ネクロポリスの聖女 〜夢読姫綺譚〜

愛野ニナ

第1話


 巡りくる周期が近い。

 ゆらめく影は蜃気楼のごとき。

 ざわめく闇は覚醒の兆し。

 あの契りの夜を見つめていたのもこのような新月の闇だったのだろうか。

 森の奥深く忘れ去られた廃墟に、

 私は告げに来た。

 祝福を。そして終焉を。

 ここもまた叶わなかった夢の墓場だから。

 共にいきましょう知られざる記憶の深淵へ。

 それでは語りましょう無意識の底で戯れに。

 これは異形なる愛の物語。

 ねえ、あなたの夢をきかせて。

 あなたの本当の願いは…何?



 ある夏の午後。

 ノアの親族だと言う少女が訪ねて来た。

 通り雨の過ぎた日差しに輪郭線さえとけてしまいそうなほどに白い肌がノアに似ていないこともない。歳の頃はノアより少し年長の十七、八といったところだろうか。年頃にそぐわない臈長けた表情と身に纏った黒いドレスにどこか不吉な予感めいたものがあった。彼女はミヨミと名乗った。

「ノアの見舞いにこのような辺境まで?」

 それは実際奇妙であった。

 ここは年若い娘がわざわざそれもひとりで来るような場所ではない。

 ヨーロッパの古城をイメージしたこの建物は昔、私の祖父が道楽で建てた避暑用の別荘をサナトリウムとして改造したものだ。

 開業してから二十余年、食料や物資を届けに来る出入りの業者を除いては訪ねてくる者などほとんどいない。

 患者もそして住み込みで働く従業員もこの人里離れたサナトリウムにいるものは皆、訳ありなのだ。

 しかしミヨミはここがどのような場所なのかわかっているのだろうか。

 私の疑問に彼女はただ微笑を浮かべている。何色だかよくわからない色素の薄い瞳には暗い輝きが宿っている。

「ねえ、あなたの夢をきかせて」

 その声は意識に滑り込み、心の奥底に秘めたるものを呼び起こす。

 彼女は囁く。

「私がお手伝いいたします。あなたの世界はあなたの望むがまま」


 

 ノアは本のページを閉じた。

 黒革の表紙には蔓薔薇の装飾が刻印されている。中身は手書きの文字で記され後半は白紙であった。

 書庫は患者に解放されていたのでいつでも自由に利用することができた。院長先生の祖父の時代からの蔵書が数多納めてあり、患者達の退屈な療養生活でのいくらかの慰めにもなっていた。

 特にノアは本が好きで、いつも時間を忘れて書庫の本を読みふけった。読書のおかげで歳のわりに大変大人びて落ち着いた思考ができるようにもなった。

 手にとった本を眺め改めて考える。

 これはいったい何?先生の日記?それとも創作小説なのかしら。 

 なぜか胸が苦しくなってくる。微熱があるのかもしれない。今日はもう休もう。この虚弱な体はすぐに疲れてしまうのだ。ノアの手には少し重いそれをそっと本棚に戻す。

 部屋に戻り寝ていると、ミヨミが巡回に来た。手を付けてない食事を一瞥し、いつもどおりの無表情で点滴を取り替えた。

 はたしてこの人は私の親族なのだろうか。そんな話はきいたこともない。でも、ちょっと待って、この人って?気がついたら先生の助手をしていたけれどいったいいつからいたのだったかしら?ふとそんな疑問がわいたが黙っていた。

 ノアが父親に連れられてサナトリウムにやってきたのは七つの歳だ。それから七年、多忙な父親が訪ねてきたこともなければ実家に一時帰宅したこともない。

 このサナトリウムだけがノアの世界の全てであり、書庫の本から学んだことが知識のほとんど全てであった。

 ミヨミがもし親族だというのなら父の親族だろうかそれとも母だろうか。ノアは実の母親を知らない。物心ついた頃にいたのは義母で、実の母親はノアを出産した時の産褥熱が元で亡くなったと幼い頃乳母にきいた。だがノアには家族を恋しいと思う気持ちはない。あったものがなくなったのならともかく、ノアにとっての家族ははじめからいないも同然だったから。

 それよりも大切なものはこの場所であり、そしてただひとりの慕う人、雪彦先生だけ。

「先生は夜には様子を見にきますから」

 ノアの額にミヨミの白い手が重なる。その手はひんやりと冷たくて額の微熱で雪のように溶けてしまうのではないかと思わせる。

「悪夢は見ないわ、大丈夫」

 ミヨミはいつも唐突だったり言葉足らずで話がかみあわないのだが、その声は不思議と心地いい。

 外界の人々はまもなくやってくる大戦の兆しに怯えていたが、迫り来る戦火の蹄の音もここまでは届かない。世界のことなどここでは何も知る必要がなかった。

「おやすみなさい。美しい夢を」

 ノアは目を閉じる。

 眠りに落ち、また夢の中へと導かれる。

 誰に?何に?



 彼女に唆され、私は禁断の実験に手を染めた。

 あいにく被験体には困らない。

 サナトリウムとは名ばかりで、実際ここにいる患者は、回復見込みのない重病人、未知の奇病難病など、他の病院からも家族からも見放されたありとあらゆるやっかいな者達ばかりであった。

 それでも私は全ての患者を受け入れ平等に診てきたのだ。

 ─彼女がやってくるまでは。

 だが秘めた欲望は溢れ出しもう私自身にさえ止めることはできなかった。

 森の近辺の集落からは気味悪がられ、折しも規制がかかる前に流行した怪奇映画になぞらえてあまつさえ私のことをフランケンシュタイン博士のごときマッドサイエンティストと呼ぶものさえあった。奇妙な噂は絶えず、用無き人々は誰も近寄ろうとはしなかった。

 だからこそ私は誰にも咎められることなく揚々と好き勝手に人体実験を繰り返すことができた。

 このサナトリウムは私の夢の城なのだ。



 耳元で繰り返す荒い呼吸が自分のものだと気づくまでに幾らかの時間がかかった。

 体が熱い。また熱が上がっているのがわかる。曖昧になりゆく意識とは裏腹に無意識が昂揚している。

 何度めかの読みかけの本。黒革の表紙に蔓薔薇の装飾。

 ノアは再び本を開き震える指でページをなぞる。

 ─夢は私の手で天使を作り出すことだ。人ならざる究極の存在を──

 いつしか見慣れてしまった筆跡で記された文字は、そこで止まっていた。



…見てしまったね、ノア

 悪い子だな

 そう私の実験はすべて君のためにあった

 君こそが究極の存在にふさわしい

 美しい純白の天使

 さあ、診察の時間だ

 服を脱いで……



 私は体を開きそれを受け入れた。

 先生の夢の結晶。

 新薬パンドーラ。

 未知の痛みと共に注入されたそれはまず猛り狂う熱となり全身をかけめぐった。続いて血液が逆流するような感覚に襲われ今度は体が次第に凍りそうなほど冷えていった。それと同調するかのごとく全感覚が針のように研ぎ澄まされていき、細胞のひとつひとつが別のものへと変成していく過程をも明瞭に意識していた。

 何のためなのか、これに何の意味があるのかわからない。

 私に手を差し伸べてくれたただひとりの人のこれが望みだというのなら、私は喜びのうちにこの身を捧げよう。

 本当はずっとこの日を待っていた。

 幼き日、出会った瞬間から私は貴方だけが欲しかった。

 体の奥深くに眠る遠い血の記憶が求めている。

 だから今こそ。

 覚醒を。

 誓いの契りを。

 永遠なる接吻を。

 真の淑女となるために。

 嗚呼、貴方の白衣に散った鮮血が私の視界を赤く染めていく。 

 夢見ていた穢れし抱擁。

 初めての、獲物。

 脈打つ命は甘い味がした。 

 先生の死とともにサナトリウムは閉鎖した。

 私にとってその後の時の流れは無意味なものでしかない。

 外界では開戦し敗北し終戦ののちに過ぎた年月も私の身には何ら感じることはなかった。

 廃墟と化したサナトリウムの地下の霊安室には引き取り手のない死体を納めた棺が並ぶ。

 私はそれを守護し弔うものとなった。

 私は貴方にとって特別な、唯一無二の被験体。そして究極の存在なのだから。

 雪彦先生、これでよかったのですね。


 

 ミヨミは本のページを閉じた。

 黒革の表紙には蔓薔薇の装飾が刻印されている。中身に記された文字は途中から筆跡が変わっている。

 古びた本を見つめてミヨミは思う。

 これが彼の夢?

 手記の中に出てくる薬さえ確かに存在していたはず。

 …だとしても。

 ミヨミは小さく呟いた。

 あってはならないものだから。

 叶わなかった夢の結晶は。

 それは…。



 ある夏の午後。

 ミヨミはその廃墟を後にした。

 通り雨が過ぎた日差しが森の中に木の葉の黒い影を落としている。

 彼女にとってもまた時の流れは無意味なものであった。

 黒い大きな鳥が旋回しながら舞い降りてきて彼女の華奢な肩にとまる。その姿は異様で、まるで彼女自身に黒い羽根が生えているかのようにも見えた。

「周期はどうする?このまま見過ごしていくのか」

 ミヨミは語りかけてくる意識に頷いた。

「存在してはならないもの。それは私も同じだから。でも…」

 ひとりは寂しいよ、ミヨミは続く言葉を心の内にとどめた。

「もう行かないと。次の夢が待ってるからね」

 人は誰しも私達を置き去りにしていく。

 雪彦先生もとうに逝ってしまった。

 しかし彼のその叶わなかった夢の結晶はもう少しここに封じたままにしておこう。

 覚醒にはまだ早い。

 やがて来る贖罪の時まで。

 この約束の地で。

 おやすみなさい、ノア。

 美しい夢を。



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