無記名

白河夜船

無記名

 兄弟が欲しい、と他家よそを羨んで思うのは、一人っ子の幼少期にはありがちなことだろう。

 御多分に洩れず、幼い僕もそうだった。

 両親が仕事で留守がちだったせいもあるかもしれない。兄弟と親しく遊び、話している友人を見て、僕にもあんな風に兄弟がいたら……と何度も繰り返し夢想した。

 殊に憧れたのは、兄である。それも少し年が離れた。弟や妹を望む方が現実的だと子供ながらに分かっていたが、親と接する機会があまりなかった手前、頼れる年上というものに惹かれていた。保護者であり、友人であり、家族でもあり得る同性の兄弟。

 夜、一人ぼっちで留守番している時などに、『兄』が本当にいればどんなに良いか、と考えてみる。大人がいない家は『兄』と僕の秘密基地になるだろう。一緒に遊び、勉強し、食事をする。トイレや風呂、真っ暗な廊下など一人では怖い場所も、二人ならきっと平気だ。ホラー映画や時折放送される不気味なドラマにだって、気安く背伸びして挑戦できる。


 兄が欲しい。


 そう強く願い、空想を重ねる内に、いつしか『兄』は一個の人間のような質感を持って僕の中に立ち現れた。性格、声、言葉遣い、表情、仕草、あらゆる細部が固定化し、『兄』というキャラクターが出来上がったのだ。ただ、イマジナリーフレンドを作ったのかと言われればそうではなく、『兄』は僕にとってあくまで単なるキャラクターに過ぎなかった。物語に影響されて作ったヒーローや怪獣同様、空想上の存在であり、現実には決して存在しない―――


 存在しないはずだった。


 ある日の晩、リビングで漫画を読んでいた僕は、いつの間にかソファーに凭れて眠ってしまった。静かだと怖いからというそれだけの理由でテレビは点けっぱなしであり、明るい音楽や賑やかな声が意味を成さないまま、穏やかな雑音として夢の中を通り過ぎる。

「おい」

 その一言がふと鮮明に意識されたのは、それが僕に対して発せられた言葉であり、言葉を発した人物が僕の肩を揺さぶったためだ。

「寝るなら歯ぁ磨いて、部屋行けよ」

 父でも母でもない、子供の声にはっと驚いて顔を上げると、ある意味では見知らぬ、ある意味ではよく見知った少年が呆れ顔で僕の隣に腰掛けていた。

「に、兄ちゃん…?」

 小学校高学年くらいらしい様相の彼はどこをどう見ても僕の『兄』で、咄嗟にそれ以外の言葉が出てこなかった。

「兄ちゃん」

「うん」

「兄ちゃん」

「うん。何だよお前、さっきから。寝ぼけてんのか?」

 首の傾げ方、笑い方、話し方――全てが僕の想像通り。現実と空想の境がぐにゃりと歪む感覚に眩暈がしたが、同時に歓喜も胸の奥底から湧いてきた。

 これはたぶん夢なのだ。そして、いつか聞いたことがある。夢と自覚している夢は内容をある程度好きにコントロールできる、と。ずっとやってみたかったことを夢の中とは言え、やれるかもしれない。

「兄ちゃん、ゲームしようよ」

「は? 眠いんじゃないの」

「眠くなくなったから遊びたい!」

 僕のはしゃぎ様に『兄』は目を瞬いて、まあ別にいいけどさ、と面倒見が良さそうな苦笑を浮かべた。






 一夜の楽しく儚い夢幻だ、と当時の僕は思っていた。だが目一杯遊び、遊び疲れて眠ったその翌日。目覚まし時計に起こされて一階へ下りると、朝食の席に昨夜の少年――『兄』がいた。当たり前の顔をしてダイニングの椅子に座って、トーストにマーガリンを塗っている。

「おはよ」

 出入口のドアを開けたまま、呆然と廊下に立ち尽くす僕を見詰めて『兄』は不思議そうに首を捻った。

「早く来いよ。パン、冷えるぞ」

「あ、うん」

 ひどく奇妙な状況だった。

 朝の一時は数少ない家族全員が揃う時間なのだが、父も母もいきなり現れた少年を不審がる様子もなく、いつも通りに振る舞っている。初めは僕にしか見えていないのではと訝ったものの、そういうわけでもないらしく「お兄ちゃん、食器運んで」とか「今日は学校、何時まで?」とか、両親は『兄』にも普通に話し掛けた。まるで昔から『兄』が家族の一員であるかのように。

 両親だけではない。周囲の人間全てがだった。友達も他学年の生徒も先生も近所の人も、僕に『兄』がいることをおかしいとすら思わず、問題の『兄』とも極々自然に接している。ただ僕一人が、空想上の『兄』が現実に現れたことを認識して、戸惑っていた。

 それでも案外すんなりと僕が『兄』の存在を受け入れたのは、ひとえに幼かったゆえだろう。異様な物事に対する拒否感が薄く、ずっと憧れていた『兄』を得た喜びが何物にも勝ってしまった。子供らしい単純さで「夢が叶った」――それだけのことだと思ったのだ。


 そしていつしか『兄』がいる日々の方が日常になった。一人っ子だったかつての自分は、最早僕の記憶の中にしか存在しない。覗いたアルバムにはきちんと折々撮られた『兄』の写真があって、両親や祖父母は僕が産まれる以前の『兄』を知っていた。


 一時は僕自身、昔は『兄』がいなかったという記憶を幼時の勘違いだと思い込みそうになったくらいだ。しかし長ずるにつれ、些細な違和感が気になり始めた。

 例えば容姿。目付きや唇、爪の形、背丈、歯並び、髪質、黒子の有無……簡単には変えられないはずの身体の各所が、『兄』はその時々で微妙に変化していた。僕の頭の中にある『兄』の姿を、どうやら都度反映しているらしい。だからこそ分かり難かったが、一度気づいてしまえば違いはもう明白だった。過去の兄の特徴と、現在の兄の特徴がどうしてもうまく合致しない。

 例えば名前。僕にとって『兄』はあくまで『兄』であり、それ以外の何者でもなかった。そのせいかもしれない。『兄』には決まった名前がなく、何かの機会に『兄』の名前を見聞しても、後になると不明瞭な響きやぼやけた文字が漠然と頭に浮かぶだけだった。こんなものが、まともな人間であるわけがない。

 そう察しても、僕は『兄』を兄として扱い続けた。探りを入れることも、突き放すことも、逃げることもしなかったのは、彼との関係――『兄弟』という関係が壊れてしまうのを恐れたためだ。

 異常を異常と認めた頃にはもう、僕は『兄』を他人とも単なる異質な存在とも割り切れなくなっていた。家族だ、とそう思ってしまっていたのだ。




『兄』が何者であろうと、家族を失いたくはない。




 大学進学を機に上京し、今は『兄』と安アパートの一室で暮らしている。休日の夜、借りてきた一昔前のホラー映画をテレビで観ながら「兄さん」と僕は呟いた。座卓に頬杖を突き、画面を眺めていた『兄』がこちらを向いて「何だよ」と首を傾げる。細めた右目の下にある泣き黒子は、ついこの間までなかったものだ。

『兄』を不可解な存在と現在は認識しているせいだろう。『兄』の顔に浮かんだ微笑は、少し胡散臭かった。

 口を開きかけ、声が出なくてまた閉じる。

 十数年前不意に現れたこの『兄』は、一体いつまで僕の兄でいてくれるのだろう。ある日ふつりと煙が晴れるように跡形もなく、消えてしまうのではないか。粘ついた唾を飲み込む。『兄』がここにいる意味も理由も原因も、僕にはとんと分からなかった。知ろうとする行為すら『兄』が消えるきっかけとなりそうで、空恐ろしくて身動きできない。

 そんな中でも一つだけ、直感に基づく確信があった。


 名前だ。

 名前を付ければいい。

 一言、■■兄さんと呼べばいいのだ。


 そうすれば『兄』はきっと、真実僕の兄になる。性質も姿形も曖昧模糊とした彼を、一個の人間の型に押し込んでしまえる。兄として僕に繋いでおける。

 もう一度口を開きかけて、また閉じた。

 名前を付けたら『兄』はただの兄になるだろう――空想を反映することもなく、理想を具現することもない、普通の兄に。そうなった時、果たして僕は彼を『兄』と認められるのか。彼は僕を『弟』と認めてくれるのか。


 テレビの中で女が甲高い悲鳴を上げた。


『兄』が笑う。

 僕も笑った。

 不安定で心地好い揺籃ようらんを抜け出す勇気は、未だ持てない。

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無記名 白河夜船 @sirakawayohune

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