悲劇のケルベロス

鹽夜亮

悲劇のケルベロス

 ここは冷たく、暗い。それが私たちの居場所だ。背後には重く、厚く、何よりも冷たい扉がある。

『兄上、今日の客人はあるのですか』

 左から末弟が問う。その声は威厳というより、繊細な優しさを帯びている。

『客人なんざ来ても来なくても関係ねぇだろうが。来たら腹の足しになるかどうかだ』

 右から次弟が答えた。荒々しい声は怒りと欲望に満ちている。

『一人来ると聞いておる』

 私は答えた。吐息が凍てつき、キラキラと宙を舞う。…


「地獄の入り口は、ここですか」

 客人は小さい。否、私たちが人の子と比較すれば大きいのだ。

「左様。我こそは地獄の番人、ケルベロス。お主が地獄に入るべきものかを見定めよう」

 客人は、私の声を聞くと静かに片膝をつき、首を垂れた。優雅な所作であった。

『優雅なお人ですね、兄上』

『然り』

 末弟は感心したように声を漏らした。次弟は威嚇するかのように歯を鳴らし、唸っている。

「私は大罪人です。地獄へ堕ちるべき人間です。現世であらゆる罪を犯して参りました。どうかその扉の先で、この身に断罪を」

 客人は顔を上げぬまま、静かな声音で言った。客人の罪状を、私たちは既に知っている。

「お主の人生は既に知っておる。その上で問おう。お主は、何故自らを大罪人とする?あああ、面をあげよ。そう恭しく接せずとも良い」

『兄者!人の子にそう寛大になることはねぇだろう』

『黙せ』

 客人は、静かに顔を上げた。その瞳には暗く、重い暗澹たる何かが宿っている。

「私は、私を殺したのです。あらゆる責務、生きることへの義務から逃れ、現世から堕ちることを望みました。現世で言われるところの罪、それらを犯したわけではありません。しかし、私の全てをお知りになっておられる貴方ならば、私の罪はお見通しかと存じます」

 声音に抑揚はない。淡々とした口調から漏れる息が、白く凍る。表情もまた、凍てついたように動かなかった。

「私は現世の宗教の罪を罪とは数えぬ。法の罪も全てを罪と数えるわけではない。お主の自害は、私の判断においてさしたる理由を持たない。隠し立てするのはやめよ。ただ全て語るべきものを語るがいい」

『兄上、この方は…』

『兄者、食うか?』

『黙せ、と言っておる』

 客人の目が、見開かれたのを私は見逃さなかった。瞬きの回数が増え、落ち着いた所作は若干の色彩を帯びる。人の子の動揺は、こうもわかりやすい。

「しかし…しかし私の…私は…」

「急がすとも良い。ここに時間はない。ただ、語るがいい」

 客人は息を深く吸い込んだ。目を瞑り、何かを考えている。無表情だった顔に、苦悩の絵が浮かぶ。しんとした空間は、まさに時が止まったかのように凍てついていた。


「私は、自らを死ぬべき人間、地獄へ堕ちるべき人間だと思い続けながら生きておりました。明確な罪はなく、愛情も注がれ、友もあり、そこには友情と呼ばれるものも向けてきたつもりです。ですが、それらは私の自己満足、身勝手より出でるただの延命措置に過ぎなかったのです。全ては私が死から遠ざかるための言い訳に過ぎませんでした。私は私の延命のために、現世の全てを利用したのです。私は、確かに私以外の人間の幸せを祈りました。ですが、私は私の幸せを享受しながらも、願いませんでした。私には幸せなど訪れてはならないと、その施しを享受しながらも拒絶していたのです。これは、私の弱さと身勝手より出でる虚偽の大罪です。私を殺すにも、悲しむ人がいるから、まだやり残したことがあるから、と何度もそれを引き伸ばしにしました。それは、私自身が自らが生き残るために蒔いた種、育てた悪魔の果実だと知りながらも、その理由を利用して、私は生きながらえました。これほどの罪があるでしょうか。確かに、現世で私が罰せられる罪を犯したことはありません。しかし、そのような数多の罪よりもよほど重い、大罪です。私はそれを知っていましたから。最後は…全てをやり切ったとは言いません。しかし、私なりに私の孤独を作り上げ、そして私を殺しました。なるべくしてなったのです。おこるべくしておこることが、おこったのです。私を処刑することは罪の精算ではなく、累積です。私は生きながらえたとしても、こうして処刑を受け入れたとしても、大罪を背負うことは決まっていたのです。それは運命、環境、現世のせいではありません。私自身の、生き方、考え方が生み出した大罪であり、末路です。欺瞞を知りながら自らを騙し、周囲の幸福を願いながらもそれを自らの杖として利用し、最後は全てを裏切って自らを処刑した、身勝手の、どうしようもない、裁くことのできない大罪人なのです」

 客人は一息に話し終えた。そこには憎悪と、苦痛と、悲嘆と…あらゆる感情が渦巻いていた。人の子は、複雑な心を持っている。それは人の抱えるにはあまりにも大きく、暗く、重く、そして偉大な。

 客人は話し終えると、事切れたかのように跪き、冷たい地面だけを見つめていた。まるで処刑を待つ、大人しく首を差し出した罪人のように。


「帰れ」


 私が発した言葉は、一つだった。客人はびくりと肩を震わせ、顔だけを上げて信じられないかのように私を見つめた。

「何故ですか。何故。何故これほどの、悪魔を地獄へと入れてくださらないのですか。私はここで裁かれて当然な人間です。先ほども話した通り、私の人生は虚飾と自己欺瞞と、延命に塗れていました。そのような人間が…」


「帰れ、と言ったのが聞こえなかったか、人の子よ」


 客人はひどく狼狽えた。その顔には、困惑と絶望が浮かんでいる。

「しかし私の帰る場所などどこにもありはしないのです!!!」

 絶叫が響いた。末弟は寂しげに目を逸らし、次弟は口を閉じて客人を睨みつけていた。

「何を言っておる。お主の帰る場所など、現世しかあるまい」

「しかし…私は既に自らを…」

「嘲るな。人の肉体の死程度の瑣末な事を私が如何様にでもできないと思うか」

 客人はただ私を見上げていた。絶望ではなく、希望でもなく、その顔にあるのは、驚きだった。

「現世に帰ってどう生きればいいと言うのですか。私は全てを捨て、裏切り、そしてここに来たのです。生きる場所など現世にありはしません」

 客人の瞳から涙が溢れた。それは地面に落ちると、宝石のように凍てつく。私はすでに最後に口に出すべき事を一つしか持たなかった。


「阿呆。それでも生きるのだ。現世で」


…………………………………






『兄上。彼は大丈夫でしょうか』

 客人の去った後、涙の残した宝石を眺めながら末弟が呟いた。

『兄者、腹が減ったが奴は食う気にならなかった。腹の足しにもならねぇ…』

 次弟はそうため息を漏らす。

『奴は現世を生きるであろう。ここに来るべき時まで。機を間違えたのだ』

『……次の客人が来るまで、また兄上たちとゆっくりお話ができますね』

『次は食える奴が来るといいが…全く…俺は寝るぞ』


『私に貴様らがいるように、奴にも待ち人ががおるだろう。奴の撒いた、大罪と呼んだその種が花開くのは未だ先の話だ』


 地獄の門前は静かに、厳かに、そして孤高に、ケルベロスの吐息だけを携えて、次の客人を待っている。…

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悲劇のケルベロス 鹽夜亮 @yuu1201

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