人ばかりになるんだ」

 という言い分である。

 つまり、

「その分を自分たちにくれれば、俺たちだって、仕事をするのに」

 という理屈である。

 確かに、外人の受け入れを補助金という形で企業にあっせんしている。そんなことをしているから、

「外人は安い給料でも働く」

 ということで、外人ばかりを雇っている。

 都会のファーストフードやコンビニなど、外人ばかりではないか。それを思うと、日本人の言い分も分からなくもない。

 ただ、企業からすれば、外人であろうと、同じことをするのだから、同じ給料というのは当たり前のことで、日本人だろうが、外人だろうが関係ないと思っているだろう。

 そんな街の様子を、

「何で外人ばかりになっちゃったんだろう?」

 と疑問視しているのが、松方あさみというOLであった。

 あさみは、市の中心がにあるオフィス街で事務員をしていた。

「一般的なOL」

 というべきか、四年生の大学を出て、今の会社に入社して、8年。いわゆる、

「大台に乗った」

 と言われる年齢であったが、彼氏がいるわけでもなく、結婚願望があるわけでもないので、言い方は悪いが、

「ズルズル今の仕事を続けている」

 といってもいいだろう。

 仕事の内容は、一般的な事務員であるが、会社がそんなに大きくはないので、庶務の仕事、経理関係、その他もろもろを、2人の社員で賄っていて、パートも2人いるにはいるが、その二人は交代制という感じで、仕事量は、

「2人で一人」

 と言った感じであろうか?

 パートは、給料は安いが、責任はない。まったくないわけではないが、基本的には、社員二人の責任にされてしまう。だから自分たちの仕事だけではなく、パートの面倒も見なければならないということで、

「仕事以上のストレスを感じる」

 と思っていた。

 しかし、それは、この会社だけの問題ではなく、どこの会社もそうだろう。それでも、毎日の生活と、先のことを考えると、

「今が一番いいのかも知れない」

 と感じていた。

 あさみは、大学時代、付き合っている人がいなかったわけではない。

 そもそもあけみは、

「惚れっぽいタイプ」

 だと言われていた。

 好きになったら、猪突猛進なところがあるくらいで、

「私は自分から告白するタイプかな?」

 と言っていたが、まさにその通りであった。

 実際に、好きになった相手に何度か告白して、玉砕したこともあったし、付き合ったこともあった。結果としては、半々くらいだろうか?

 それでも、半々くらいだということを、女友達に話すと、

「それは低いわね」

 と言われた。

 しかし、あさみが見る限りでは、まわりにつき合っている人がそんなに多いという感覚はなかった。それを話すと、

「男の子って、自分から断ることはあまりしないと思うのよ、とりあえずつき合ってみて、ダメだと思うと、結構の割合で、男性から離れていくことが多いのよ。これが一つ上の世代の人には分からないらしいんだけどね」

 という。

「そんなものなの?」

 と聞くと、

「ええ、今の男性は、草食系とか言われて、昔のようにガツガツしてないようなの。昔なら、紳士だって言われるんでしょうけど、今の女性は逆に肉食に飢えているので、そんな男性を冷めた目で見ているんじゃないかしら? だから、そんな女性の目に気づいた男性は、そんな自分の状況に耐えられなくなって、別れを切り出すんじゃないかしら?」

 と彼女はいっていた。

「そんなものなのかしらね?」

 といっていたあさみだったが、確かにその話をしてから、男性と付き合うようになっても、男性から別れを告げられることが多かった気がする。

「相手から別れを告げられるのは、本当だったら辛い気持ちになるんでしょうけど、私はそんなにきつくはないのよね。自分の方から別れを告げることを思えば、相手からの方が気が楽に感じるわ」

 とあさみは思ったのだ。

 あさみは、今社会で問題になっている。

「少子高齢化」

 という問題を無視しているつもりはないが、あまり気にしないようにしていた。

 これは、他の人も同じなのだろうが、

「自分一人が考えたって、社会全体がどうなるものでもない」

 という思いだった。

「この感覚、似たような思いをしたことあったはずだわ」

 と思ったが、それが何かというと、

「そうだ、選挙だった」

 と感じたのだ。

 あさみは、選挙権を持った20歳になってから、数回は選挙にいったこともあったが、もう今はまったくいっていない。

「選挙で誰に入れたって、結局、当選する人は最初から決まっているのよ」

 という、いわゆる、

「出来レースにすぎない」

 としか思っていない。

 今までの選挙結果は、ほとんど、下馬評であったり、評論家が出てきて、コメントした通りになっている。あさみが、誰に入れようが入れまいが、変わりがわるわけではない、当たり前のことであり、

「数万票の差で決まるものを、自分の一票が一体どうなるというのだ?」

 としか思っていない。

 マスゴミや政府のいうように、

「皆さん選挙にいきましょう」

 といって、その言葉でどれくらい増えるか分からないが、確かに投票率によって、与党が勝つか、野党が勝つかということは左右されるだろう。

 なぜかというと、与党のように、投票率関係なく、最初からバック体制ができていて、組織票のようなものが確立しているところは、投票率が低ければ、その分、与党に有利なのだ。

 しかし、組織票以外でも、与党が有利な時もあれば、逆の時もある。そうなると、投票率が上がれば上がるほど、政局の行方は分からなくなるというのが、一般的な話であった。

 ただ、一つ言えることは、

「投票率が低い方が、圧倒的に与党に有利だ」

 と言えるだろう。

 それでも、政府は、

「投票に行きましょう」

 という。

 この理屈を分かっていれば、

「ただ、いっているだけの上っ面なことだ」

 ということが分かるだけに、余計に投票にいくだけバカバカしいと思う。

 なぜなら、政治に興味もなく、ましてや、今のように、野党がどうしようもなければ、

「もう出来レースでも構わない。しょせんは、自分の一票なんて、体勢にまったく影響ないんだから」

 というだけのことであった。

 そんな政治に興味もなく、選挙にいかない若者が多いので、政治家の興味は、高齢者に向かう。

 高齢者は、とにかく選挙にはいくというイメージであった。

 だから、以前、国家がいろいろな政策を打ち出した時、

「明らかに、高齢者優遇の措置だ」

 とマスゴミからも批判を受けるような内容だったのを思い出すと、それも、無理もないことのように思えたのだ。

 あさみは、政府に何の期待も持っていないので、会社にも期待をしなくなった。

「一日一日を、何も問題なく過ごす」

 というだけの毎日になっていた。

 入社してすぐくらいの頃は、大学時代の友達とも、少しは交流があった。

 しかし、今では誰とも連絡を取り合っていない。

「卒業してからも、私たちだけは、連絡を取り合おうね」

 と、大学4年間、ずっと友達だったと思っていた人との約束も、就職してから1年もすれば、

「なかったこと」

 になっていたのだった。

 入社してすぐは、お互いにどちらからともなく連絡をしていた。

 しかし、そんな時に限って相手は研修など、

「覚えなければいけないことが多い」

 ということで、露骨に嫌な声になる、

 もちろん、自分も同じなのだから、相手も気持ちはよく分かる。

 そうなると、声をかけるのも憚られて、次第に疎遠になるのは当たり前のことだ。

「ずっと連絡を取り合おう」

 といって卒業した二人だったが、その時の会話が、まるで数年前の、遠い過去だったように思うのも無理もないことだった。

「高校時代のことの方が、大学時代よりも、最近のことのように思う」

 という感覚は、大学を卒業し、就職した頃に感じていた。

 大学時代にも、

「小学生の頃の方が、まるでつい最近のことのように思う」

 と感じたことがあったが、その時は、

「面白い現象だわ」

 という程度で深く考えたこともなかった、

 しかし、就職してから、研究機関中などの時に、よく感じるようになった時は、

「なぜ、こんなことをしょっちゅう感じるんだろうか?」

 と思うようになった。

 一つの理由として考えられるのは、

「環境が変わったから?」

 というのが、一番に浮かんできた。

 だが、もう一つは、その延長ではあるが、

「そのことに気づくのは、タイミングが必要だ」

 と感じることであった。

 というのも、

「大学四年生というと、学生時代という括りの上では、一番の頂点という認識で、その後就職すると、まるでリセットされたかのように、今度は、社会人としては一年目で、何も分からない、ペイペイだということだ」

 と考えられるからである。

「社会人一年生と、小学一年生、どちらも同じ一年生だ」

 と思うと、

「小学一年生というのは、今では意識はないが、社会人一年生のような苦労があったのかも知れない」

 ということで、記憶の奥を引っ張り出したいと思うのかも知れない。

 その記憶の中で、いかにして、二年生、三年生になるにつれて、成長していったのかということを思い出せば、

「今の社会人一年生というきついと思えるこの状況を、少しでも気楽にできるのではないか?

 と考えるからであった。

 確かに、社会人一年生と、小学一年生では、比較になるものがないのかも知れないが、そんな昔のことを思い出したくなるほど、社会人一年生を、

「きつい時代だ」

 と思っているのかも知れない。

 確かに大学4年生の頃は、あの悪夢だと思った就活を乗り越えて、今の会社に就職したのだ。大げさにいえば、

「就活の中では、勝ち組だ」

 といってもいいだろう。

 だから、就職できた時は、ホッとしたあという気持ちと一緒に、

「よくやった」

 と、自分だけでも、自分を褒めてあげた。

 まさに、微笑ましい感覚だったのだ。

 しかし、大学在学中から、会社で研修のようなことをやったり、

「入社前に覚えておくこと」

 として、資料を渡されたりもした。

 あれだけ苦労のあった就活で勝ち取った会社から言われたことだったので、それほど苦痛という感じもなく、むしろ、

「今から徐々に慣らしていけばいいんだわ」

 と、思うことで気が楽になっていたのだった。

 それでも、就職してからも、覚えることはいっぱいあった。

 ただ何よりも辛かったのは、先輩からの視線であった。

「まだ、学生気分の残っている、ひよっこ」

 とでも思っているのか、明らかにその目は、

「上から目線」

 であった。

 これに関しては、

「少々鈍感な人でも、普通に分かるレベルだわ」

 と思うほどで、そう思っていると、

「先輩たちだって、数年前に同じ思いをしたはずじゃないの?」

 と思うのだが、きっと、

「会社に入って数年、会社に染まってきたのか、それとも、後輩ができて、先輩ということになると、後輩だった頃のことを完全に忘れてしまうのだろうか?」

 と考えたが、後輩である今は、その心が分からなかった。

 そんな一年目を何とか乗り切ると、気が付けば、大学時代の友達とは疎遠になっていた。

 もちろん、会社の先輩と、付き合いがあるわけでもなく、新入社員も自分だけだったので、友達もいなかった。

 もっとも、新入社員が他にいたとしても、友達になれたかどうか? 

「そのあたりは怪しいものだ」

 と思っていたのだった。

「大学時代と社会人との差は何なのか?」

 と言われたとすれば、いろいろな意見もあるだろうし、自分の中でも確かにいくつぃか思い浮かぶ気はしている。

 しかし、ハッキリと言えることは、

「気楽に心を許せる人が、いないのが、社会人としての世界だ」

 と考えるのだった。

 もちろん、

「大人としての、気遣いであったり、考え方は、社会人であれば、たしなみというほどに普通に備わっている」

 と思っている。

 実際に、

「大人の気遣い」

 というのは、実にさわやかな感じがしてくるのだが、社会人というものに染まってくるにしたがって、

「上っ面だけではないか?」

 と思うようになると、どこまでそんな思いに至るのかが、自分でも分からなくなってくるのだった。

 実際に自分ができているのかどうか、正直分からない。それだけに、何が上っ面なことなのか、ハッキリとしないのだった。

 最初の1年目は、友達と連絡が取れないことが寂しかった。

 しかし、1年目の年が押し詰まった年末くらいになり、繁忙期を迎えると、そのあたりが気にならなくなった。

「却って友達なんかいない方が、仕事に集中できる」

 と思ったのだ。

 確かに、忙しいのに、友達と話をしたりしている暇もない。世間では、クリスマスだ、年末だと、賑やかであるが、社会人になると、そんなものは関係なかった。

 大学2年生の頃くらいまでは、浮かれてはいたが、3年生にもなると、

「3年の間に単位をできるだけ取得しておかないと、4年生になってからの就活に影響が出てくる」

 ということで、年末というと、勉強と、

「資料調達」

 で大変だった。

 大学の試験というと、情報がモノをいう。人がキチンとまとめたノートであったり、人から得られる情報が貴重であり、

「過去の問題傾向であったり、先生によっては、毎年同じ問題ばかりが出ている」

 などという、貴重な情報を逃してしまうと、すべてに渡って勉強しなければいけなくなる。

 それが本当なのだろうが、背に腹は代えられない。卒業して、ちゃんと就職できるかどうかは、3年生の後期試験に掛かっているのだった。

 そういう意味で、勉強も資料調達も、滞りなかった。

 だからこそ、大学時代における友達の存在というのは、大切だったのだ。

 しかし、大学を卒業すると、皆新しいところで心機一転、新入社員として、1からのスタートになるのだ。

 入社した会社で、やり方も様々だろう。ただ、大学気分を一新しなければいけないもは事実だし、早く、会社に慣れなければいけなかったのだ。

 社会人になるということがどういうことなのか、正直、学生時代に想像もつくわけがないと思うようなことであった。

 一年生と言っても、

「知ってて当然」

 と、先輩が感じることが多いようだった。

 自分たちだって、その道を通ってきたから、簡単に社会人になれないことなど分かっているはずなのに、そこまでいうのは、

「愛のムチ」

 なのか、

「自分たちだって同じように、先輩から受けた禊だ」

 ということであろうか?

「社会人として、何が大切なのか?」

 ということを、新入社員の時に、考えておくといいという話をしてくれた先輩がいた。

「なるほど、確かにその通りだ」

 と感じた。

「2年目になると、1年目とはまったく違う態度をとられる。つまり、1年目にこなしておかなければいけないことをしておかないと、容赦なく、一歩進んだ階段にいるものだと上からは見られることになる」

 というものであった。

「社会人というのは、そんなに厳しいものなんですか?」

 と聞きたかったが辞めた。

 どうもその先輩は、優しいのだが、当たり前のことを当たり前ではないという感覚で質問をすると、急に、

「そんなことも分からないのか?」

 とばかりに切れるところがある。

 だから、助言は助言として聞いておいて、それをまともに受けてしまうと、相手に対して、余計なことを言ってしまい、怒りのラインを踏み越えてしまうことにならなくもないのだ。

 それを思うと、

「社会人って、本当に難しい」

 と感じる。

 今も今まで味方だと思っていた人が、急に地雷を踏むような一言を発してしまうと、一気に敵になってしまう。それが、問題なのだった。

 そこで、考えたのが、

「権利と義務」

 という考え方だったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る