12月10日:マッツと写真撮影

 当初の予定では、ユアンのサインが終わった段階で私のコミコンは終了のはずだった。

 ところが今朝、入場のために一般待機列に並んでいたときのことだ。

 Twitterにマッツ・ミケルセンの当日券を追加販売するという情報が流れてきた。会期中に突然、セレブの厚意で当日券が増えることはちょくちょくある。特に今回、マッツとベネディクト・カンバーバッチは、そ、そんなに大丈夫ですか? ってくらいバンバン当日券を出していた。昨日は結構予定が詰まっていたので手を出そうとは思わなかったが、今日は午後が丸々フリーだ。

 実は私は前売りの段階で、マッツを買おうかどうしようか悩んでいた。また例の「私ごときが行っていいのか?」が発動して、もたもたしてるうちに完売してしまったのだ。

 コミコンが始まると、Twitterではマッツに殺されて喜ぶファンの写真が続々と流れてきた。背後に立ったマッツに腕で首をホールドされ、反対の手に持った見えないナイフで背中を刺されたり。両手で首を掴まれたり。かと思えば、定番のハートとか、シーと口の前に指を立てるポーズとか、じっと見つめ合う横顔の写真もあったりして。

 いいなぁ……。

 そんなファンたちの感動感涙阿鼻叫喚ツイートを、私は指をくわえて見ていたわけである。

 とはいえ追加された当日券も、あっという間に完売する。だから今回もあまり期待せずに販売ページを開いた。

 まだ買える!

 サインがふたつの時間帯。

 撮影がひとつの時間帯。

 迷った。

 安い買いものじゃない。そりゃあ、迷うさ。でも以前と違うのは、迷う理由が「私ごときが~」ではなく、来月のカードの請求額への心配なのだ。これは私にとって衝撃的な変化だった。

 そのとき私の脳裏を、Twitterで見た金言がよぎった。

 買う理由が金額ならやめておけ。迷う理由が金額なら買え。

 そこからは速かった。夕方の撮影の購入ボタンを押し、スマホが記憶しているカード情報を勝手に入力してくれて、購入通知がメールで届く。

 買えた。

 買っちゃった。

 あはは、来月の自分、頑張れ~!

 というわけで、昼頃にユアンのサインが終わったあと、会場内でマッツの当日券を発券して、食事をしたり会場をブラブラしたりして夕方まで時間を潰した。

 待機エリアで並び、手荷物検査をして、セレブエリアに入ってまた並ぶ。これまでと違って、セレブエリアは静まり返っていた。それもそのはず。セレブがだれひとりとしていないのだ。列は動かないし、ここが最後の回なので誘導するスタッフの声が飛び交うこともない。セレブたちは全員、3日間のコミコンの締めくくりである「グランドフィナーレ」に登壇するためステージにいるのだ。壁から下がった大きなスクリーンには、ステージを中継した映像が流れていた。待つ人の多くは、ミュートされたその映像をぼんやり見上げている。

 手元のチケットには開始時間が「17:30」とある。しかしグランドフィナーレの予定は「17:00~17:45」だ。いや、無理じゃん。なんでそんな嘘ついた。45分開始、いや、18時開始でもよかったはずだ。その時点で、私は待機エリアを含めてすでに一時間くらい並んでいた。2日目の夕方、いい加減、足は限界である。一日中ずっと立ちっぱなしだったところに、なんかさらに無駄に待たされた感じがして、ちょっとイライラしていた。

 結局、グランドフィナーレはちょい押して18時くらいに終了した。

 やっと来るぞ、と期待でちょっと場の空気が温まってきた。

 スタッフが、マッツの撮影の参加者に案内する。

「ポーズの希望がある場合はジェスチャーで伝えてください」

 この三日間で蓄積された経験から導き出されたワードなのだろうが、言葉の奥に「お前らわかってんだろうな」という圧を感じる。ベルトコンベアを止めるな、ということだろう。また、目を合わせたまま横向きで撮影するのはNGだという案内もあった。たぶんシャッターを切るタイミングが掴みにくいのだろう。まあ、これは仕方ないのかも。

 さて、マッツとどう撮るか。

 昨日の撮影でユアンに「Could you give me a hug?」を言えなかった後悔を地味に引きずっていた。マッツとハグすることで、そのときの雪辱を晴らしたい。

 だがユアンに言えなかったのだから、マッツにも言えないと考えるのが妥当だとうだ。次こそは、は起こらない。私はいい加減、身のほどを知るべきだ。

 過去二回の経験から、本物を前にした私のコミュ力はレベル12からさらに低下することが判明している。スキル「外面」を発動することすらできない。そんな緊張状態でしゃべれるのは、おそらく二語が限界だと判断した。

 Hug me.

 これでいくしかない。

 ジェスチャーはどんなふうにやればいいだろうか。両手を広げながら近づいていったら、わかってくれるかしら? 「Hug me」と言いながらやれば、さすがに通じるかな。

 そうこうしているうちに、どこかで歓声が上がった。ステージを終えたセレブが来たのだ。

 やがて、マッツの列も動き始めた。シャッターがパシャパシャ光り、列は爆速で進んでいく。

 待って速い。

 ユアンよりさらに速い。

 どういうこと。なにが起きているの。

 待っている時間はあんなに長かったのに、ブースに入るまで本当にあっという間だった。

 マッツが、いる。

 ただ立っているだけなのに、そこだけレッドカーペットみたいにキマっている。

 写真で見ても仕組みがよくわからなかった髪は、生で見ると一層ミステリアスだった。後ろはほとんど黒に近い茶色。生え際の上で小さな丘を描くシルバーの前髪は、先端の方でミルクティーのような淡い茶色に変わる。激渋と上品さがにらみ合いを繰り広げる中をふわりと横切る甘さ。掴みどころがない、ひと筋縄ではいかない感じがまさにマッツ・ミケルセンって感じ。

 そして、でかい。股下がおそろしく長い。顔は小さい。本当に同じ種族だろうか。

 しかし、それよりも驚くべきはその撮影速度だ。

 参加者「(自分の首に腕をからめる)」

 マッツ「(一歩下がりながら腕を広げる)」

 参加者「(マッツの前に立ち、首をマッツの腕の中におさめる)」

 パシャッ

 参加者「Thank you(去る)」

 次の参加者「(手でハートの片割れを作りながら進む)」

 マッツ「(手でハートの片割れを作る)」

 参加者「(マッツの横に立ちハートが完成する)」

 パシャッ

 参加者「Thank you(去る)」

 次の参加者「(両手で自分の首を掴む)」

 マッツ「(横を向いて両手を広げる)」

 参加者「(首をマッツの手の中におさめる)」

 パシャッ

 参加者「Thank you(去る)」

 なんてシステマチック! あいさつすらない(する人もいたかもしれないけど)。

 Twitterで写真を見たときからずっと疑問だったのだ。ベルトコンベアの流れの中、いったいどうやって要望を伝えているのか。なるほど、こういうわけか。

 参加者がジェスチャーを提示してから、マッツが理解して受け入れ体制を整えるまでおそらく1秒とかかっていない。その手際は、もはや職人技といっていい。

 そういえばマッツが昨日のステージで、ベルトコンベア撮影について謝罪したという切り抜き記事があった。「希望者全員に会うにはこうするしかないんだ。だから先に謝っておくよ」そんな感じのことを言っていた。ひとりずつ交流する時間を犠牲にするかわり、ひとりでも多く写真を撮ることを選択したわけだ。その結果が、この爆速ベルトコンベアだ。

 参加者は、次々にマッツに殺されて笑顔で去っていく。私が見た限りでは、女性参加者の半分以上はバックハグで殺されていた。大人気だ。

 それを見ていたら、私の中で優柔不断がむずむずしだした。

 私もマッツに殺されたい。

 ……い、いまさら!?

 なんでもっと早く言わないの! もうそこにマッツいるんだよ!

 でも、実際そうなのだ。殺されて喜んでいる人たちがうらやましくて当日券を買ったのだから、至極しごく納得の願望なのだが、なぜ今まで気づかなかったのか。我が本音よ、お前はもうちょっとちゃんと自己主張しなさい。

 Kill me.

 Hug me.

 どっちにする?

 うぅぅぅぅぅぅぅ、決められない。嗚呼ああ、優柔不断。

 そうこうしているうちに、私の番が来てしまった。前の人の撮影が終わり、マッツがこっちを向く。

 もうだめだ、決めるしかない。

 ええぃ、ハグだ! ハグでいくぞ!

 そう、私はマッツがこっちを向いてから、ようやく決断したのである。よって出だしがすでに遅れている。だが足だけはベルトコンベアに乗っていた。無意識化で完全に場の空気に操られていた私は、この速い流れを止めまいと足を進めていたのだ。

 慌てて「Hi」を言いながらハグのジェスチャーを作った。頭の中では、だっこをねだる子どものように腕を上げていたつもりだった。しかし実際は四十肩のペンギン、もしくはキューピーちゃんって感じだったと思う。ギクシャクした動きのキューピーが「Hi」とにやけながら近づいてくるなんて、ほぼホラーだ。

 しかしマッツは、こんな無様な私にも優しかった。さっと右腕を広げて、私の肩を抱き寄せてくれた。

 私はそこで大人しく、マッツの優しさにすべてをゆだねておけばよかったのだ。

 しかし、ハグもどきをしたまま行き場を失った右腕が、性懲しょうこりもなくマッツの胴へ伸びていた。しかし腕を伸ばしきることもできず、手はマッツのお腹の上に不時着した。あ、だめな気がする。

 シャッターが切られた。

 マッツから離れ「Thank you」を言う。けれどマッツの顔は遥か頭上にあって、私はマッツの胸板にお礼を言っていた。

 ブースを出た私はやはり腑抜けと化しながら荷物を取り、通路を歩く。

 でき上がった写真を見た瞬間、やっぱり、と天を仰いだ。

 マッツのお腹に添えた私の右手は、お腹というよりも、もうちょっと下、ぎりぎり不穏ふおんな場所にあった。

 いっそのこと腕をぐるっと回してしまえばまだ救いもあったのに、明らかに手をからたちが悪い。確かに手を置いたときに、なんかこう、ウェストとパンツの段差のようなものを感じた気がしたのだ。嫌な予感はしたけど、そのときにはもう手遅れだった。

 これだけは、声を大にして言わせてほしい。

 断じてそんなつもりはなかったんだ!

 すべては身長差のせいだ。だって、まさか人間のウェストがあんな上にあるなんて思わないじゃん……信じてくれマッツ。ほんとごめん、マッツ。

 マッツの表情も、どこか困っているように見えなくもない。もともとこういう撮影でニッコリ笑うタイプの人ではないみたいだけど、それにしても、真顔に近い気がする。無理もない。本当に申し訳ない。

 そして私の顔も、ぎりぎり事故っている。

 ああ、今すぐ消えてなくなりたい。

 アバダ・ケダブラ。


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