overture-3
「ねえ。あなた、傭兵なんでしょう? わたしに雇われてくれない?」
ダマスの目の奥は静かだった。
憤ったり、うまい話に前のめりになったりすることもなく、どう反応されるかがまだ読めない。
(やっぱり、思慮深い人なんだろうけど――)
話を最後まで聞いた後で、「そういうことか」とさらに酷い目に遭う可能性もゼロではない。
どうしよう――迷ったが、いった。
賭けだ。
「この屋敷にある秘密の通路を見つけたの。開け方を教えるから、そこを通ってわたしを家まで連れていって。パパにいって、好きなだけお金をあげるから」
ここは傭兵部隊のはずだ。ダマスも傭兵で金で解放軍に雇われているなら、雇い直せばいいのだ。
ダマスはしばらく黙ってから、いった。
「なら、二千リル」
「二千?」
「いまの俺の日当は三十リルだ。職無しになるなら、三年分はほしいね。それに、裏切ったら、こいつらが滅びるまでまともに暮らせない。とすると、逃走資金としてあと二年分は欲しい。というわけで、二千リル。払えるのか?」
二千リルは、膨大な額だ。
でも、シルリアの父はタシェきっての資産家で、世間ではまだ珍しい車も飛行機も所有している。
娘の無事と引き換えなら、その程度なら父は払ってくれるだろう。
シルリアの名義で相続している土地も資産もいくらかある。
そのあたりを整理すれば、自分の力でもどうにかなるはずだ。
「払え、る……と、思う。それくらいなら」
ダマスは右手をさしだした。
「ふつう、前金をもらうんだが」
「前金?」
「相場じゃ報酬の半値だよ。出せるか」
ダマスを見上げるシルリアの目が険しくなった。
どこの誰が、そんな大金を持ち歩くというのだ。
お金の代わりになりそうな指輪やネックレスも、ひとつ残らずとっくに奪い取られていた。
「そんなお金、いまはもってない」
「じゃあ無理だ。雇い主として信用できない」
「そんな――」
シルリアが大金をもっていないことなど、問う前からわかっていたくせに。
無理難題をわざと突きつけられただけだった。
睨むと、ダマスはからかうように笑った。
「不満か? なら、タシェの高級娼館で一番高い女って、知ってるか」
「タレイユ御前のこと?」
「ああ。その女の一晩の値段が二百リルって話だ。あんたもその娼婦みたいにすれば、いまここでも稼げると思うけど?」
タレイユ御前という高級娼婦は、かなりの有名人だ。
その美女とたった一晩を過ごすために、巨額のお金を払う男が後を絶たないそうだ。
客も政界、財界の大物ばかりとかで、実際にその女は、同じ人間とは思えないくらいの美貌を誇る。新聞にも載ったことがあって、タレイユ御前を描いたポスターも街で人気だ。娼館に縁のない人にまで名の知れた、類を見ない美女だった。
「わたしが?」
「ああ、どうする? いまここで前金分を俺に払う? 身体で。二百リル分でいいよ」
娼婦がどんな人たちなのかは一応知識としては知っている。
タレイユ御前の美貌がもてはやされようが、男を相手にする下品な商売人だと煙たがる人も大勢いたし、そういう人たちの気持ちも分かる。
それにこれでも、結婚前の若い娘である。
結婚に憧れがないので片っ端から断っているが、資産家の一人娘なので、見合い話も多かった。
「あの、タレイユ御前が一晩で二百リル稼ぐとして、わたしじゃそんな高値はつかないでしょう? 無理無理。そんなにいい話があるわけがない。あなたのいうことを聞いたところで無駄じゃない?」
「買う側が二百リル払うといえば、あんたの一晩の値段は二百だろ? 二百でいいよ」
書棚に張りつくようなシルリアに、ダマスはゆっくり近づいてくる。
両手が、シルリアの肩を囲んで書棚についた。
絹のシャツに軍服が触れて、柔らかな音が鳴る。
そこまで近づけば、体温や匂いも感じるようになる。
間近で見れば、ダマスの肩幅は思っていたよりずっと広く、部屋の明かりが遮られて目の前が暗くなる。鍛えられた軍人の腕は太かった。見慣れた女の細腕とはまったくの別物だ。顔もどんどん近づいてくる。
もはや壁だ。世界から遮断されていく。
この男と二人だけの世界へ――そんなことになってたまるかと、シルリアは横顔を向けて抗議した。
「それは大変いい条件かもしれないのですが、まだあなたの話に乗るといったわけではないわけで、とにかく、契約前じゃないですか? 勝手に話を進めないでもらえますか。近い。だから、近い――」
「急ぐんだろ? 連中が戻ってきたら、逃げられるチャンスも消えると思うよ」
「それはそうなんですけど、でもですね。命とこういうのの、どちらが大事かっていわれたら命なんだけど、でもですね……」
懸命に声をしぼりだしていると、ふふっと笑い声が聞こえた。
そうかと思えば、額の横あたりの髪に軽く唇が触れる。
「残りは、後払いでいいよ」
人肌のぬくもりと匂い、目の前で壁になっていた大きな身体が、ゆっくり離れていく。
呆然と見上げたシルリアの顔を見下ろして、ダマスはぷっと噴きだした。
「契約成立っていうことでいい? 秘密の通路っていうのを見つけたっていったな。見せてくれ。少しくらい物音を立てても、いまなら誰も近寄らないから」
「え? あ、うん……」
契約成立?
残りは、後払い?
なにか、前金になるようなことをしたっけ――。
頭はぼんやりしていたが、「早くしろ」とダマスにせっつかれるので、シルリアも手作業に戻る。
床にしゃがみ込んで、木製タイルを見せた。
「これよ。暗号なの。入り口は書棚にあるはず」
書棚の本を避けて、棚の奥を調べる。
一部の棚の奥に、鉄片が十個ぶら下がっている。
「からくり装置よ。お爺ちゃんの家にあったのと一緒だわ」
鉄琴のように並んで下がる鉄片を暗号の通りに一つずつ上下させると、十個目をいじったところでゴトリと鈍い石音が鳴る。書棚に隠された扉の鍵が外れた。
書棚が奥へ動くようになった。押しやると、石造りの階段がある。
「ここを下りれば通路があるはずよ。お爺ちゃんの家と同じなら、敷地の外に出るはず」
「わかった。――ライトがいるな」
ポケットから小型ライトを出して階段室を照らし、ダマスが先に階段を下りていく。
「いこう。気をつけろ」
「うん――」
ダマスはむかしからの仲間のようにシルリアを誘導して世話を焼いたが、ダマスの背中を追って暗い階段を下りていくあいだも、隠し通路を進んでいくあいだも、シルリアは妙な気分が拭えなかった。
傭兵というのは、本当にお金で動くのだ。
お金さえ払えば、平気で雇い主を裏切るのだ。汚い人だ――。
でも、わたしはお金を払ったっけ?
払っていない……よなあ?
箱入り娘と傭兵 円堂 豆子 @end55
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