ベイビーちゃん
虹乃ノラン
ベイビーちゃん
アメリカのミズーリ州にある古ぼけた田舎町。のんびりと時間は流れ、単調でなんの変化もない、そんな僕たちの住むこの町が、一度だけアメリカ中の注目を浴びたことがある。それは、マリールーがファッションモデルの夢破れ、NYから生まれ故郷のこの町に帰ってきた翌年の夏のことだ。
僕たちは、町の外れにある大きな湖のある公園でいつも時間を潰していた。リアムは体がでかく、態度もでかい。よく町の人にあだ名をつけてはからかっている僕たちの中心的存在。ウィルはもの静かで常に冷静を気取っている妙に大人ぶった奴。
そして最後が僕ダニー、プロフィールは……この田舎町と同じ、名前以外には特に何もない。とにかく、いつもこの三人で集まっては湖の公園で平凡で退屈な毎日を過ごしていたんだ。
「おい、見ろよ、ピカソがまた訳のわからない絵を描いてるぞ」
リアムがピカソと呼んだ人物、それはベンジャミンのことだ。
彼は戦争の後遺症で聴くことも喋ることもできない。もともとここの生まれだったベンジャミンは、この町に帰ってきてから毎日ずっとこの公園で絵を描いている。
彼がスケッチしているのをのぞいたことがあるけれど、一体この公園の景色のどこをどんな風に見たらあんな絵になるのか。キャンディーの包み紙をぐしゃぐしゃにしたみたいな木の葉っぱに、おもちゃの木の蛇がのたうち回ったみたいな湖。
毎日飽きるほどそこにいる僕たちじゃなければそれがなんなのかわからないくらいの下手くそな絵だ。とにかく僕たち素人が見てもまったく理解できない子供の落書きみたいな絵。それでベンジャミンはリアムにピカソなんてあだ名をつけられたんだ。
「一体どうしたらあんな下手くそに描けるんだろう」
「まったくだ、ダニー。芸術家のやることなんてわかったものじゃないな」
ウィルがそう言ったとき、リアムが口を挟んだ。
「あっ、テディだ! あいつもよくまあ飽きずに毎日走るよな」
テディ、それはランドンさんのことだ。
毎日毎日決まった時間にジョギングをしている。ダイエットのためらしいが、いっこうに痩せる気配がない。それでついたあだ名がテディ。熊のぬいぐるみのようにずんぐりむっくりだからだ。
「どうせ走った分だけ家で食べてるんだよ」
ウィルのいつもの冷ややかな物言いに、リアムが満足そうに湖の脇に横たわった。こうやってひっそりと好き勝手な噂話をしている僕たちは卑怯なのかもしれない。本人たちにしれたら大目玉だ。
そんな僕たちの後ろを一台のパトカーが通り過ぎる。
「オーイ、お前ら! また誰かの悪口かあ? そんなに暇ならパトロールにでも付き合うか?」
この町で唯一の保安官、僕の父さんだ。
「父さん、こんな平和な田舎町でパトロールも何もないだろ」
「そりゃそうだな、でもこうして毎日私がパトロールしているからこそ、この町の平和は保たれてるんだぞ」
父さんは豪快に笑いながら車を走らせていった。
「パトロールなんてしてもしなくても、この町は平和だと思うぜ」
ウィルの言ったことに、僕もリアムも大きく頷いた。
「そうだよなあ。事件なんて犬が迷子になるくらいのものさ」
リアムは僕をちらちらと見ながら、父さんのあだ名を考えているようだった。さしずめペット探偵だとでも言いたいんだろう。僕は黙って待っていたけど、リアムはそれ以上何も言わなかった。
†
その年の秋頃、この町に小さな事件が起こる。この田舎町では見たことのない女の人がルイスさんの家に住み着くようになったんだ。こんな田舎じゃ新顔なんて珍しいから、あの女は何者だって話で僕たちは盛り上がった。
彼女はとてもきれいで、マーマレード色の髪が特徴的な、白い肌をしたスラッとした人だった。僕たちよりも十歳以上は離れているんだろうか。
とにかく子どもの僕たちから見てもわかるくらいはっきりとした美人で、テレビに出てくる女優みたいに、このつまらない坦々とした風景の中でやたらに目立った。
だけど彼女はどこか不安げで歩き方もぎこちなくて、いつ会っても怯えた表情をしていた。僕はそれをいつも不思議に思っていたんだ。あんなにきれいな彼女が怯える必要なんてどこにもないのに。
「母さん、最近ルイスさんの家に出入りしてる女の人がいるでしょ? あの人とルイスさん夫婦は知り合いなの?」
「あら? そういえばあなたは覚えてないかもね。あの子はルイスさんの一人娘のマリールーよ。あなたが赤ん坊の頃は、よく面倒見てもらったものよ」
僕には全然記憶になかった。母さんの話ではマリールーは十八歳のときにモデルを目指しNYへ行ったらしい。しかしその五年後、初めての大きな仕事へ向かう車で衝突事故に遭い、その後遺症で足を悪くした。しかもさらについてないことに前向性健忘症という病気になってしまったのだという。
前向性健忘――そんな病気は聞いたこともない。足が悪くなるより、大変なことなんだろうか。
「それってどんな病気なの?」
「わたしもよくはわからないけど、記憶喪失の一種みたい……。新しいことが覚えられないらしいわ。あなたたち、彼女の悪口なんて絶対に言っちゃ駄目よ」
僕はリアムの顔を思い浮かべながらも、「そんなこと言わないよ!」と当然のように答えた。
でも翌日公園でみんなに話すと、リアムはさっそく彼女に「ベイビーちゃん」とあだ名をつけた。
初めて聞く名前の病気に、リアムもウィルも好奇心を隠さなかった。
ベイビーちゃんと名づけたリアムに、僕でさえうまいこと言うなと思ったくらいだ。もちろん、リアムのつけるあだ名で良い意味の名前なんてひとつもない。ベイビーちゃん=生まれたて、物事を知らないって皮肉だ。
でもそのとき僕は、この愛称をなんだかとても愛しく感じて気に入った。それはリアムもウィルも同じだった。少なくとも僕はそう思った。
とにかく、そうしてマリールーは僕たちの住むこの町に帰ってきた。この平凡でうんざりするほど退屈な町に。でも彼女の表情は違っていた。マリールーはまるで大都会か未開の地にでも来たみたいに、ほんの少しだけびくびくとしながらも、毎日その瞳を輝かせていたんだ。
一体全体、本当に僕は彼女と同じ町に暮らしているんだろうかって、不思議になるくらいマリールーは毎日楽しそうにしていた。
「今日もベイビーちゃんが行くぜ。ママはどうした」
年が変わる頃にはマリールーは一人で出歩くほどになっていた。
そんなことを言うリアムに僕は適当に相づちを打ちながら、彼女の穏やかな期待に満ちた目を、遠目からうらやましく眺めていた。
怯えた雰囲気はもうほとんど消えている。まるで毎日新しい景色を見るかのように、この「退屈な」景色を眺めている。彼女の瞳はいつも新鮮で、活き活きとした光を宿していた。
「こんにちは、マリールー」
マリールーが側を通るとき、僕たちは決まってそう挨拶した。初めはよそよそしかった彼女も、毎日声をかけられる度になじんでいったのか、少しずつ緊張が緩んでいっているのが僕にはわかった。
それでも、リアムもウィルも彼女が通り過ぎるのを確認すると「ベイビーちゃん」と呟いては笑い合っていた。
「なあ、そんなふうに言うのはいいかげん止めろよ。それに彼女、少しずつだけど、僕たちのこと、認識してると思うよ」
「ダニー、それはないと思うぜ。だって彼女は病気で、新しいことなんて何ひとつ覚えていられないんだから」
「そうだよダニー、ウィルの言うとおりさ。ベイビーちゃんは永遠のベイビーちゃんなんだぜ。その証拠に彼女を見てみろよ。毎日同じ景色を見てるはずなのに、まるで初めて見るみたいな表情じゃないか」
リアムもウィルも、僕の言うことになんて耳を貸さなかった。
まるで彼女のことを理解しようとしない二人に腹を立てた僕は、翌日公園に向かう途中のマリールーに一人で声をかけてみようと思った。
彼女がこの公園を訪れるようになってから、確実に彼女の表情は変わってきている。この公園をよそよそしく歩いていたマリールーの最近の様子は、まだ少しぎこちなさが残っているけれど、明らかにその表情は楽しんでいるように僕には思えたから。
翌日学校が終わると、僕はいつものように話しかけてくるリアムとウィルに適当に返事をして一人で家に帰った。玄関ポーチに鞄を放り投げ、そのまま母さんに声もかけずに公園に向かうと、同じくやってきたばかりのマリールーを見つけた。
「マリールー!」
思わず名前を呼ぶ。突然後ろから声をかけた僕に、彼女はビクッと驚いておそるおそる振り返った。
「こんにちはマリールー、僕のこと覚えてる? ほら! いつも公園で会うだろ」
息を整えながら話す。しかし、彼女はぎこちない笑顔で微笑んだまま、ひかえめに何がなんだかわからない様子を見せた。
「ねぇ、本当に覚えてないの? 僕たち毎日公園で挨拶してるじゃないか」
もどかしさと、はやる気持ちで溢れそうな僕の前で、彼女の表情がみるみる暗くなっていく。今にも泣き出しそうなマリールーが、ぎこちない笑顔を浮かべている。
行き場を見失った迷子の、隠しきれない不安に満ちたそんな表情を見ていたら、なんだかとてつもなく彼女にひどい仕打ちをしているような気分になって、僕は言葉を失ってしまった。
ふたりの間の短い沈黙に、整えた僕の呼吸だけが大きく響いてくる。
「おい、ダニー」
後ろからリアムとウィルが声をかけた。僕があわてて振り向くと、その一瞬の隙をついて、マリールーはその場から立ち去ってしまった。
「よぉ! どうしたんだよ、一人で行っちまうなんて」
地面に映る木漏れ日の白い文様を、慌てて遠ざかる彼女が揺らすのに気づいて、リアムが冷やかす。
「まさか、今ベイビーちゃんと話してたのか? おいおい抜け駆けかよ。おまえがベイビーちゃんを狙ってるなんて知らなかったぜ」
マリールーの後ろ姿を見ながらウィルも言った。
「どうだった? 彼女、お前のこと覚えてたか?」
僕が黙って首を振りうなだれると、ウィルは「やっぱりそうだよな」と木々の間から空を見上げた。
「だから言ったろ? 彼女は永遠のベイビーちゃんなんだよ」
リアムの言葉に僕の心臓がぎゅっとなる。本当にそうなんだろうか。
「この先ずっと、彼女が新しいことを覚えることは、もう絶対にないのかな」
「だってよ、そういう病気なんだから仕方ないんじゃないか」
リアムはさも当たり前のように言う。
仕方ないって言葉に、僕は返事ができないでいた。
「俺は逆に幸せだと思うけどな。だってこんな退屈で平凡な田舎町で、毎日毎日見るもの聞くもの全てが初めてのように新鮮なんだぜ」
確かにウィルの言うことも一理あるのかもしれない。僕たちだって、この退屈で代わり映えしない毎日にうんざりしてるんだから。でも、彼女の本心はどうなんだろうか。毎日新しいってことが本当に幸せなんだろうか。
僕たちは公園に向かい、湖でクタクタになるまで泳いだ。
ほとりで寝転がっていると、僕は急にもよおして近くで用を足そうと茂みの方へと歩いていく。すると散歩をしていたマリールーに偶然出くわした。茂みから突然出てきた僕に一瞬驚いた彼女だったが、僕の顔を見るとニッコリ笑って「こんにちは」と声をかけてくれた。
僕はびっくりした。マリールーが笑いかけてくれたことに。視線を離せなくなって、つなぐ言葉を必死で探す。彼女は、さっき僕が声をかけたときよりもほんの少しだけ自然に笑っているように見えた。
「あの、マリールー、さっきは突然声をかけてごめんね。驚かせちゃったよね」
彼女は微笑み、軽く会釈すると、再び公園の中をゆっくりと歩き出した。まるで僕を誘うようにして。思わずついていこうとして僕は、リアムとウィルのことを思いだし、慌てて二人の寝転ぶ湖のほとりに戻って今あったことを話した。
「彼女がお前のことを覚えてたって? 勘違いじゃないのか」
「いや、リアム待てよ。ダニーの言う通り、ひょっとしたら覚えてたのかもしれないぞ……」
ウィルが意味深なことを言い出した。
「ダニーがさっき彼女に声をかけたのはこの公園に来る前だろ? 今までベイビーちゃんに一日二回も声をかけることなんてなかったからな。見落としてたけど、ひょっとしたら新しい記憶は何時間かは覚えていられるんじゃないか?」
僕とリアムは顔を見合わせた。確かにウィルの言う通りだ!
僕たちは今まで彼女に一日一回しか声をかけてなかった。もし彼女の記憶に期限があるのなら、さっきの反応も納得がいく。
「じゃあ、もう一度声をかけてみようぜ!」
単調だった僕たちの時間が急に活き活きと動き出した。日も暮れかけた頃、散歩を終え家に向かうマリールーを見つけた僕たちは彼女に声をかける。
「マリールー!」
マリールーが振り返り僕の顔を見る。
「あぁ、公園の……」
彼女は確かにそう言った。それはつまりまだ彼女は僕のことを覚えているってことだ。僕たちは彼女と少しだけ会話をし、「じゃあ、また明日」と言って別れた。
「驚いた! 覚えたことをすぐに忘れてしまうんじゃないんだ!」
「でも、明日までは記憶は持たないみたいだな、持って一日くらいかな?」
興奮しているリアムに考えているウィル。僕も必死で考えた。
「何とか僕たちのことを覚えてもらえないかな? そしたら彼女の病気も治るんじゃないかな」
それは無理じゃないか? とリアムはあまり考えようとしなかったが、それでも僕たちはその場で頭を悩ませた。
不意に僕は閃いた。
「写真はどうだろう? ポラロイドで写真を撮って、名前を書き込んで、ファイルに入れるんだ。彼女にそれを持ち歩いてもらえば、僕たちが声をかけて、マリールーが覚えてなくても、ファイルの写真と名前を見れば、知り合いだってわかるだろ?」
リアムもウィルも口をポカンと開けて僕を見ていた。
そして「それだよ! 頭良いなお前!」って声を揃えて言ったんだ。
翌日僕は、コツコツと貯めたおこづかいを全てポケットに突っ込んで家を出た。ポラロイドカメラは使ってないのがあるからといって、ウィルが家から持ってきてくれた。
僕たちは揃ってカメラショップへ行くと、ウィルのポラロイドに規格の合うフィルムと、写真を入れて持ち歩くのに便利な小さなアルバムを買った。
サインペンは僕の家に転がってたやつだ。ウィルの持ってきたポラロイドはすごく古くて、ウィルがまだ赤ん坊だった頃に使っていたものらしい。小さなサンドイッチボックスくらいの箱を上下に開くとレンズが現れて、撮ったその場で写真が出てくるスグレモノだ。
年代を感じるのと、カメラ上部に貼られた黒いネズミのシールが気になるけど、仕方ない。僕たちはそれを紙袋に包み、軽くラッピングすると、いつもの公園へと向かった。
公園の湖の周りを、新鮮な表情で景色を楽しむマリールー。僕たちがさっそく彼女を見つけて声をかけると、やはりマリールーは僕たちのことを忘れてしまっているらしく、ぎこちない笑顔でほほ笑んだ。
多分僕が思うに、彼女は知らない人間に声をかけられ怯えているんじゃなくて、自分を知る人物に呼び止められたにもかかわらず、思い出せないもどかしさと、相手にそれを悟られたくない気持ちから、ぎこちない笑顔で愛想笑いをしているんじゃないかと思った。『わたしは、あなたのこと、覚えてますよ』って風に。
僕たちは何もない風を装い、そのまま彼女の横を通り過ぎる。そしてしばらく時間を置いて、再び彼女に接近してまた声をかけると、今度は最初よりも少し表情が柔らかくなったように見えた。
僕たちは再び挨拶だけすますと、まだ紙袋を彼女に渡さずにその場を離れ、さらに時間を置いた。
彼女から僕たちに向かって声をかけてきたのは、三度目にすれ違ったときだった。
僕たちは心の中でやった! とガッツポーズをとった。彼女が僕たちに興味を持ったならこっちのものだ。
「こんにちは、さっきも会ったわよね?」
「マリールー、実は君に受け取ってもらいたいものがあるんだ」
僕たちはさりげなくそう言うと、彼女にラッピングした紙袋を手渡した。彼女はためらいがちに中を確かめる。
「カメラ……かしら? それにペンにアルバム?」
「そうだよ。あなたは昔スターだったんでしょ? だから僕たちと写真を撮ってお互いに持ちあって、それを友情の証にしない?」
マリールーは不思議そうに僕たちの話を聞いていた。もちろんこれは言い訳で、『君は忘れっぽいから、僕たちの写真を持って忘れないようにして』なんて言ったら彼女を傷つけてしまう。そうならないためのウィルの作戦だ。
「おもしろそうね」彼女はニッコリ笑った。
やった! 僕たちは一人ずつ彼女と並んで、合計六枚の写真を撮った。そして彼女本人に写真に写る僕たちの名前を書き込んでもらい、アルバムに入れて渡したんだ。
ジーッと出てくるポラロイドのフィルムに、姿が映し出されてくるのを待ち望みながら、僕たちは寄り添って自分たちの名前をしゃべった。マリールーが「ちょっと待って」と笑いながら僕の家にあった古いサインペンを握りしめて、Dan……とつづっていくのに、僕たちは胸を躍らせた。
この僕たちの作戦は、その後の彼女を大きく変えた。
次の日、僕たちが揃って公園に行くと、彼女はいつものように散歩を楽しんでいる最中だったが、驚くことにマリールーの首にはストラップをつけたポラロイドカメラがぶら下げられていたんだ。腕には昨日のあのアルバムも大切そうに抱えている。
「マリールー!」
僕たちは互いに顔を見合わせて、もしや? と思って彼女に駆け寄った。
当然、彼女は僕たちのことを忘れてしまっている。ここまではいつも通りだ。でも次の瞬間、彼女は手に持ったアルバムを開くと、僕たちの顔と写真を確認しはじめた。「リアムに、ウィルにダニーね?」
僕たちの作戦は成功だ!
「そうだよ、マリールー! こんにちは!」
うれしそうな僕たちに、彼女はぎこちない笑顔で「こんにちは」と挨拶を返した。そりゃそうだ、写真に納まる彼女は昨日の彼女で、今日の彼女とはまったく別なんだから。でも、僕たちは友人だと物語る確固たる証拠が写真には写し出されている。だから彼女も、僕たちに対して警戒心を弱めたんだ。
彼女の首から吊り下げられたポラロイド。それが何よりの証明だ!
マリールーは前向きに大きな一歩を踏み出そうとしている。たびたび立ち止まっては景色を楽しむそんな彼女に付き合ってゆっくりと歩き、僕たちは湖へと向かった。飽きるほど踏みしめてきたはずの公園の土が、やたら柔らかく感じてふわふわとした。
歩いている間、僕たちは色々なことを話し合った。なにせ、こんなにも彼女と話したのは、彼女がこの町に帰ってきてから初めてのことだ。
歩いていると後ろから日課のジョギングをするテディが僕たちに声をかけた。
「ありゃ? 珍しい組み合わせだな? こんにちはマリールー」
「ランドンさん、こんにちは、今日も良い天気ね」
彼女がにこやかにそう返したのに僕たちは驚いていた。
「マリールーはテディのことを知ってるの?」
「テディ? ランドンさんのこと? もちろんよ。彼はわたしがあなたたちくらいの歳のときから、ああやって毎日走っているわ」
「マジかよ? そんな昔から毎日走ってるのになぜ痩せないんだ!?」
リアムが大げさに驚くのを見て、マリールーは笑った。マリールーはずっと昔のことは覚えているみたいだった。
彼女はテディと名づけられたランドンさんの話にお腹を抱えて笑い続けた。リアムも僕も、ウィルまでが、マリールーの笑い声がとぎれるのを怖がるみたいにして、次々にくだらない話を続ける。話が盛り上がって気を良くした僕らは共通の話題をさらに探して、リアムがピカソのことを持ち出した。
「じゃあひょっとしてピカソも?」
「ピカソ? あぁ! ベンジーさんのことでしょ? あなたたちって本当に面白いあだ名をつけるのね」
彼女の笑顔は素晴らしかった。
「あ、ああ! そうだろ!」
そんなことを答えながら、僕たちは間違っても彼女のあだ名だけは絶対に知られないようにしなくてはと、互いに目配せした。
「彼は視力も聴力も、そして声も失ってしまった孤独な芸術家よ」
僕たちは耳を疑った。
「ピカソは目も見えてなかったのか?」
「えぇ、だから彼は子どもの頃に見た風景を心に思い浮かべて、ああして毎日絵を描いてるのよ。わたし、一度彼の絵の具をぶちまけてしまったことがあるの。このパレットの通りに並べてくれって、ベンジーさんは冷静だったわ。彼の見る風景は、彼の中にあって毎日色を変えているのよ」
なるほど、どうりで僕たちじゃピカソの絵を理解できないはずだ。
それにしても見えない目で、風景を思い描いているとはいえ、よく間違いなく輪郭を描いたり、塗ったりすることができるものだと僕たちはあんぐりとした。
そのとき、一台の車が僕たちに寄ってきた。町の保安官、父さんだ。
「おや? マリールーか、こんにちは。ところでお前たち、ここらへんで怪しい人物を見掛けなかったか?」
「父さん、マリールーを知ってるの?」
「当たり前だろ。おまえのおむつを代えてくれたのはマリーだぞ」
父さんのその言葉に、マリールーの目がとたんに輝いた。
「あなた、保安官の息子……? あぁ、ダニー! ダニエル、そうだったのね!」
一〇〇年も探していた宝物が見つかったみたいに僕を懐かしそうに見つめる。
僕はたじろいだ。どうやら彼女はベビーシッター時代に世話をしていた僕を思い出したようで、慌ててアルバムを開くと、僕の写真に新たに文字を書き加えた。『わたしのだいじな、ダニー』
僕は息が止まった。思わずリアムとウィルがのぞきこもうとするのを体で邪魔をしてそれが見られないようにごまかした。
マリールーがうれしそうにアルバムのページをめくっていく。既に何枚か新しい写真を撮ったのだろう、町の人や風景の写真がアルバムに加えられていた。
「なあ、ダニーの父さん、ところで怪しい人物って?」
ウィルが聞いた。父さんの話では、どうやらピカソが公園で描いていた絵が、その場を離れた隙に盗まれてしまったのだと言う。
なんとも物好きな泥棒もいたもんだ。
「なんだ、そんなことかぁ。てっきり重大事件かと思ったぜ」
リアムが大げさにそう言うと、父さんは豪快に笑いながら言った。
「盗みだって立派な事件だぞ? とにかく怪しい人物を見掛けたら教えてくれよ」
†
その夏、僕たちがピカソの盗まれた絵の事件をすっかり忘れかけた頃だった。
有名な画家の展覧会がNYで開催されるというポスターが学校のロッカールームに貼り出されていた。もちろん、そんな掲示物なんて学校には腐るほどある。でも横を通り過ぎるとき、ふいに見慣れたものが目に映りこんだような気がして足を止め、食い入るようにそのポスターを覗き込んだ。すると画家の顔写真の後ろに、僕らの公園ピカソが描いたような下手くそな絵がそこに納まっていたんだ。
ポスターに釘付けになっていると、リアムとウィルがやって来た。
「あぁ、今度NYで個展を開くんだろ。こんなところにチラシ貼ったって誰も行きゃしないのにな。それにしてもお前、絵に興味なんてあったっけ」
リアムがつまらなさそうにポスターをのぞきこむ。
「違うよ、これ! ここ見てよ、まるでピカソが描いたような摩訶不思議な絵じゃないか?」
小さくてよく見えないけれど、湖の絵だった。僕が指差す先を見た二人は少し前にこの町で起こったピカソの絵盗難事件を思い出していた。どうしてピカソの絵がそこにあるのかなんてわからないけど、僕たちが見間違うわけがない。
「まさか、これって。だけど、ピカソが描いたって証拠もないしな。本人に確認するにしたって、ピカソは目が見えないし」
証拠……。僕はその言葉でマリールーのアルバムを思い出した。
「彼女が撮った写真に写ってるかも」
「ああ! そうだな! 行ってみよう」
僕たちは急いで彼女の家に向かった。学校を抜け出し、彼女の家に向かう途中、僕たちはパトロール中の父さんに見つかった。
「こら! お前たち! 学校さぼってどこ行くつもりだ!」
凄い剣幕で詰め寄る父さんに、僕がロッカールームから引きちぎったポスターを見せて状況を話すと、父さんは僕たちをパトカーに乗せ、マリールーの家へと向かってくれた。マリールーの家は僕が住む家からそう遠くない所、緑色の屋根の、白い囲いのある家だ。
「ルイスさん! こんにちは、マリールーはいるかい?」
父さんがドアをノックすると、ルイスさんが驚いたように出てくる。父さんは事情を説明し、マリールーにアルバムを見せてくれるように頼むと、彼女がアルバムを持って家から出てきた。
「どうしたの、保安官? それに――」
マリールーは僕たちを見ると、アルバムを開いて顔を写真と照らし合わせる。
「やあ、マリールー! すまないが君のアルバムを見せてくれないか。ベンジャミンの絵を盗んだ犯人を逮捕できる証拠が写っているかもしれないんだ」
ピカソの絵の盗難事件のことなど忘れてしまっているんだろう、マリールーはキョトンとしながら父さんにアルバムを渡した。
アルバムをめくり、一枚ずつ写真を確認していくと、ピカソの後ろに彼の描いた絵が写った写真がいくつか出てきた。ポスターの絵と見比べていくと、まさに寸分違わない同じ作品が見つかった。
「やっぱりだ! これは盗まれたベンジャミンの絵だ!」
こうして僕たちはピカソの盗まれた絵と、それを盗んだ犯人を見つけ出した。これは後からわかったことなんだけど、ピカソの絵を盗んだのはその画家本人じゃなくその弟子だった。
たまたまこの町に立ち寄ったときにあの絵を見つけ、ベンジャミンが目の見えないことに気づくと、周りに人がいないのをいいことに盗んでしまったらしい。あの画家本人はもう何年も前からスランプで、自分の作品なんて描いてなかったのだという。つまりその画家の最近の作品はみな、彼のゴーストが手掛けたものだったんだ。
しかしこの事件をきっかけに有名になったピカソの作品は評価され、『盲目の芸術家』としてマスコミがこの町を訪れた。僕らの町はいまだかつてないほどに騒々しくなった。
ピカソは今やNY在住、セレブの仲間入りだ。新しい名前もついたらしい。
描く前から予約が殺到して、数え切れないほどでかい号数のキャンバスに向かって、何百時間もかけて絵を描いた。戦争も愛も、黒も赤も、ピカソは好きに描いた。どこにいたって彼の頭に描くキャンバスは消え去ることはなかった。後に何かの雑誌で読んだ、有名になった僕らのピカソの言葉を僕は覚えている。
「僕の視力は、あの日に失われてしまった。僕はそれまでの記憶を繰り返すようにして、キャンバスに絵を描き続けた。しかしある日いつからか、そのキャンバスは一人歩きをしはじめて、僕に新しい世界を見せはじめた。僕は今、新しい世界を毎日歩いている。僕はそれが楽しみでたまらない」
ピカソが去って、再び平凡で退屈になった町の湖のほとりを、いつものように新鮮な表情で景色を眺めるマリールーがいる。その腕にアルバムを、まだ見ぬ何かのように今日も大切に抱きしめて、僕たちの横を通り過ぎる。
マーマレード色の髪と、首からぶら下げたポラロイドが特徴的な僕たちのアイドル、マリールーだ。
《了》
ベイビーちゃん 虹乃ノラン @nijinonoran
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