12月9日:ユアンと写真撮影
去年のセレブエリア待機場所は外で、会場からかなり距離があった。会場内にいた場合は一度外に出て列を作り、幕張メッセをぐるっと回って再びホールに戻ってくるという、非合理を突き詰めたみたいな導線だった。ちなみに、ホールからメッセの外に出るだけで五分以上かかる。コロナの影響で致し方がない部分があったにせよ、あれは案内を見ただけでげんなりした。あれを体験せずに済んで、ある意味私は幸運だったのかもしれない。
今年の待機場所は、ホールとホールの間にある半屋外のアーケードみたいな場所だった。そのため、ステージのあるホールを出たらすぐに待機場所。
待機エリアには、ずらずらと列がいくつもできていた。セレブセッションの集合は開始時間の30分〜1時間前。つまり待機場所には、1時間分の撮影とサインの列が、セレブの人数分、同時に存在しているのだ。混乱するなという方が無理だ。スタッフもそれは承知で、何度も「16時の○○さんのサインチケットお持ちの方いらっしゃいませんか。まもなく受けつけ終了します!」「これは17時の○○さんの撮影待機列です」とアナウンスを繰り返していた。実際、その声を聞いて列から抜けて、スタッフに連れられて別の列は走っていく人もまれにいた。あっぶな。
私は「ユアン・マクレガー撮影17時」と書かれたプラカードを持ったスタッフを見つけ出し、その列に加わった。ジャスト1時間に行ったのに、もうすでに100人以上は並んでいたと思う。別に早く並んでも早く順番が来るだけで、大きなメリットがあるわけではない。でも撮影とサインは当日急に集合時間が変わったり、そのくせアナウンスがなかったりといったトラブルが珍しくないそうなので、早めに並んでおきたい気持ちはわかる。
30分前くらいに列が移動し、その隣のセレブエリアのホールへ入った。入り口で手荷物検査とボディーチェック(金属探知機)を受けたあと、プラカードとスタッフの案内を頼りに再び列を作り直す。列の先には真っ黒な壁で囲われた四角いブースがある。その中で撮影をするのだ。
そこでさらに待つ。一日中歩きっぱなしなので、もうすでに足がだるい。
まだかなぁ。
たまにしか使わないコンタクトのせいで目が疲れて、スマホはあまり見たくない。文庫本も持ってきてはいたけど、このコンタクトは文字を読むのに適した度数ではないので、やはり目が疲れる。
だから私は後ろや横の人の迷惑にならない程度に足を伸ばしたり、周りにいる人のコスプレを観察するしかなかった。
まだかなぁ。
ひまだなぁ。
ていうか案外、私、余裕じゃん。緊張もしてないじゃん。
そう思っていた。
でも実際は、ぼんやりと周りを見回しているだけで、頭の中は真っ白だった。
私は上がり症で、緊張すると手が震え、動悸で視界が揺れ、息が吸えなくなるのだが、このときはひとつも発症していなかった。だから自分がとんでもなく緊張していて、本すら読めないほど知能が低下しているということに気づけなかったのだ。
ブースの方で歓声と拍手が上がった。ユアンがブースの中に入ったのだ。といっても、それを拝むことができたのは先頭の数人だけだ。なるほど、早く並ぶメリットはここにあったか。
撮影が始まると、待機列の温度がちょっと上がった。
ブースから、フラッシュライトとシャッターを切る音だけがもれてくる。
…………ピカッパシャッ
…………ピカッパシャッ
…………ピカッパシャッ
え、速くない?
宅配便を受け取ってサインするのだってもうちょっと時間かかるよ?
え、待って、マジで?
一回三万円のシャッターを、その速度で刻んでっちゃうの?
これが噂に名高いベルトコンベア撮影か……!
私が
ブースの近くにはカゴが並んでいて、そこに荷物を入れる。貴重品以外はブースに持ちこめない。ちょっと迷ったけど、お気に入りのライダースジャケットも脱いで置いてきた。ちょっとでもユアンを近くに感じたいから。うわっ、文字にするとすごく気持ち悪い。
いよいよブースに入った。前にはまだ数組いたけど、その隙間から、姿が見えた。
ユアンが、いる!
生きてる! 実在してる!
ヒゲの長さがまさにドラマ『オビ=ワン・ケノービ』で、やばい、うわ、本物。
他の人が撮影している間、私はユアンをただじっと見つめていた。
今思えばこれは正しい行動だった。撮影のために横に並んでしまうと姿を見ることはできなくなってしまうので、肉眼でセレブを拝みたかったら、ブースに入ってから自分の番が来るまでの間にしかと目に焼きつけておくしかない。だが残念ながら、それは私の意思によるものではなかった。虫が光に集まるのと同じで、ユアンというまぶしすぎる存在に視線が吸い寄せられただけだった。その証拠に、あれだけ見ていたはずなのに記憶はかなりあいまいだ。
私の前に並んでいた男性の番になった。男性は三、四歳くらいの女の子を抱っこしていて、その子を見た瞬間、ユアンの目尻が下がった。
「Hi〜!」
女の子の顔を覗きこんで微笑みかける。微笑みなんて言葉じゃ足りない。慈愛の照射。無邪気の塊。かわいいの権化。あんなの至近距離でくらったら即死する。
女の子がカメラの方を向かなくて父親、カメラマン、ユアンが「こっち向いて~」と声をかけるひと幕もあり、ブースの中の空気がちょっとほっこりした。
写真を撮ったあとも、ユアンは女の子の顔を覗きこんでなにか言いながら手を振っている。他の参加者とは明らかに対応が違ったけど、その笑顔をすぐ横で拝ませてもらったから、すべて許せる。
目尻が下がりっぱなしなユアンを見て目尻を下げている私の背中を、スタッフが強めに押した。
「次どうぞ」
いや、ユアンがまだ女の子と話してるでしょ。女の子でちょっと時間かかったからって私で遅れを取り戻そうとしないで。待って、押さないで。え、強くない?
まだユアンが女の子の方を向いているというのに、私はユアンの前に押し出されてしまう。
そのせいで、振り返ったユアンの視線はいったん私の頭上を通りすぎ、列の先頭あたりに行ってから、戻ってきた。
そして、ユアンと目が合った。
薄い水色の目が、私を真っすぐに見下ろす。
私はほぼ条件反射で「Hi」と口にしていた。ほぼ同じタイミングで、ユアンも口を開いた。
「Hi! How are you?」
生で聞くユアンの「Hi」は耳に心地よかった。昔ながらの耳かきのお尻についているぽしょぽしょで耳の中を優しくなでられるみたいな心地よさとくすぐったさで、もうすでに胸がいっぱい。
そのまま流れるように、私はユアンの
カメラの方を向いて一秒程度でシャッターが切られる。
体を離して、ユアンにお礼を言う。見上げたつもりだったけど、近かったせいか、私はユアンのヒゲに向かって「Thank you」を言っていた。でもそのことに気づいたのも、あとになってからだ。
ブースから出た私は、ただの腑抜けと化していた。ここに来てようやく、私は自分の頭が真っ白であることを自覚した。手遅れにもほどがある。
それから私は、自分がやらかしたミスに次々と気づいていく。
まず、ユアンの「How are you?」に対してなにも返していない。「Hi」が言えたことに安心したのか、それ以降はまったく耳に入っていなかった。いや、聞こえてはいたんだけど、脳まで届いていなかったのだ。さっきのユアンのセリフも「How are you?」と書いたけど、私の耳に残ったかすかな残響と流れ的にこうじゃなかろうかと推測しただけなので、実際のところなんて言っていたのかは永遠の謎だ。
それから、準備していた「Could you give me a hug?」はどうした。おそらくブースに入ったときには、きれいさっぱり吹き飛んでいた。テスト前は開始時間ぎりぎりまでノートや単語帳を見返していたタイプの私が、スマホのメモの存在すら失念していたのだから、救いようがない。
はぁー
うわぁー
えー
ため息まじりにもれてくるひとり言は、ちいかわレベルの語彙力しかない。あるいはゾンビ。
腑抜けゾンビはカゴから荷物を取り、くねくねと折り返す通路を黙々と歩き、印刷エリアへたどり着く。シャッターを切ってから二分も経っていないのに、もう写真は印刷されて袋に入った状態で置いてあった。こんなとこまでベルトコンベアなのね。
ユアン・マクレガーと、彼の右脇にすっぽりはまりこんだ自分が、一枚の写真の中に写っている。それを見てようやく「あ、本当に、一緒に写真撮ったんだ」と実感めいたものが湧いてきた。
さっき、ユアン・マクレガーが私に話しかけてたんだ。
横に並んだんだ。
マジか。
はぁー
うわぁー
えー
写真を見ると、ユアンはがっつり私の肩を掴んでくれている。けれど不可解なことに、いくら記憶を掘り起こしても、ユアンに触れられた感触が思い出せない。頭が真っ白なだけではあきたらず、自分の体の感覚すら失っていたのだろうか。じゃあ私はなんのためにライダースを脱いだんだ?
けれど写真に写る自分の顔は、なんていうか、私にしては、いい顔をしていた。
撮影チケットを買っておいてなんだが、私は写真がすこぶる苦手だ。笑顔の作り方が下手すぎて、笑うとラクダのようになってしまうため、最近では笑いかたを
なんだよ、お前、めっちゃ楽しそうだな。
ブースを出てから後悔しかなかったけど、写真を見たら、ちょっと、ましになった気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます