病院のふりかけ

朝吹

病院のふりかけ


 お隣りの某国では兵役が義務づけられている。

 多くの若者が共有しているこの兵役体験。某国の男性が寄り集まると途端に「軍隊」の話題になるのは当然だろう。この話が始まると、入隊したことがない人間は話題から置き去りにされてしまう。某国女性の「男たちのここが嫌」の上位に、この軍隊トークがくるそうだ。


 同様に、母親になった女たちにも共通のトークがある。幼い子を連れて公園で出逢う見知らぬママ同士が話題につまった時に、とりあえず話が繋がる無難な共通項として「出産体験」があるのだ。

 どこの病院で出産したの? あそこの産院は食事が豪華なんでしょ。実は難産で二日間かかったのよ。それは大変。

 今も昔も出産は一大イベントには違いない。この出産前後にやってしまった夫の失敗は死ぬまで妻から蒸し返されて責められるということになっているので、男性は心されたい。

 

 その出産だが、順番として当然ながら妊娠の判明と告知というものが先にある。医師から懐妊の事実を告げられた時の受け止め方はそれぞれの事情によるだろう。

 その知らせを、病院でわたしも聴いた。

 わたしの余命宣告と共に。



 語尾ごびが消えるという表現がある。

「妊娠されておられる。おめでとうござい……」

 まさしくその時、医師の語尾は消えていた。医師自身もこんなに暗い声音で、眼を泳がせながら妊娠を告げたことは過去になかったのではないだろうか。

 診察室で丸椅子に座っていたわたしも固まっていた。

 一度、待合室に追い出された。

 かなり経ってから呼び出された。今度は診察室ではなく別の小部屋に通された。看護師が付添う中、医師は淡々と説明した。

 確かに妊娠していた。

 同時に告げられたわたしの病は手術不可避。手術をしたとしても、五年後の生存率はXXパーセント。



 病院からの帰り道、いつもそうするように最寄り駅の一つ手前で降りた。セカンド・オピニオンのことを考えていた。これは病院に不審があるのではない。大きな治療にあたる際、患者としては心理的に他の病院の意見も欲しいものなのだ。

 線路沿いが散歩道になっている。柿色の夕陽がきれいだった。暮れてゆく町を家まで歩いて帰った。夫は仕事で夜遅くにしか帰らない。

 五年後の生存率XXパーセント。低い数値だった。ほぼ死ぬ宣告だ。

 妊娠の告知も大きい。病名の告知と数年後の生存率が教えるものも大きい。さらには治療に差し障るお腹の子は諦めることになった。妊娠の継続は不可能だというのだ。

 そうか。

 生んであげられなくて悪かった。ごめんね。

 もし仮に生むことが出来たなら、いまお腹にいるこの子はどんな子に育ったのだろう。

 線路沿いの道。カーブに差し掛かった電車が車体を傾かせて過ぎてゆく。夕映えの空を区切っている電線の細い影。

 そうなんだね。

 この先五年以内にわたしが死んだとしても、お腹にいるこの子が先に向こうで待っていると想えば、怖くもないし寂しくもないなぁ。



 次の診察日に予約どおり、病院に行った。前回は深刻な顔つきだった担当医がなぜか満面の笑顔になっていた。

 その背後には何人かの白衣が控えており、その人たちも不自然なほどに笑みを浮かべている。その笑顔はなに。

「というわけで、この流れでいきましょう。母子ともに助かる可能性にかけましょう!」

 今後の治療方針の説明を受けた。どうやら前回と今回のあいだに院内のカンファレンスで「これならいけるんじゃないか」と話し合いが行われたらしいのだ。患者そっちのけで。


 わたしは常日頃、病院に対して協力的な患者であろうと努めている。医師の云うことをよく聞き、時間を無駄に使わせず、医師の性格にあわせて対応も変えている。その昔、ひそかに『陰気なねずみ』と綽名していた、下を向いてぼそぼそと喋るしみったれた愛想なしの開業医に対しては、わたしの方も下を向いてぼそぼそと喋るという方法で乗り切った。

 病院に不満があるのならば四の五の云わずに自分が病院を変えるべきなのだ。


 なのでこの時も余計なことは云わなかった。百八十度方向転換した今後について、しっかりと話をきいた。

「わかりました。お願いします」

「では、そういうことで」

 えいえいおー。試合を控えた部活みたいに医療チーム一丸となり励まし合い、「頑張りましょうね!」看護師にも力いっぱい応援されて、病院から家に帰った。

 べつに何の不満もございません。でももしも、患者が極度に想い詰める性格で前回と今回の診察のあいだに悲嘆に暮れるあまりに、どうにかなっていたら、どうするつもりだったんだろうとは少し想った。


 

 そこから数か月は飛ぶように過ぎる。胎児は早期にお腹から出すことになっていた。保育器で大きくするのだ。昔だったらとうてい助からない未熟児でも今は助かる。

「ぎりぎりまで月齢を引っ張りましょう」

 生存率やらそれに伴う障害。母体がそのあと長い治療に入るので胎児に先天的な障害があるかないかも事前に調べた。

 ふってわいた妊娠。新生児のための準備をするのに追われて、自分の病のことは考え込む暇がなかったのはかえって良かった。


 通院していた病院は医学部附属病院だった。

 医学部附属病院は医者のたまごが学ぶ場でもある。未熟児を取り出し、ついでに病巣も切除する一粒で二度おいしい手術は学生が見学するのにもってこいだった。

「学生がたくさん来るけれどいいかな」と訊かれた。

 医師や看護師といつも朗らかに雑談していたので、この患者ならナーバスなこともないし見学を打診しても大丈夫と見做されたのだろう。

「いいですよ」

 死ぬかもしれない助かるかもしれない、ここで暗くなってみても結果は変わらない。お役に立つならどうぞ。

「そのかわり学生さんたちには『頑張れーって心の中で応援して下さい』と患者が云っていたと伝えて先生」

「わかったわかった」


 生活も今までと変えなかった。ライブも観に行った。

 胎教?

 なんですかそれ。



 附属病院にはいろんな試みがあって心理面のサポート役もいたのだが、わたしの受け答えをみて用なしと判断したのだろう、もっと不安定な患者の役に立つために早々に姿を消した。後日、見かけたところ、心理士は項垂れている患者の前に膝をつき、両手を握りしめて何か言葉をかけていた。患者たるもの、あのように振舞えばよかった。

 病院はいつも混んでいた。

「病床が空いてないから直前に来て」とカジュアルに云われて術前入院が大幅に短縮になったし、術後も早い段階で個室から追い出された。大手術だったのだが。


 手術当日。床に引かれたラインを境に、早朝から付き添っていた夫と別れた。ラインの向こうには全身を術衣で覆った医療チームが横一列に並んでわたしを迎えに来ていた。彼らは云った。

「さあ、行きましょう」

 宇宙飛行に行くような気分。旅立つ先は何処だろう。

 開腹しても手術不可能(inoperable)になるかもしれない。もしかしたら生きて再会することはないかもしれない。なのにラインを跨ぐまで、「じゃあ」くらいしか夫とは言葉を交わしていない。後から想い返せばこの時すでに予兆はあったのだ。

 見学の学生さんたちが緊張した面持ちで術室に入って来た。

「わかったわかった」

 あの先生、伝言をちゃんと伝えてくれたかなぁ。

 指導教官が体外に出された赤子を医学生に見せている。真っ赤な林檎に見えた。想像以上に小さかった。そこで意識は消える。そのまま術台で死んでいたらこの世で最期にわたしが眼にした光景は、「この赤ちゃん、ちっさ」あまりにも小さな未熟児にびびっている学生たちの顔だ。



 ご主人が……。

 

 そんな声がしていた。



 地域の役所と繋いでくれるケースワーカーが病院には常駐している。そのケースワーカーが術後の病室に見舞いに来た。彼女は云った。

「今は、母体と赤ちゃんのことだけを考えましょうね」

 その場にいるはずの夫がいなかった。

 夫は病院から失踪していた。



 ——顔つきの悪い腫瘍です。このままにしておくと、どんどん広がります。ほうせんかの種のように病巣が体内に飛び散っていくでしょう。


 最初に説明を受けた時の、ほうせんかの種のようにという比喩がいつまでも頭に残っていた。

 顔つきの悪い腫瘍はわたしの臓器を内側から壊していく。一か所だけならそこを切除すればよいのだが、とびとびに広がっていくのだそうだ。

 わたしが死に直面したのは九歳の時だ。

 同級生の女の子が白血病で死んだ。

 ほとんど入院していた彼女はたまに学校に来た。そんな時には家に招かれた。学校に通うことが出来ない彼女の家にはたくさんの漫画が全巻揃えておいてあり、招待された子どもたちは漫画を読むことに夢中になった。その子との遊びがいつも疎かになっていたことが悔やまれる。

「また明日ね」

 そう約束したが、そのまま彼女はまた病院に戻ってしまい、帰って来なかった。

 棺の中で目を閉じていた九歳の女の子。


 腫瘍を完全に取り切れるかどうか。それが分かれ道となる手術だった。執刀したのは手術予定日が近くなってきた頃にふらりと現れた女医だ。

「ここからは、わたしです」

 女医は自信ありげに微笑んだ。

 突然やって来たその女医は説明も明快で無駄がなく、他の医師とのやりとりも牽引していた。学生時代からずっとトップの座を明け渡したことがない、そんな雰囲気だった。

 そして女医は病巣を取り除いた。

 五年後の生存率XXパーセントと云われたが、そのXXパーセントに入り、さらに再発していない。

 十一年、病院に通った。最後に「今日で病院通いも終わりです」と女医に云われた時には、お互い感無量で、「先生ありがとうございました」「お元気で」と女医と喜び合った。十二月だった。病院の吹き抜けには大きなクリスマスツリーが飾られていた。



 術後の病院食は重湯からはじまる。しだいに三分、五分とお粥が濃くなる。

「病院の食事は薄味で飽きる。ふりかけを持っていくといい」

 そんなライフハックをもとに、ふりかけを買って荷物に入れていた。ふと想い出して鞄からふりかけを取り出した。

 ふりかけは、『きかんしゃトーマス』の柄のものだった。

 わたしは普段、キャラクターものを好まない。ましてや男児の好むキャラクターなどまったくといっていいほど関心がなかった。

 お腹にいる子は男の子だと事前にわかっていた。生まれたら、見せてやろうと想ったのだ。母親がもし術中に死んでしまっても、こんなものでも残っていれば、想っていなかったわけではないことが分かるだろう。これは、あなたのふりかけ。



 人間、あまりにも一度にいろいろ押し寄せると頭が真っ白になるというが、その時はそんな感じだった。

 夫が失踪してしまったのだ。連絡がつかない。わたしは赤子と病院に残されてしまったらしいのだ。 

 誰も帰らない家には、新生児の用意だけが待っている。もし不帰の人となった時のために全てのものに説明のメモをつけておいたのだが、家に戻らないのはどうやら夫のほうらしい。

 ベッドサイドの棚においた『きかんしゃトーマス』のふりかけ。

 夫が消えた。つまり、わたしは未熟児を抱えた余命のあやしいシングルマザーになってしまったのだ。

 病理検査の結果待ちだが、五年後の生存率に変化はないかもしれない。今この瞬間にも病巣が散弾銃のように体内で細胞を壊し、もっと悪くなっているかもしれない。

 

 看護師さんが車いすを押してNICU(新生児特定集中治療室)に連れて行ってくれた。保育器の中には焼き方を失敗したロールパンみたいなのがでろっと寝ていた。ほんとうに育つのだろうかこれ。

 ひっきりなしに警報音が鳴る赤ちゃんだらけのINCU。父親はいない。余命は五年。わたしが死んだらこの子はどうなるのだろう。

 何も考えられなかった。無の境地だった。病室に戻ったらイヤホンをつけて音楽を聴いた。

 後で考えよう。

 窓際のベッドは空調のせいなのか隙間風なのか少しだけ寒い。音楽の世界に逃避しながら、わたしは自分に云いきかせていた。

 何もかも考えるのは後だ。後でいい。まずは回復だ。

 そこへコップ一杯ほどの水が降りかかってきた。

 使用中の人口呼吸器を調節していた看護師さんのミスだ。ベッドが水浸しになった。あり得ない出来事に笑いたいのだが傷口が痛くて笑えない。駈けつけた看護師さんたちがせーの! で瞬く間にベッドメイキングを終え、わたしを乾かした。

 ほら、きれいになった。

 きっと、どうにかなるだろう。



[了]


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 夫はどこに行ったんだというあとがきです。

 実はわたしが術室に消えた後、夫の体調が急変しておりました。同じ病院内で診てもらおうとしたらしいのですが、事情を話さないものだから断られ、夫は病院の外に出て行って、ふらつきながら診てもらえる病院を探しに行き、そのまま寝付いていました。

 人事不省になるのは仕方なくても、出ていく前に看護師に伝言を残しておくべきじゃない? と現在もわたしからチクチク云われています。

「出産前後に夫がやった失敗は一生云われるらしいですよ」

 事前にあれほど念を押しておいたのに、なんでそんな派手なことをやるかな。

 具体的な病名とXX%の数字は明記しません。奇跡の生還に近いです。

 子どものほうは、ごく平均的な子に育ちました。こねかたを間違えたパンみたいなあの形態からよくも人間に育つものだと医学の力に感心しています。


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