第4話 趣味

 趣味を始めたいと思うと、意外と見つかるものなのかも知れない。前にも一度軽い気持ちで、

「何かできる趣味でもあれば」

 とネットで、趣味おサークルなどを、暇つぶし的に見ていたが、実際に探すとなると、どれも気に入らない。

「どれも同じように見えて、五十歩百歩なんだよね」

 と思うのだった。

 趣味というと、カテゴリーに別れるだろう。

 自分で、何かを作るというオーソドックスなもの。スポーツやゲームなどの参加型。そして、仕事の延長のようなことであったり、福祉的な意味もあっての、ボランティアもそうかも知れない。

 スポーツでも、自分がするのではなく、好きなチームを応援するという発想。その発想からであれば、アイドルの追っかけなども、趣味といってもいいかも知れない。

 そうなると、

「ヲタク」

 と呼ばれるものも、趣味だといってもいいだろう。

 だから、趣味の世界というと、結構広い。競技のようなものまで、趣味になるからだ。

 さらには、趣味なのか、金儲けなのかの境が分からないものもある、

「セミプロ」

 というものも、ギャンブルであれば、一種の趣味とも言えなくもないからである。

 あさみの場合は、詩吟に興味を持った。メルヘンチックなポエムのようなものは、中学時代から書いたりしていた。

 クラブ活動にもあったが、その部活は、がっつり、

「詩吟」

 だったので、メルヘンチックなポエムとは、一線を画していた。

 別に悪いわけではないのだろうが、実際にやってみると、自分だけが、仲間外れになってしまいそうで、そんな思いまでして、部活を続ける意義があるわけもなく、入部を考えることもなかった。

 だが、趣味のサークルとなると、結構幅が広かったりする。詩吟一辺倒だと、年齢的にも、趣向が固まってしまいかねない、しかも、サークルも運営ということを考えると、若い人が増えることと、会員が増えることは決して悪いことではない。実際に詩吟をしたいと思って入ってくる年配の人でも、

「若い人と交流ができるのはいいことだ」

 といって、ポエムであっても、大歓迎という人も多かった。

 ただ、中には、本当に、詩吟を本当に愛していて、他のジャンルが入ってくることを毛嫌いする人もいることだろう。

 だが、それも、ごく一部、逆にそこまで考える人は、自分が孤立していることに気づかなかったりするものだ。

 だから、基本的には、皆同じ感覚で、詩吟だろうが、ポエムだろうが楽しんでいる。そうなると、会が終わった後の、楽しみもあったりする。

「カフェにでも行きますか?」

 と、詩吟を嗜んでいるというわりに、それが終われば、普通にカフェにもいく。それを不思議医思っていると、

「わしらだって、若者と気持ちは変わらんよ」

 といって、笑っている。

「なんだ、この人たちだって、コミュニケーションがとりたいんだ」

 と思うと、気楽になり、ポエムを堂々とできる気がした。

 逆に、年配の人から、

「ポエムって、どうやってやるんだい?」

 と、ポエムに興味を持って話しかけてくれる人もいる。

 それが、とにかくありがたいのだ。

 ポエムというものが、何をもたらすのか、あさみには分からないが、年配の人は、詩吟が自分に何をもたらすのか分かっているのだろうか?

 そんなことも聞いてみたい気がして、

「いずれ、そんな話ができるようになればいいな」

 と感じていると、次第に、年配の人との会話にも、舌が滑らかになるというものであった。

 最初は、詩吟サークルという名前から、警戒があった。

「いくら中では、ポエムもありといっても、他の人に、自分のやっているサークルの名前をいうのは、抵抗があるな」

 と思っていた。

「そう思うなら、言わなければいいんだ」

 と言われるのだろうが、それは、どこか、人を欺いているかのようで嫌だと思う性格だったのだ。

 少し違うかも知れないが、

「勧善懲悪」

 という言葉が近いのではないだろうか?」

「言葉が足りないのは、ウソを言っているのとは違うのだ」

 と言われるが、その理屈を、あさみは、承服できないところがあった、

「きっと、憎んでいる父親の性格のはずなのに、どこか似てきてしまっているところがあるのかも知れない」

 と感じるようになった。

 確かに、父親の厳格なところを、まるで、

「頑固おやじ」

 という言葉がピッタリだ。

 ということで、嫌だったはずなのに、どこかで自分自身が許しているところがあるのだろう。

「これこそ、矛盾ではないか」

 と思うのだが、

「自分だったら、しょうがないか」

 という、本当であれば、やってはいけない解釈をしてしまうとことがある。

 詩吟サークルに入会したのも、

「勢い」

 だった。

 もし、変に迷ってしまうと、

「きっと、入らないと思うだろう」

 ということで、入会するための唯一の方法が、

「勢い」

 だったのだ。

 勢いは、意外とうまくいくものだ。

 勢いがついたままの入会であれば、その勢いのまま、詩吟あるいはポエムがいくらでも思いつきそうな気がした。

 詩吟もやったことはなかったが、実際にやっている人を見ていると、

「これは楽しそうだ」

 と感じたのだ。

「日本古来の、古臭いもの」

 というイメージがあったが、それは、どうも俳句と一緒になっていたようだ。

 俳句は俳句で、庶民のたしなみという意味で、

「短くて、字数が決まったものに、気持ちを載せる」

 という意味では同じことだ。

 しかし、俳句というのは、季語が必要であったりと、制約のようなルールが存在する。だからこそ、面白いのだ。

 ゲームでもスポーツでも、ギャンブルにでも、ルールというものが必ずある。そうしないと、収拾がつかなくなるからで、公平さという意味でも、ルールは、絶対不可欠なものである。

 それを思えば、俳句も詩吟も和歌も、すべてにルールは存在する。

 その中で一番曖昧なのは、詩吟ではないだろうか? 文字数に制限がないという意味で、大きいだろう、

 もっとも、制限がないといっても、果てしなく書いてしまうと、小説であったり、随筆になってしまう。だからこそ、

「短い文章に気持ちや情景、いいたいことをすべて織り込む」

 というのが、詩吟の醍醐味だといえるだろう。

 それを考えると、詩吟の世界をいかに楽しむかということを追求する気持ちは、ポエムでも同じだ。

 学生時代に初めて。ポエムを書いた時の気持ちをすっかり忘れてしまっていたような気がする。それを思い出させてくれただけでも、入会の意義はあるというものだ。

 入会してみると、意外と若い人もいたりした。

「なるほど、入会してほしいと会長さんなどが前のめりになるはずだわ」

 と思った。

 若い人が2、3人いるが、さすがに全体からすると少なかった。

 しかも、サークルの中には、

「サークルあるある」

 とでもいうべきが、大きな全体サークルの中に、いくつかの集落と言っていいような集団が存在している。その中に、ボス的な存在の集落があり、全体を仕切っているように、まわりから見ると見えるのだが、それも、

「サークルあるある」

 といってもいいだろう。

 サークルというのは、元々、そういう団体で組織されているようなものだった。

 ただ、あさみの一つの懸念は、

「今まで一人でやっていたから気楽なもので、まわりに誰かがいるということで、気が散ってなかなか今まで思い浮かんでいたものが、まったく浮かばなくなったりすると困るわね」

 というものであった。

 これは得てしてあることだった。

「一人ではできるが、集団になると急にできなくなる」

 というのは、

「緊張からくるものなのか?」

「まわりを意識することから来るものなのか?」

 などと、いろいろ考えられたりするものだろう。

 あさみの場合は、まわりを意識するからだろうと自分で思っていた。

 正直緊張というものは、ほとんどなかった。どちらかというと、

「一人でいると、集中して、自分の世界に入ることができるのに、まわりの気配を感じることで、集中できなくなり、想像が、別の方向にいってしまうのを嫌っている」

 と言えるのではないだろうか?

 だから、中学の時の部活を意識したことがあったくらいで、それ以降、サークルに入ろうと思わなかった。

 だから、ポエムも完全に遊びだった。

 ただ、

何でもいいから、自分オリジナルの作品というものを作ることができれば、それでいいんだ」

 と思っていたのだ。

 大学生になると、一時期、

「小説を書きたい」

 と思った時期があった。

 小説ともなると、ポエムよりも、数倍難しいという意識が潜在的にあり、思い込みもあることから、

「自分にできないことなのだから、相当、高尚なものなんだろうな」

 と思っていた。

 実際に小説を書こうと思っていろいろ、

「手を変え、品を変え」

 やってみたが、まったくできるものではなかった。

 本当の最初は、

「明治の文豪」

 のごとく、机に座って、原稿用紙を広げ、万年室で書こうと思って、かしこまってみたが、緊張だけで、何も出てこない。

 それこそ、用紙を丸めて、後ろに残骸が広がっているというような光景を地で行っているかのようだ。

 しかし、実際には、緊張で汗が出てくるのだった。

 ポエムの時には一切なかった緊張だった。

「なんで、こんな緊張の仕方をするんだろう?」

 と自分に言い聞かせてみたが、どうもおかしな気がするのだった。

「これではダメだ」

 と思い、まず考えたのは、

「場所が悪いんだ」

 と思った。

 家にいると、ついついテレビのリモコンを手に持ったり、ケイタイをいじってみたりするのではないか?

 中学時代のケイタイというと、まだまだ、今のスマホの足元にも及ばないほどの機能しかないが、それでも、ケイタイは、それなりの気分転換には十分だった。

 だから、

「図書館でやろう」

 と思い、図書館の自習室にいったのだ。

 しかし、自習室というと、皆が勉強していて、声を出すことは厳禁という、

「集中するにはちょうどいい場所」

 と言えるのだろうが、逆に、集中できなければ、これほど居づらい場所はないといえるのではないだろうか。

 それを思うと、

「図書館もダメか?」

 ということになる。

 そして、思いついたのが、カフェだった。

 適度にざわつきもある。会話も聞こえてくるので、

「せわしない」

 というのは、しょうがないが、

「緊張しない」

 という意味で、ちょうどいいのが、カフェでのひと時だった。

 さらに、

「原稿用紙というのが鬼門なのかも知れない」

 と思い。横書きのルーズリーフに、鉛筆にした。

「万年筆というのも、鬼門だ」

 と感じた。

 まず言えるのは、

「書き直すことができない」

 さらには、

「滲んでしまうと、わけがわからなくなる」

 ということであった。

「二つが変わると、その影響は大きいかも知れない」

 と感じた。

「一足す一は二」

 と言われるが、この場合は、

「一足す一が、三にも四にもなる」

 ということであり、それを、

「相乗効果というのだ」

 ということであろう。

 それを考えると、

「場所も筆記具も変えることで、一気に書けるようになるかも知れない」

 と思った。

 実際にやってみると、結構うまくいったのだ。

 喫茶店にしたことでのメリットというと、確かに、人の動きが気になって、集中できないという点では、図書館と変わりがないかも知れない。

 しかし、喫茶店での人の動きというのは、意識しての動きではなく、無意識の動きだったのだ。

 それにより、

「小説を書くということよりも、まずは、目の前で繰り広げられていることを、写生するのだ」

 ということを意識すれば、書けるのではないかと思ったのだ。

 冷静に、客観的に見ていると、想像が膨らんでくる。

「この人はいくつなのか?」

 ということから、

「なぜここにいるのか?」

 などということまで、それ以外にも、情景を写生することだってある。時間が何時頃で、歩いている人は男女どっちが多いのか? それによって、時間帯との矛盾がないことなどを書き連ねれば、かなりの字数は稼げるはずである。

 そんなことを考えていると、

「小説というのは、いくらでも思いつくのではないか?」

 と考えられるというものだ。

 そして、最後に辿り着いたのが、

「喋れるんだから書けるだろう」

 ということだった。

 そう思うと、一気に気持ちは楽になり、いくらでも、言葉の引き出したが出てくる気がしたのだった。

 ただ、書いているだけだと、自分が書いていることを、後から読み直さないとピンと来なかったりする。いわゆる、

「推敲」

 というものになるのだが、基本的に推敲は、

「書いてからすぐにやるものではない」

 と思っているのだ。

 というのも、

「書いている時というのは、思い込みに走っているため、書いていて、自分で納得できないものを書いている気がしてくる」

 ということになるのだ。

 だから、時間を置いて、冷静になって、客観的に見ることで、その内容が分かってくるというものであった。

 ただ、推敲という形で時間をかけてしまうと、今度は、

「その時でしか感じない情景だったはずだ」

 ということで、思い出そうとしても思い出せなかったりする。

 それだけ、集中して書いているのだし、

「自分の世界に入り込んでいる」

 と言えるのではないだろうか?

 そのことを考えると、

「小説を書くということは、時間と微妙な関係にあるということを認識しておかなければいけない」

 ということになるであろう。

 そして、小説を書いていて、次に思うことは、

「何があっても、最後まで書ききることだ」

 ということである。

 小説を書く上で、一番最初に引っかかるのは、

「最後まで書き切ることができない」

 ということである。

「自分が考えている執筆と違う形で書いているのではないか?」

 と途中で考え始めると、疑心暗鬼しか生まれてこない。

 疑心暗鬼に走ってしまうと、せっかく書けるようになったと思っても、その自信を完全なものにできないというジレンマに陥るのだ。

 その原因は、

「最後まで書き切ることができない」

 ということで、これは、少年時代など、プラモデルなどを最後まで完成させることができなかった男の子とは少し違うような気がする。

 プラモデルは、自分の思い通りにできないことから、イライラして辞めてしまうのだろうが、小説の場合には、

「時間がかかって作ったとしても、時間のわりに、納得のいくものができなかった」

 という思いから、

「時間と作品の完成度を、横軸と縦軸のグラフにして見た場合、時間のムダというマイナス部分が強いことで、疑心暗鬼が、自己嫌悪に繋がって、さらに苛立ちに繋がることで、完成されることができない理由にしてしまう」

 ということからであった。

 同じ苛立ちでも種類が違う。プラモデルの場合は、理由なく苛立っているので、時間が経てば、冷静になって、苛立ったことを忘れてしまったかのように、

「また挑戦しよう」

 と考えることだろう。

 しかし、小説の場合には、苛立ちではなく、挫折に近いので、時間が解決してくれるものではない。それでも、何度か挑戦してみようと試みるが結局ダメで、そのまま辞めてしまうと、そこから先がまったくいうことを聞かないという、自分の意志とはかけ離れたところから来るように思うのだろう。

 だから、第一段階の障害と言ってもいい。そこまでできるようになると、

「ものを書く」

 ということに関しての問題は、一切なくなってしまうのだった。

 そのうちに、パソコンで書くようになった。

「どうして最初から。パソコンで書かなかったのか?」

 と聞かれるかも知れないが、

「最初から、パソコンでできるくらいだったら、こんなに苦労はしない」

 といいたいのだ。

 パソコンで一番難しいのは、

「考える時間が取れるかどうか?」

 ということだった。

 手書きであれば、書いている間に次を考えられるが、パソコンのように、早く打つと、考える時間が得られないのではないかと思ったのだ。

「だったら、ゆっくり打てばいいではないか?」

 と言われるかも知れないが、ゆっくり打つと今度は余裕がありすぎて、余計なことを考えてしまうという懸念があったのだ。

 だから、

「パソコンを使うとすれば、手書きである程度までできるようになってからにしよう」

 と考えていた。

 しかし、手書きの場合はある程度難しいところがある。

 何と言っても、

「力技だ」

 ということであった。

 手書きだと手に力が入ってしまう。スピードも遅いし、次第に指が疲れてきて、感覚もマヒしてくる。

「ストーリーを考えている余裕などなくなってしまう」

 ということだった。

 つまり、

「リズムで書くことができない」

 ということであり、最初の課題だった、

「考える時間」

 がうまくいかなくなるのだ。

 さらに、もう一つは、

「習性が難しい」

 ということだった。

「鉛筆だったら、消せばいい」

 と言われるかも知れない。

 しかし、例えば1ページ前に、間違いあるいは、誤字が見つかったとして、字数が変わってしまう場合は、そこから以降をすべて消して書きなおすが、注釈を入れるような形にするかのどちらかだろう。

 明治の文豪の手書き原稿などといって、資料館などで展示されているのを見ると、注釈が至るところに書き加えられていて、

「よく当時の編集者はこれで分かるな?」

 というものであった。

 パソコンやワープロなどができる前の原稿は、ずっと手書きだったので、その伝統が残っているだろう。

 だから、今から二十数年前の頃までのことである。そういう意味では、

「ごく最近までは、当たり前のことだったんだ」

 ということであった。

 それまでの編集者は、見慣れているから、少々汚い原稿が読めただろうが、今はパソコン原稿が主流になってくると、もう手書き原稿などを見れる人はいないかも知れない。

「手書き原稿お断り」

 という出版社も多いことだろう。

 それが、プロ作家であっても同じことだ。

 相当な売れっ子作家でもない限りは、本当に手書きというのは、冗談抜きで、お断りということであろう。

 パソコンやワープロが普及してくると、パソコンで打つのが当たり前になってきた。

 そんな時代に慣れてきて、パソコンで打つようになると、今度は、先のことは、

「打っている間に考える」

 という能力がついてくるのだった。

 だから、実際には、最初の原案とかは、あっという間に書き上げる作家だっているかも知れない。プロだとなかなかそうもいかないだろうが、素人であればあるほど、簡単にできるのかも知れない。

 あさみもそうだった。

「考えれば考えるほど先に進まない気がしたので、原稿を書いている時は、なるべく考えず、先先に進むようにした」

 と言っていた。

「だから、私は、質より量だと思っているのよ」

 というのだったが、それも分かることであった。

 だから、作品の数はかなりあり、ストックも増えてきた。出版社系の、

「小説新人賞」

 などに片っ端から応募したのだが、なかなか一次審査も通らない。少し行き詰ってきたところで、新たな商法が生まれたのだった。

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