游ぐ手紙

秋待諷月

游ぐ手紙

 夜の静寂しじまに、潮騒だけが満ちていた。

 真冬の新月のことで、冴ゆる星の瞬きばかりが青黒い空にかしましい。海面を滑って吹き寄せる浦風は、弱くとも身を切るほどに冷たく、海岸沿いの一本松の枝葉がゆらりと幽かに揺れている。辺りに里や人家の気配は無く、なだらかな低山に囲まれた浜は只管ひたすらにうら寂しげである。

 その、藻屑や貝殻が打ち上げられた磯臭い浜辺の波打ち際に、一人の男が座り込んでいた。

 風に乱れた束ね髪は白い。みすぼらしい麻の筒袖から伸びる腕は痩せ細って、あたかも流れ寄せた流木のようだ。括袴くくりばかまの尻が湿るのも構わず、濡れた砂地に胡座をかいて背を丸め、深く項垂れる頬のこけた顔に、表情は見当たらない。


 窮屈に折り曲げられた足の上には、はこが載っていた。


 黒く光る漆塗りに金箔で流水紋が施された、男の出で立ちには到底似つかわしからぬ見事な品である。ひと抱えほどの大きさと、蓋を被せられた平たく浅い外形から、文箱のように見える。鏡面のようにつるりと滑らかな蓋には、幽鬼のごとき男の虚ろな眼差しが映り込んでいた。

 だらりと落とされていた男の両の手が、徐に匣へと伸ばされる。かたり、と微かな音を立てて蓋が外されると、やはり黒く塗られた匣の底には、折り畳まれた一通の書状が横たわっていた。


 男に宛てられた手紙である。


 震える節榑立ふしくれだった細い指で手紙を取り出すと、男はそっと中を開く。淡く透ける上等の和紙に、流麗な筆致で記された文は一枚きりの短いものだ。


 たが、男はどうしても、これを読むことが敵わなかった。


 星の燈が頼りないがためでも、男がめしいでいるわけでもない。

 字をらぬのである。

 手紙が男に宛てられたものと断じたのも、偏に、この匣が男への贈り物であったが故に他ならない。

 長く、深く嘆息すると、男は読めない手紙を匣に戻して蓋を閉めた。


 ともに匣の中に収められていたものは全て消え失せ、もはや取り戻す術もない。唯一残されたこの手紙を、匣から出しては矯めつ眇めつし、また匣へと戻す男のふるまいも、これで幾度を数えるだろうか。


 手紙は読めずとも、内容ならば察しが付いた。

 男を責める言葉であろう。

 この手紙を男が開いていることは、即ち、男がこの送り主との約束を違えたことを示す。


 怒りでなければ、憐れみか同情か、それに類する男への気遣いかもしれない。

 さもなければ慰めか。或いは励ましか。

 いずれにせよ、それは男がしでかした過ちの結果に対するものでしかあり得ず、今さらなんの役に立つとも思えなかった。


 何故このようなものを匣に潜ませたのか、かの人の心は判らない。

 それでも男は、手紙を捨てることも、破ることもできぬままでいる。

 すがるものが他に何も無いからだ。


 帰る故郷は失った。行く当ても無い。男から何もかもを奪った匣の中から出てきたこの手紙が、今となっては皮肉なことに、男に残されたただ一つの心の拠り所。

 男は再び匣を開け、読めない手紙の表面を皺だらけの指でなぞった。

 潮風に晒され続け、すっかりくたびれ、ざらついた紙の上の美しい文字は、処処ところどころ、雨にでも打たれたかのように墨が滲んでいる。


 そこに、一際強い風が吹いた。


 不意のことだった。思わず瞼を固く閉じ、顔を庇った男の指先から手紙が攫われる。目を開くや、己が手中を確かめた男が泡を食って周囲を見回せば、探し物は頭上高くに舞っていた。

 咄嗟に伸ばされた男の細腕を逃れ、手紙は空を一飛びしたかと思うと、はらりと音も無く海に落ちる。

 男は声も無く、呆然とその様を見つめた。

 波打ち際を揺蕩う白くおぼろげな姿は、水母くらげか、或いはさめ背鰭せびれのようである。


 だが、男の霞んだまなこに、それは亀と映った。


 水を吸った手紙は徐々に水中へと沈み、同時に、波に誘われ陸地から遠ざかっていく。

 その姿を両眼に捉えたまま、男がゆらりと立ち上がった。

 空になった匣を片腕で胸に抱き、もう一方の腕を前へと伸ばし、一歩、また一歩と、男は海へ吸い寄せられていく。砂地に足跡を穿っていた草鞋わらじがやがて波を踏み、男の脛が、腿が、段々と冷たい海に呑まれていく。

 その真正面、遙か東の水平の果てより、まるで男を迎えるかのように日が昇った。東雲とううんの棚引く明け方の空を、さざ波が寄せる海面を、眩い光が走り抜けては鮮やかに色付かせる。空が、海が、焼けていく。


 腰までどぷりと海中わだなかに浸りながら、男は目を眇めた。

 朝焼けに朱く燃え上がる、燎原りょうげんの火のごとき海の何処に目を凝らせど、竜宮城は影も形も無い。






 了

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